【はじめに】
この記事では、私の「Rxヒット指標」に基づき歌手/アーティストのヒット曲を振り返っていきます。今回取り上げるのは「瀬川瑛子」さんです。
股旅歌謡やマドロス歌謡で人気を博し、紅白歌合戦出場歴もある父親の瀬川伸が流行歌手に育てるべく、5歳の頃から姉と共にレッスンを受けていた。父のステージの前座を経て、1967年にデビュー(当初の芸名は瀬川 映子)。地道に活動を続け、1970年に「長崎の夜はむらさき」が50万枚のヒットを記録した。
その後、ご当地歌謡が続いたことからしばらく低迷するが、1983年には船村徹の好意で、ちあきなおみや細川たかしらとの競作で「矢切の渡し」をレコーディングし、30万枚を売り上げる。
そして、1986年には夫婦の情愛を描いた「命くれない」が1987年度オリコンシングルチャート年間1位を記録し、ミリオンセールスを記録して大ヒット。自身の代名詞的な曲となる。
瀬川瑛子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Rxヒット指標にみる「瀬川瑛子」さんの上位3曲
早速、Rxヒット指標にみる「瀬川瑛子」さんのヒット曲のうち、上位3曲を見ていく事にしましょう。
2位:70万pt(1970年)『長崎の夜はむらさき』
瀬川は1967年に「涙の影法師」でデビュー以来、累計売上約50万枚と初ヒット・シングルとなった。しかしその後の瀬川はヒット曲が出ず、15年以上不遇の時代を過ごしたが、1986年発売の「命くれない」が、翌1987年から1988年にかけて大ブレイクを果たすこととなる。
長崎の夜はむらさき
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦後、歌謡曲の舞台であり続けた「長崎」のきらやかな夜を歌った良曲だと感じます。80年代以降に多くのタレントにモノマネされていた時の歌唱と比べても、ストレートでオーソドックスな印象です。
1位:230万pt(1986年)『命くれない』
1986年の発売開始当初は鳴かず飛ばずであり、発売時のレコード店からの予約枚数は「1860枚とちょっと」であったという。
しかし、1987年に入ってから徐々に有線で上位にランクされるようになる。1988年1月下旬に100万枚目のレコードをプレスし、累計では170万枚を売り上げた。
命くれない
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この曲の大ヒットにより、1987年暮れの『第38回NHK紅白歌合戦』に瀬川瑛子自身念願の初出場を果たした。
なお、瑛子の実父である瀬川伸も1952年1月の『第2回紅白』と、1956年12月の『第7回紅白』に過去2回出場しており、史上初めて実の親子の紅白歌合戦出場が実現となった。
オリコンチャートでは、最も低い年間売り上げ(42万3千枚)と最も低い最高順位(6位)での年間シングルチャート1位(1987年度)に輝いた。
( 同上 )
Rxヒット指標では、公称を含めた売上枚数で得点換算しているため、累計得点は230万ptとなっていますが、その値をオリコンでの売上ベースにしても、ミリオンヒット相当のヒット曲だったということが示される人気ぶりだと思います。
レコードの売上だけでヒット度合いが測れなかったり、或いはアーティスト人気などによって初動型が極まってしまう傾向となっていた時代にあって、演歌として最後に年間チャート総合1位を飾ったことは大きく評価するに値しますし、この230万ptというのは、その評価を具現化した数字としては一定の説得力をもったものではないかと思います。
3位:40万pt(1988年)『憂き世川』
1986年3月に発売された『命くれない』が、翌1987年~1988年に掛けてロングセラーの最中、当楽曲も相乗効果でロング・ヒット作となる。
同曲で瀬川は昨1987年に引き続き、1988年「第39回NHK紅白歌合戦」へ、2年連続2回目の出場を果たした。
憂き世川
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
最高順位ではTop10入りを逃したものの、『命くれない』につられる形で売上を伸ばし、わが独自指標でも3位にランクインしています。
コメント