【はじめに】
この記事では、日本語版ウィキペディアで「塙 保己一」とその大著『群書類従』について学んでいきたいと思います。
日本語版ウィキペディア「塙保己一」を纏めてみた
塙 保己一(はなわ ほきいち、延享3年5月5日(1746年6月23日) – 文政4年9月12日(1821年10月7日))は江戸時代の国学者。……『群書類従』『続群書類従』の編纂者である。総検校。贈正四位。
塙保己一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下略 )
生い立ち
- 幼少の頃から身体は華奢で乳の飲み方も弱く、丈夫ではなかった。草花を好み、非常に物知りであったという。5歳のときに疳(かん)の病気(胃腸病)にかかったのが原因で、目痛や目やにの症状が出て徐々に視力が弱っていき、7歳の春に失明した。
- 修験者の正覚房に弟子入りして、多聞房という名をもらうも、視力は戻ることはなかった。手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えた。また、手で形をさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができた。目が見えなくなってから和尚や家族から聞いた話を忘れることはなく、一言一句違わずに語ることができたほど、物覚えが良かったという。
学問の道
- 保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に様々な学問を学ばせた。
- 塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。
- 安永8年(1779年)、『群書類従』の出版を決意する。検校の職に進むことを願い、心経百万巻を読み、天満宮に祈願する。
検校となってから
- 和学講談所は同年7月には林大学頭の支配をうけるようになり、準官立機関となった。ここを拠点として記録や手紙にいたるまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』である。
また歴史史料の編纂にも力を入れていて『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折があったものの東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。
同所の出版している『大日本史料』がそれである。盲人としても、寛政7年(1795年)には盲人一座の総録職となり、文化2年(1805年)には盲人一座十老となる。文政4年(1821年)2月には総検校になる。
逸話
- 学問の神であるとされた菅原道真と、身分の低い家に生まれて天下統一を成し遂げた豊臣秀吉を尊敬していたという。
- すでに学者として有名だった平田篤胤、安藤野雁も、保己一の門に入った。日本外史を著した頼山陽も保己一に教えを請うた。
- 『群書類従』の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていた。これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっている。
- ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と母親より教育されていた。昭和12年(1937年)4月26日、ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、人生の目標であった保己一の座像や保己一の机に触れている。ケラーは「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っている。
日本語版ウィキペディア『群書類従』を纏めてみた
『群書類従』(ぐんしょるいじゅう)は、塙保己一が編纂した国学・国史を主とする一大叢書。
塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年(安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社・公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) – 文政2年(1819年)に木版で刊行された。
歴史学・国学・国文学等の学術的な研究に、多大な貢献をしている。
群書類従
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下略 )
構成
正編は1273種530巻666冊からなり、以下の25部に分類されている。
神祇部、帝王部、補任部、系譜部、伝部、 官職部、律令部、公事部、装束部、文筆部、 消息部、和歌部、連歌部、物語部、日記部、 紀行部、管弦部、蹴鞠部、鷹部、遊戯部、 飲食部、合戦部、武家部、釈字部、雑部
続群書類従
正編と同様に25部に分かち2103種、1000巻、1185冊の一大叢書。 群書類従に続いて塙保己一が計画し、没後は弟子たちが引き継いだ。
経済雑誌社が1902年(明治35年)から1914年(大正3年)にかけて活字本を刊行したが、第19輯までで中断。……1972年(昭和47年)に第35-37輯が刊行され、完結した。
以下、各部の中から幾つか比較的有名そうだったりする書籍を纏めてみました。
- 神祇部 『皇太神宮儀式帳』、『八幡愚童訓』、『春日権現験記』、『大日本国一宮記』
- 帝王部 『神皇正統記』
- 補任部 『東大寺別当次第』、『東寺長者補任』
- 系譜部 『本朝皇胤紹運録』
- 伝部 『上宮聖徳法王帝説』、『日本往生極楽記』
- 官職部 『官職秘抄』、『職原鈔』、『百寮訓要抄』
- 律令部 『律』、『金玉掌中抄』
- 公事部 『内裏式』、『建武年中行事』、『年中行事歌合』
- 装束部 『満佐須計装束抄』、『次将装束抄』
- 文筆部 『懐風藻』、『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』
- 消息部 『貴嶺問答』、『尺素往来』、『書札礼』
- 和歌部 『続詞花和歌集』、『新撰和歌』、『三十六人撰』、『金槐和歌集』
- 連歌部 『筑波問答』、『吾妻問答』、『若草山』
- 物語部 『伊勢物語』、『大和物語』、『竹とりの翁物語』
- 日記部 『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『讃岐典侍日記』
- 紀行部 『土左日記』、『さらしな日記』、『東関紀行』
- 管弦部 『懐竹抄』、『夜鶴庭訓抄』、『風俗』、『新撰朗詠集』
- 蹴鞠部 『承元御鞠記』、『後鳥羽院御記』
- 鷹部 『新修鷹経』、『嵯峨野物語』
- 遊戯部 『君台観左右帳記』、『作庭記』、『洛陽田楽記』
- 飲食部 『四条流庖丁書』、『大草家料理書』、『喫茶養生記』
- 合戦部 『将門記』、『陸奥話記』、『梅松論』、『難太平記』
- 武家部 『御成敗式条』、『建武式目条々』、『信玄家法』
- 釈家部 『初例抄』、『釈家官班記』
- 雑部 『古語拾遺』、『日本国現報善悪霊異記』、『禁秘抄』
『寛平御遺誡』、『枕草紙』、『方丈記』、『常陸国風土記』
最後に一言。私はこの塙保己一氏の編集した『群書類従』みたいなものをいつか何かしらのカテゴリーで生み出せたら良いなと思っています。その一端がこのブログだったりするのです。憧れの存在のお一人をウィキペディアを通じて学ぶことで、気持ちを新たに引き締めたいと思った所存です。最後までお読み頂きありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう! Rxでした。
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