ウィキペディアで学ぶ「牧野富太郎」博士(1862~1957/1/18)

【はじめに】
この記事では、日本の植物学の父」というあだ名を持ち、2023年度前期のNHK連続テレビ小説らんまん』でモデルとなる予定の【牧野富太郎】博士についてウィキペディアでまとめていきます。

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牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日文久2年4月24日) – 1957年昭和32年)1月18日)は、日本植物学者高知県高岡郡佐川町出身。位階従三位

牧野富太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下省略 )

概要

日本の植物学の父といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て生まれた日は「植物学の日」に制定された。

94歳で亡くなる直前まで、日本全国をまわって膨大な数の植物標本を作製した。個人的に所蔵していた分だけでも40万枚に及び、命名植物は1,500種類を数える。野生植物だけでなく、野菜や花卉なども含まれ、身近にある植物すべてが研究対象となっていたことが、日本植物学の父と言われる所以である。

生涯

1862年文久2年)、土佐国佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)で、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家酒造業を営む裕福な家に生まれた。幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。

10歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、11歳になると郷校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者伊藤蘭林(1815年1895年)に学んだ。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。

名教館は学制改革により、校舎はそのままに佐川小学校となった。そこへ入学したものの2年で中退し、好きな植物採集に明け暮れる生活を送るようになる。小学校を中退した理由として、造り酒屋の跡取りだったので、小学校などで学業を修め、学問で身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている。

佐川で勉強するだけでは物足りなくなった富太郎は、植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、17歳になると高知師範学校の教師永沼小一郎を通じて欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになる。牧野は自叙伝で「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と記している。

そして、江戸時代本草学者小野蘭山の手による「本草綱目啓蒙」に出会い、本草学とりわけ植物学に傾倒する。自らを「植物の精(精霊)」だと感じ、日本中の植物を同書のようにまとめ上げる夢を抱き、それは自分にしかできない仕事だと確信するようになる。そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した。

富太郎は本格的な植物学を志し、明治17年(1884年)、22歳の時に再び上京する。そこで帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する。そのとき、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送っている。富太郎は天性の描画力にも恵まれており、マキシモヴィッチから図を絶賛する返事が届いた。

26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う植物図鑑のはしりである。かねてより音信のあったロシアの植物学者マキシモヴィッチからも高く評価された。この時期、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、研究費を湯水の如く使ったこともあり実家の経営も傾いていった。

1889年(明治22年)、27歳で新種の植物を発見。『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけた。1890年明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。

逸話

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  • 植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。
  • 植物研究のため、造り酒屋であった実家の財産を使ったが、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し、やむなく妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。しかし、学内には富太郎の植物に対する情熱とその業績を高く評価する者も多く、78歳まで実に47年のあいだ、東大植物学教室になくてはならない講師として日本の植物学に貢献した。
  • 富太郎の金銭感覚の欠如や、周囲の人にたいする彼の振る舞いにまつわる逸話は多い。しかし富太郎を追い出した松村任三自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。後年、富太郎は松村が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると賞讃した。
  • 尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採ったため、尾瀬の保護運動の第一人者であった平野長蔵が研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある。
  • 多くの植物の命名を行い「雑草という草は無い」という言葉を残している。
  • 詩人児童文学作家山本和夫が自宅を訪れた際は、記念写真を撮るなど親交があった。
  • 生地の佐川町では、牧野富太郎を主人公にした連続テレビ小説の誘致活動が行われ、2023年度前期の連続テレビ小説「らんまん」の主人公・槙野万太郎のモデルとなることが決定した。神木隆之介が演じる。
  • 2021年に牧野富太郎の名を冠し、亡き妻・寿衛子の名をつけたスエコザサなどを原料にした、高知県初のクラフトジン、「マキノジン」が作られた。

発見、命名した植物
命名は2500種以上(新種1000、新変種1500)とされる。自らの新種発見も600種余りとされる。

発見、命名した植物の例
ムジナモ、センダイヤザクラ、トサトラフタケ、ヨコグラツクバネ、アオテンナンショウ、コオロギラン、スエコザサ

牧野を題材・ヒントにしている作品

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