ウィキペディアで学ぶ「夏のない年(Year Without a Summer)」

夏のない年(なつのないとし、英: Year Without a Summer)は、1816年に北ヨーロッパ、アメリカ合衆国北東部およびカナダ東部にて起こった、夏の異常気象(冷夏)により農作物が壊滅的な被害を受けた現象のことである。

この年の気候異常は、太陽活動の低下と、前年までの数年間、大火山の噴火が続いたことによる火山の冬の組み合わせにより引き起こされたと見る向きが大多数である。1815年のインドネシア中南部スンバワ島に位置するタンボラ山の噴火は、過去1600年間で最大規模である。

歴史家のジョン・デクスター・ポストは「夏のない年」を「西洋において最後で最大の危機」と呼んだ。

日本語版ウィキペディア > 夏のない年 より(以下同)

概要

1816年の気候異常はアメリカ北東部、カナダ東部および北ヨーロッパにおいて多大な影響を及ぼすことになった。

1816年5月、霜が発生したため農作物の大部分が壊滅的な被害を受けた。6月にはカナダ東部およびニューイングランドにおいて、2つの大きな吹雪により多数の死者が出た。6月初めにはケベックにおいて30cmもの積雪が観測され、農作物が害を被った。夏に栽培される植物の大部分は霜がわずかに発生しただけでも細胞壁が破壊されてしまい、まして土壌が雪で覆われてしまえばなおさらである。この結果、この地域では飢餓や伝染病が発生し、死亡率が上昇した。

7月と8月には、ペンシルベニア州南部で湖や河川の凍結が観測された。気温の急激な変化が頻発し、わずか数時間で平年以上の気温である35℃あたりから氷結するほどまで気温が低下することもあった。ニューイングランド南部においては農作物はある程度は成長したが、トウモロコシや穀物の価格が急騰した。例えば、エンバクの価格は前年は1m3あたり3.4ドルだったが、これが1m3あたり26ドルまで上昇した。

清(中国)においては特に北部で、寒さのために木々が枯れ、稲作や水牛も被害を受けた。残りの多くの農作物についても洪水によって壊滅した。

タンボラ山の噴火によって季節風の流れが変化したため[要出典]、長江で破滅的な大洪水が発生したのである。ムガル帝国(インド)においては、夏の季節風の遅れにより季節外れの激しい雨に見舞われ、コレラが蔓延した。

徳川家斉の治世下にあった日本では、この年(文化13年)は江戸四大飢饉に匹敵するほどの大規模な飢饉を引き起こす事態が発生しなかったため、一般には「夏のない年」の日本に与えた影響は小さかったとされており、時に「影響は存在しなかった」とさえ言われる場合もある。

しかし、歴史的事実としては全国的には冷夏が記録され、9月に四国・東海・関東で暴風雨と洪水が頻発し、東北地方は凶作、静岡(遠江国、駿河国、伊豆国)は不作となった。静岡における記録では小田原藩の本領地(相模国、伊豆国、駿河国)ではこの年のみ年貢米の収量が激減しており、新城や島田では不作に伴う年貢米減免を訴える一揆や強訴が発生している。

影響は広範囲に及び、翌年以降も続いた。1817年の冬は特に厳しく、気温が-32℃まで低下したこともあった。アッパー・ニューヨーク湾は凍結し、ブルックリン区からガバナーズ・アイランドまで馬そりで渡ることができた。

日本でもこの年(文化14年)も8月に九州で暴風雨と高潮、関東で干魃による凶作、冬は関東と甲府で降雪率(冬季全体日数に対する雪日数の比率)が江戸期で最大の値を記録する(ただし、弘前では減少に転じるなど地域差が見られた)等、各地で異常気象が相次いだ。

しかし、前年の凶作や異常気象も含めて大規模な飢饉に発展しなかったのは、天明の飢饉を教訓としたサツマイモをはじめとする救荒食の普及が各地で進んでいたことや、松平定信が寛政の改革で提示した藩政改革が各地の藩に広まっていたことの二点が功を奏した結果と考えられている。

原因

現在では一般的に、1816年の気候異常は前年5月5日から同月15日までのタンボラ山の噴火により引き起こされたと考えられている。過去1600年間で最大規模の噴火であり、火山爆発指数ではVEI=7に分類されている。噴火により莫大な量の火山灰が大気中に放出された。タンボラ山の噴火が起こった時期が、太陽活動が低かったダルトン極小期(1790年 – 1830年)であったことも重要である。

同時期に発生した大規模な噴火は以下の通り。

・1812年:カリブ海セントビンセント島のスフリエール山
・1812年:インドネシアサンギヘ諸島のアウ火山
・1813年:現在の鹿児島県鹿児島郡十島村の諏訪之瀬島
・1814年:フィリピンルソン島のマヨン山

これらの噴火により既に相当量の火山灰が大気中に放出されていた。これにタンボラ山の噴火が加わり、大量の火山灰により太陽光が遮られたため、世界的な気温の低下が引き起こされた。

From Wikimedia Commons, the free media repository File:Sumbawa Topography.png

「1815年のタンボラ山噴火」

1815年のタンボラ山の大噴火(英語: 1815 eruption of Mount Tambora)は、過去2世紀に世界で記録されたもののうち最大規模であり、記録の残る中では人類史上世界最大の火山噴火である。歴史時代において世界中で最大の犠牲者を出した火山災害となった。本項ではこの大噴火と、それによってもたらされた世界的な影響について解説する。

地球規模の異常気象

史上最大級の爆発であっただけに、この大噴火によって世界中に甚大な影響が及ぼされ、火山災害(犠牲者数)としての面でも「史上最悪」となった。

噴煙や火山灰が成層圏に達して火山性エアロゾルにより日射が遮られたため(日傘効果)、地球全体の気温が低下し、世界各地に著しい異常気象がもたらされた。世界的に平均気温が約1.7℃も低下し、火山の冬と呼ばれる大規模な寒冷化をもたらした。

大噴火が起きた1815年の夏は、北半球を中心に各地で異常なほどの低温となった。アメリカ北東部では雪や霜が6月まで見られたほか、ヨーロッパでは5月から10月頃まで長雨が続き、各地で不作(食糧不足)となった。

翌1816年、欧米では近代史上最も寒い年となり「夏のない年」と呼ばれるほど世界的な低温が続いた。 イェール大学に残る記録によれば、この年の夏は気温が平年より4℃も低かったという。この「夏のない年」は「西洋において最後で最大の危機」とも称された。

各地で当然のように農作物が大打撃を受け、スイスなどヨーロッパでは深刻な飢饉が起きた。ハンガリーやイタリアでは赤い雪が降った。さらには、この大災害の時にコレラが初めて世界的に大流行したともいわれている。

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またナポレオンがワーテルローの戦いで敗戦に追い込まれた原因の一つは、この時の大雨であるといわれる。フランス人作家・ヴィクトル・ユーゴーは「レ・ミゼラブル」の中でワーテルローの戦いについて「季節外れの雲に覆われた空が、世界の崩壊をもたらした」と言及した。

噴火によるエーロゾル等の影響で世界各地で異常に鮮やかな夕焼けが見られた。エーロゾルが太陽を遮り波長の長い赤が強まったため、こうした現象が発生した。太陽のまわりにはビショップの環と呼ばれる大きな輪が出現したという。

なお、タンボラと夏のない年に関係があること自体は、長らくそう信じられてはきたが、科学的な根拠をもってそれが証明されたのは比較的最近のことである。

文化的な影響

世界的な異常気象は、当時の文学や芸術などにも少なからず影響を残した。

例えば『フランケンシュタイン』や『吸血鬼』などの文学作品は、長雨が続くスイス・レマン湖畔にて、外に出られない退屈をしのぐための暇潰しで生み出された(ディオダティ荘の怪奇談義)。実際、前者の作者であるイギリス人作家のメアリー・シェリーは、当時の天候について「多湿で不愛想な夏と降りやまない雨によって外出できなかった」と言及している。

また、前述の「各地で確認された異常な夕焼け」は、イギリス人画家のジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品などにも影響を与えており、例えば『チチェスター運河(英語版)』(1828年)などでも、この時期に特徴的な薄い黄色の夕焼けが描かれている。

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