ウィキペディアで学ぶ「笠置シヅ子」+Rxヒットアーティスト列伝

【はじめに】
この記事では、私の「Rxヒット指標」に基づき歌手/アーティストのヒット曲を振り返っていきます。今回取り上げるのは、「笠置シヅ子」さんです。

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笠置 シヅ子(かさぎ シヅこ、1914年大正3年)8月25日 – 1985年昭和60年)3月30日)は、日本歌手女優

笠置シヅ子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下省略 )

ウィキペディアにみる「笠置シヅ子」

本名は亀井 静子(かめい しずこ)。戦前から戦後にかけて活躍し、特に戦後は「ブギの女王」として一世を風靡した。特に、躍動感に乏しい楽曲と直立不動で歌うソロ歌手しか存在しなかった戦後の邦楽界に、躍動感のあるリズムの楽曲と派手なダンスパフォーマンスを導入したことで革命的な存在となった。シヅ子の歌は今日に至るまでたびたびカヴァーされ、日本のポップスに多大な影響を与え続けている。東京ブギウギが特に有名である。

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生い立ちから歌手デビュー

  • 1914年(大正3年)8月25日に香川県大川郡相生村(現:東かがわ市)黒羽で生まれる。
  • 1927年昭和2年)に小学校を卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験する。歌唱力と踊りは申し分無かったが、上背が小さいことと極度の痩せ型だったために過酷な宝塚生活に耐えられないのでは無いかとの学校側の判断により不合格となった。
    しかし同年、「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校である日本歌劇学校の前身)を受験・合格し、娘役・三笠 静子の芸名で「日本八景踊り」で初舞台を踏む。
  • その後、1933年(昭和8年)に「秋のおどり・女鳴神」に出演すると、翌年には日本コロムビアから「恋のステップ」でレコードデビューを果たす。なお、1935年(昭和10年)に昭和天皇の末弟である澄宮崇仁親王が「三笠宮家」を創立したのを機に、三笠姓を避諱して「笠置 シズ子」へ改名している。

戦時中~劇団解散と慰問活動

  • 1938年(昭和13年)に帝国劇場で旗揚げした「松竹楽劇団」(SGD)に参加し、服部良一と出会う。シズ子はのちに服部とのコンビでジャズ歌手として売り出すが、当時の日本は前年に勃発した日中戦争以降戦時色が濃くなっていき……1939年(昭和14年)には劇場への出演を禁じられる。
    松竹楽劇団は1941年(昭和16年)に解散し、その後は「笠置シズ子とその楽団」を結成して各地で慰問活動を行う。

ブギの女王として

  • シズ子は1945年(昭和20年)11月に再開場した日本劇場の最初のショーから出演し、1947年(昭和22年)の「踊る漫画祭り・浦島再び龍宮へ行く」で歌った、服部作曲の「東京ブギウギ」が大ヒットした。服部はシズ子の歌曲の大半を手掛けており、これ以降は「大阪ブギウギ」「買物ブギ」など一連の「ブギもの」をヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれる。
    その後、美空ひばりが登場するまでスーパースターとして芸能界に君臨し、ひばりはシズ子の物真似から有名になったほどであるが、(後略)

歌手廃業、女優へ

  • ブギが下火となった1957年(昭和32年)頃、シズ子は歌手廃業を宣言した。理由は「観客を満足させる歌声、踊りが披露できなくなったから」「一人娘の育児を優先」と言われていたが、これについて後年に出演したテレビの対談番組で語ったところによれば「廃業の理由は『太りかけたから』」だったと告白した。……「自分の一番いい時代(ブギの女王としての全盛期の栄華)を自ら汚す必要は無い」とも語っている。その後、シズ子は「笠置 シヅ子」と改名して女優活動に専念する。
    シヅ子は引退後も公私問わず、鼻歌に至るまで一切歌を歌わなかったと遺族は証言している。

Rxヒット指標にみる「笠置シヅ子」さんの代表曲5曲

まず、私(Rx)のヒット指標による「笠置シヅ子」さんの代表曲をみていきましょう。(↓)

集計方法や企画の主旨については、下の記事に纏めてありますので初見の方はぜひご覧ください(↑)

1位:185万pt(1948年)『東京ブギウギ』

東京ブギウギ」(とうきょうブギウギ)とは、鈴木勝作詞服部良一作曲笠置シヅ子の歌唱により、1947年発表(ただしレコード発売は翌年1月)されてヒットしたブギのリズムによる日本の歌謡曲であり、「青い山脈」「リンゴの唄」などと並んで、終戦直後の日本を象徴する曲として有名である。

東京ブギウギ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

概要
1947年12月公開の日本映画「春の饗宴」劇中歌。
東京ブギウギの大ヒットは、当時笠置が10月14日から翌月まで公演を行っていた「踊る漫画祭・浦島再び竜宮へ行く」(日劇)の挿入歌として歌われたことがきっかけとされている。ただし、この曲が最初に歌われたのはそれ以前の9月、大阪の梅田劇場(現・HEP)でのことであった。

作曲した服部は、電車に乗っている時レールのジョイントの音と吊革の網棚の淵に当たる音からメロディを思いつき、急ぎ駅を降り飛び込んだ喫茶店のナプキンに書いた。ただし、小川寛興の証言では、楽譜を紛失した服部が記憶をもとに書き直したものとしている。なお、笠置の吹き込み時にはスタジオに米軍関係者も詰めかけ、彼らの声援の中大乗りの雰囲気で行われた。

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当時、歌手は直立不動で歌うのが通例であったが、笠置は舞台上をダイナミックに動き回りながら歌い踊っており、その姿は戦後の解放的な気分の反映であるとされた。発売当時のレコード売上は27万枚を記録した。1968年時点での累計売上は70万枚。

3位:10万pt(1949年)『ジャングル・ブギー』

ジャングル・ブギー」は、黒澤明作詞、服部良一作曲による歌謡曲である。“ブギの女王”として一世を風靡した笠置シヅ子が歌って、1948年にシングルレコードが発売された。

ジャングル・ブギー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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概要
黒澤明監督の映画『酔いどれ天使』の劇中歌として使われ、黒澤監督自らがこの歌の作詞を担当した。笠置シヅ子も「ブギを歌う女」として出演し、三船敏郎木暮実千代らが登場する酒場でのダンスシーンで自ら歌い踊っている。 歌詞の「骨も溶けるような恋」は元々「腰も抜けるような恋」だった。笠置が「(卑猥すぎて)歌えない」と拒絶したために黒澤が書き換えたものである。

題名の通り、まさにジャングルをイメージしたような独特のメロディーで、笠置シヅ子の“吠える”ようなパンチのある歌声が、さらにジャングルの雰囲気を高めているような歌である。知名度では「東京ブギウギ」や「買物ブギー」と比較すればやや劣るものの、笠置シヅ子の代表曲の1つといえるヒット曲である。 なお題名は「買い物ブギー」と同様に、間違えて表記される事が多いが、「ジャングル・ブギー」であって「ジャングル・ブギ」ではない。

2位:70万pt(1950年)『買物ブギー』

買物ブギー」(かいものブギー)は、1950年(昭和25年)発売の笠置シヅ子の歌。作詞・作曲は服部良一(作詞は村雨まさを名義)。吹き込みは1950年(昭和25年)2月11日、発売は1950年(昭和25年)6月15日発売。レコード番号A822B。

買物ブギー
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1949年昭和24年)の日劇ショー(サンデー毎日主催)のために作られた。当時ちょうど入院していた服部を笠置が見舞い、新曲を頼まれた服部が頭に浮かんだのが上方落語の「無い物買い」であり、これをもとに詩を付け、5分以上の大作となった。評判となりレコーディングされたが、当時のSPレコードでは収録出来ないので短縮バージョンで行われた。立て続けに歌う複雑な歌詞に、流石の笠置も「ややこし、ややこし」とぼやいたのを、服部が面白がって急きょ曲に取り入れたという。笠置は下駄履きに買い物かごの扮装で歌い踊り、あまりの激しさにいつも下駄が真二つに割れてしまった。

レコード売上は45万枚に達した。笠置は本楽曲を1952年の「第2回NHK紅白歌合戦」で歌唱した。

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