『日本書紀』(にほんしょき、やまとぶみ、やまとふみ)は、奈良時代に成立した日本の歴史書・神話。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成したと伝わる。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。
日本書紀
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『日本書紀』の概要
全体の構成
太歳を用いた干支紀年、和歌の採録数の多さ、分註の多さなどは後世『日本書紀』に続いて編纂された日本の正史、いわゆる六国史の他の書籍と比較した場合際立って目立つ『日本書紀』の独特な特徴である。
歴史記録としての『日本書紀』は、古代日本の歴史を明らかにする上で中核をなす重要な史料であり、東アジア史の視点においても高い価値を持つ史書である。ただし、あらゆる史料と同じように、歴史記録として『日本書紀』を利用する際には、厳格な史料批判を必要とする。
[注2] この点を象徴するものとして、坂本太郎の「六国史で、歴史を研究する前に、六国史を、研究する段階が必要だと思うのである」という指摘が、しばしば引用される。
編集方針
『日本書紀』の編纂は当時の天皇によって作成を命じられた国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原資料の選択は政治的に有力者が主導したものと推測されている。
成立経緯
7世紀前半
推古朝において日本における修史事業が始められたことは当時の東アジアの潮流と軌を一にする。上に述べた新羅の修史事業は真興王6年(545年)に「国史」をまとめたものであり、高句麗は嬰陽王11年(600年)に『新集』と呼ばれる史書を撰述している。百済については修史事業の具体的な記録は残っていないが、『三国史記』の記述からは近肖古王(在位:346年-375年)代以来、何らかの「記録」があったことがうかがわれる。
これらの諸国の修史事業は4世紀以来、国家体制の構築や中華王朝との関係の変化の時期に行われており、外交上の必要性を重要な要因として行われたものであったと見られる。このことは恐らく日本(倭)の推古朝の修史も同様であった。後に中国大陸を統一した唐は外国からの朝貢使の受け入れにあたり国情聴取を制度として実施していた。実際に日本の遣唐使の使節が「日本国の地理及び国初の神名」を問われたことが『日本書紀』の記録に見え、このような外交の場のやりとりは、各国に自国の成り立ちを意識させることになったであろう。
推古朝に入り、日本は唐に先立つ隋への遣使(遣隋使)を始め、中華王朝との外交関係の構築に手をつけている。唐の場合と同じく、隋代の外交の場でもこのようなやり取りが必要であり、対外交渉を通じて日本は「自国史」を意識するようになっていった。こうして推古朝において修史が開始されたと考えられる。
7世紀後半以降
歴史学者坂本太郎は、天武天皇10年(681年)に天皇が川島皇子以下12人に対して「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたという『日本書紀』の記述を書紀編纂の直接の出発点と見た。21世紀初頭現在でもこの見解が一般的である。
- なお、近年になって笹川尚紀が持統天皇の実弟である建皇子に関する記事に関する矛盾から、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であり、天武天皇が川島皇子に命じて編纂された史料は『日本書紀』の原資料の1つであったとする説を出している。
- 高寛敏は、『日本書紀』編纂の出発点は天武記定本にあるが、それを具体化したのは、701年の大宝律令の完成と704年の国名表記の改定からであり、これによって初めて、『日本書紀』編纂の基本理念と歴史叙述に不可欠な地理的表現が確定したと考察した。また、天武年間から704年までの間は、史料の蒐集期間であり、まず天皇は皇帝=周辺の藩屏国から朝貢される存在とされ、それを事実化するために朝鮮関係資料が必要となり、旧伝や天武賜姓に絡む異伝、それに民間伝承なども参照されなければならず、それらの個別的で断片的な史料は、律令の理念に沿うように手を加えられ、固有名詞もできるだけ統一されたが、それが分注などに引用された一書であると考えられる。
- 加えて、高寛敏は、(中略)不比等は『日本書紀』編纂の全般に関わったと考えられ、『日本書紀』編纂のリーダーは舎人親王であるが、実際の責任者は不比等であり、不比等は自ら携わった大宝律令の理念を『日本書紀』で歴史化したと主張した。
書名
『日本書紀』の書名については古くから議論が重ねられている。これは元々の書名についての議論で、主として『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説が存在する。
かつて通説であった『日本紀』説は20世紀の検証を経て発展し、日本史学会の権威であった坂本太郎が神田喜一郎の説を支持したことなどを経て、2018年現在では『日本書紀』を原名とする説を支持する学者が多い。さらに、『日本書紀』の書名の研究では、2011年に塚口義信が「『日本書紀』と『日本紀』の関係について-同一史書説の再検討-」(『続日本紀研究』392号)において、これまでになかった第三の説を発表して注目を集めている。
- 塚口は『続日本紀』の養老4年5月癸酉条の従前の解釈において「紀卅卷系圖一卷」に登場する系圖一卷は紀卅卷に附属されていたものとしているが、実はこの解釈以外に紀に系圖が附属されていたとする根拠はないとした上で、『弘仁私記』序や『本朝書籍目録』にも「日本書紀三十巻」「帝王系図一巻」と分けて記載されており、舎人親王が献上したのは
- 『日本書紀』三十巻と
- 別の書物であった系圖(『帝王系図』)の2種類の書物で、
- 親王が修したとされる『日本紀』とはこの両書を合わせた総称であるとした。
- 塚口説は総称である『日本紀』とその一部を構成する『日本書紀』の名前が類似しているという問題点はあるものの、残存する史料に基づいて『日本紀』と『日本書紀』が同じ書物を指すことを否定した見解と言え、もしこの見解が正しいとすれば『日本紀』と『日本書紀』を同一のものという前提に立ってきた既存の説は再考を迫られるものとなる。
記述の信憑性
日本書紀は史料批判上の見地から信憑性に疑問符がつく記述をいくつか含んでいる、以下はその例を示す。
大化の改新の詔の内容の書き換え
1967年12月に藤原京の北面外濠から発見された「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡により、『日本書紀』の大化の改新の詔の文書が奈良時代に書き替えられたものであることが判明している。
稲荷山古墳鉄剣銘文との対応
『上宮記』『帝紀』『旧辞』『国記』『天皇記』との関連
百済三書との対応
歴史的伝承
編纂にあたっては多様な原資料が参照されており、その中には日本(倭)の古記録の他、百済の系譜に連なる諸記録(百済三書、百済で実際に作成されたものであるかどうかは不明)、『漢書』『三国志』(「魏志」「呉志」)などの中国の史書が参照されている。特に百済を中心に朝鮮諸国の事情、対外関係史について詳しく記述していることも独特の特徴である。
本文と一書(あるふみ)
本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている箇所が多く見られる。中国では清の時代まで本文中に異説を併記した歴史書はなく、当時としては東アジアにおいて画期的な歴史書だったといえる。あるいは、それゆえに、現存するものは作成年代が古事記などよりもずっと新しいものであるという論拠ともなっている。
ただし、『釈日本紀』の開題部分には「一書一説」の引用を「裴松之三国志注の例なり」と記されており、晋の陳寿が著した『三国志』に対して宋(南朝)の裴松之が異説などを含めた注釈を付けた形式のものが日本に伝来され、『日本書紀』のモデルになった可能性はある。
なお、日本書紀欽明天皇2年3月条には、分注において、皇妃・皇子について本文と異なる異伝を記した後、『帝王本紀』について「古字が多くてわかりにくいためにさまざまな異伝が存在するのでどれが正しいのか判別しがたい場合には一つを選んで記し、それ以外の異伝についても記せ」と命じられた事を記している。この記述がどの程度事実を反映しているのかは不明であるが、正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針が、現在みられる『日本書紀』全般の状況とよく合っていることはしばしば注目されている。
分注の存在
『日本書紀』には訓読や書名をあげての文献引用など、本文とは別に分注(分註)と呼ばれる割注記事がみられる。かつては分注は後世の創作とする説も存在したが、今日では『日本書紀』成立当初から存在していたと考えられている。また、前述の「一書に曰く」も平安期の写本の断簡の中には分注と同じ体裁で書かれており、原本では分注の一部であった可能性がある。成立当初からの分注の存在は『日本書紀』独自の形式であるが、前述の『三国志』の裴松之による注のように中国の歴史書において後世の人物が本文に注を付けてさらに後々に伝えられる例は存在しており、『日本書紀』の編者がこうした注の付いた中国の歴史書の影響を受けた可能性がある。
国内の主な原資料
日本(倭)における歴史(即ち過去の出来事の記憶)についての記録として、まず言及されるのは「帝紀」(大王家/天皇家の系譜を中心とした記録)と「旧辞」(それ以外に伝わる昔の物語)である。これらは津田左右吉が「継体・欽明朝(6世紀半ば)の頃に成立した」と提唱して以来、様々な議論を経つつも、「元々は口承で伝えられていた伝承が6世紀にまとめられたもの」と一般的には考えられている。
こうした歴史の記録には、書記官の存在が不可欠である。日本における文字の使用が渡来人によってもたらされたことも含めて、日本の修史事業は朝鮮半島・中国大陸の情勢と深く関係していた。日本では5世紀後半から6世紀にかけて、倭王権の下に史(フミヒト/フヒト)と呼ばれる書記官が登場する。彼ら、フミヒトの多くは渡来人によって構成され、人的紐帯に基づいて倭王権に仕える形態からやがて欽明朝期の百済からのフミヒトの到来を経て制度化されて行った。「帝紀」「旧辞」がまとめられていったとされる時期がこの欽明朝にあたると考えられ、同時期には朝鮮半島において百済と競合する新羅でも修史事業が進められていた。
『帝紀』
- 歴代の天皇あるいは皇室の系譜類、あるいはそれらをまとめた分野、特に『古事記』や『日本書紀』以前に存在したと考えられている日本の歴史書の一つ。『旧辞』と共に記紀の取材源になったと考えられているが、古くに散佚し、内容は伝わっていない。
- 681年(天武天皇10年)より天智天皇2子の川島皇子と忍壁皇子が勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したという。『旧辞』と共に天武天皇が稗田阿礼に暗誦させたといい、のちに記紀の基本史料となったという。
『旧辞』
『古事記』や『日本書紀』以前に存在したと考えられている日本の歴史書の一つ。『帝紀』とともに古くに散逸したため、内容は伝存していない。「本辞」「先代旧辞」とも。記紀の基本資料といわれる各氏族伝来の歴史書だと考えられている。『古事記』序文の「先代旧辞」(せんだいのくじ、さきのよのふること)及び「本辞」、『日本書紀』天武天皇10年3月条の「上古諸事」はこの書を指すとも考えられている。
- 記紀の基本資料といわれる各氏族伝来の歴史書だと考えられている。『古事記』序文の「先代旧辞」(せんだいのくじ、さきのよのふること)及び「本辞」、『日本書紀』天武天皇10年3月条の「上古諸事」はこの書を指すとも考えられている。
- ただし『帝紀』と『旧辞』は、別々の書物ではなく、一体のものだったとする説もある。日本史学者の津田左右吉は、『旧辞』は記紀の説話・伝承的な部分の元になったものであると考え、『古事記』の説話的部分が武烈天皇のあたりで終わっており、その後はほとんど系譜のみとなること、また『日本書紀』も同じ辺りで大きく性格が変わり、それまではあまりなかった具体的な日時を示すようになることなどの理由から、『旧辞』の内容はこのあたりで終わり、その後まもなく6世紀頃になってそれまで口承で伝えられてきた『旧辞』が文書化されたと推論している。
- その後この説は通説となったが、『古事記』の序文を厳密に読む限りでは、史書作成の作業は『帝紀』と『旧辞』の両方に行われたものであり、『古事記』の内容自体は『旧辞』のみに基づくはずであることから、『古事記』が系譜と説話の両方を含む以上、「帝紀=系譜、旧辞=説話」とする一般的な理解は成り立たないとする見解もある。
- また、一定の条件を満たす複数の書物ないしは文書の総称である普通名詞としての「旧辞」と、特定の時点で編纂された特定の書物を示す固有名詞としての『旧辞』は明確に区別すべきだとする説もある。
「書かれた歴史」を編纂する修史事業の記録は推古朝に登場する。『日本書紀』によれば皇太子(聖徳太子、厩戸皇子)と嶋大臣(蘇我馬子)の監修で推古28年(620年)に『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』がまとめられた。推古朝の修史事業はこれらの史書が現存しないことや聖徳太子という伝説的色彩の強い人物と関連した記録であること、具体的な経緯などの情報に乏しいことなどから実態が必ずしも明らかではない(これらはいわゆる「国史」に分類されるようなものではなかったとする津田左右吉の見解や、それに反論する坂本太郎の見解など)。
『天皇記』
『天皇記』(てんのうき、すめらみことのふみ)は、推古28年(620年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書である。事実とすれば、『帝皇日継』・『帝紀』とほぼ同様の内容で、皇室の系譜を記したものだと推定される。また、未完であった可能性が高い。
- また、この年が推古天皇の実父(聖徳太子には祖父)にあたる欽明天皇の50年忌にあたることから、同天皇の顕彰とその正統性を示すことを目的に皇統譜の整理を意図して行われたとする説もある。
- 皇極天皇4年(645年)に起きた乙巳の変の際に、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷の家が燃やされ、そのとき『国記』とともに焼かれたとされる。あるいは国記のみが焼ける前に取り出されて残ったともいわれるが、国記も現存していない。
- 研究者によれば、『日本書紀』を編纂する時に『大王記』とあったのを『天皇記』と書き改めたとも考えられ、原資料の名称については議論の余地があるとしている。
『国記』
『国記』(こっき、こくき、くにぶみ、くにつふみ)とは、推古天皇28年(620年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂して成立したとされる書物で、事実とすれば『古事記』・『日本書紀』以前の書物。『天皇記』とともに編纂されたと伝えられる。
- その性格については、倭国(日本)の歴史を記した物(坂本太郎説)、諸氏の系譜や由来・功績などを記した物(榎英一説)など歴史書であるとする説が有力であるが、倭国の風土・地理を記した地理書であるとする考えもある(石母田正説)。
- 皇極4年(645年)の乙巳の変の際、蘇我蝦夷(蘇我馬子の後継者)の邸宅の焼き討ちで天皇記とともに焼かれるが、『国記』は燃失する前に戦火の中から出された。しかし、現存していない。
その他の国内の資料
『日本書紀』の編纂にあたって多種多様な資料が参照されており、これらの原資料を坂本太郎は以下のように分類している。なお、ここに挙げる原資料は漢籍を除いて多くの場合現存しない。このため、その内容・性質については後世の研究者による推測であり、様々な見解があることに注意されたい。
- 諸氏に伝えられた先祖の記録
旧辞とは異なる諸氏の先祖の物語。持統天皇5年(691年)に十八氏に先祖の墓記を提出させたことが記録に残されており、これが修史と関係していた可能性もある。
- 地方に伝えられた物語の記録
具体的にどのような記録があったのかは判然としないが、坂本は『日本書紀』中の地名説話や地方の物語の存在から、地方の伝承も採録されたと推測している。
- 政府の記録
天武天皇・持統天皇の記録は後世の『続日本紀』と遜色ないほど細かい年毎の記録があり、これは政府記録が利用できたことによる。天智天皇以前の記録は年毎の記録密度が疎であるが、これは壬申の乱でそれ以前の政府記録が失われたことによると推定される。
諸外国の資料
漢籍
中国の史書類等。『三国志』のような例外はあるものの、中国の史書は基本的に歴史的事件の典拠としてではなく、漢文を格調高くするための作文の典拠として用いられた。漢籍については、それを元に『日本書紀』の本文を潤色した部位が概ね特定されており、巻毎に典拠として利用された漢籍の名前が既に整理されている。具体的には以下のようなものが利用された。
- 『芸文類聚』唐初に成立した類書。45部門の項目について古来の事実、関連する詩文を収める。
- 『史記』
- 『漢書』
- 『後漢書』
- 『三国志』:西晋代に成立した史書。魏・呉・蜀を取り扱う。陳寿撰。『日本書紀』編纂で利用されたのは魏志・呉志のみで、魏志は書名を示して引用もされている。
- 『梁書』
- 『隋書』
- 『文選』:南朝梁の昭明太子編の詩文選集。130人、760編の詩文を採録する。
- 『金光明最勝王経』:仏教の経典。唐代に義浄によって漢訳された。
百済に関する記録
百済三書と呼ばれる史書(日本国内で百済系の人々によって編纂されたと推定される場合が多い)を始めとした百済の記録。特に継体天皇を取り扱った17巻などは大部分を百済関係の記事が占め、天皇の崩御年なども百済系の史書によって決定されている。
百済三書(くだらさんしょ)は、『百済記(くだらき)』・『百済新撰(くだらしんせん)』・『百済本記(くだらほんき)』の3書の総称(以下「三書」と略記する)。いずれも百済の歴史を記録した歴史書で、現在には伝わっていない逸書であるが、一部(逸文)が『日本書紀』にのみ引用されて残されている。
内容
『日本書紀』に引用されている逸文からわかる範囲では、近肖古王から威徳王の15代にわたる200年近い歴史の記録が記されている。古い記録を扱っている方から順に『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』となる。井上光貞は『百済記』は物語風の叙述が主で、『百済新撰』は編年体風の史書、『百済本記』は純然たる編年体史であったと推定している。人名も多く載っており、その中には『百済記』に見える職麻那加比跪(しくまなかひこ)を千熊長彦に、沙至比跪(さちひこ)を葛城襲津彦にというように、『日本書紀』編者によって日本側の史料に現れる人物に比定される者もいる。
成立
三書は『日本書紀』内に唯一逸文が伝わるのみなので、成立過程は判然としない。実在したものとすれば、『日本書紀』成立の養老4年(720年)以前に三書も成立していたともいえる。後の『三国史記』の375年の出来事として「百済開国已来、未有以文字記事、至是得博士高興、始有書記」(百済は開国以来文字で記録を残していなかったが、博士高興によってはじめて記録を始めた)との記載は、この頃の中華秩序に倣った歴史書に準ずるなんらかの記録が百済にあったことを伝えている。
- 三品彰英は、『百済記』は推古天皇の時代(6世紀末から7世紀前葉)に成立したとしている。
- 井上光貞は、660年の百済滅亡に、当時交流の盛んだった倭(日本)が大量の亡命者を受け入れたことで百済の記録も日本にもたらされ、これらを元に当時の知識人によって三書が編纂された可能性を指摘した。この説に従うと、三書の成立は663年から720年の間となる。
- 遠藤慶太は、『百済記』・『百済本記』の成立を7世紀前半に推定し、百済滅亡以前の欽明天皇期以降に倭の書記官を務めてきた田辺史などに祖先にあたる百済系渡来人のフミヒト(史)が自らの始祖伝承から倭国に仕えた経緯の記録と倭(日本)との関係を強調するために書いたとし、ひいては当時新羅の侵攻に悩まされてきた母国・百済救済を訴える意図も有していたとする。
『日本書紀』で三書が明示的に引用されている個所は、『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所である。逸文に見る引用には、「天皇」や「日本」など、後世の7世紀からようやく用いられるようになった言葉が現れていたり、日本のことを「貴国」と表現しているなど、およそ三書からの引用とは思えない箇所があることが津田左右吉によって指摘されており、『日本書紀』編者による潤色・改竄が行われていることは確実とされる。
しかし、継体天皇の崩年(崩御の年、527年?)については逆に、『百済本記』の記録を採用しているがために『日本書紀』の体裁がおかしくなっており、三書全部が『日本書紀』編者によって都合よく作り出されたものでもない。井上はこういったことを考慮して、三書は「その編成目的に日本関係を主眼とするなどの偏向があったとしても、それぞれ編纂者を異にした百済の史書とすべきであろう」としている。
紀年については、三書を引用した『日本書紀』(応神紀)と『三国史記』とが、干支で記述された年月と事績との対比から、記述された実年代とは干支の2周分(2運)、即ち120年ずれて一致することが本居宣長、那珂通世らによって指摘されている。井上はさらにその理由について、日本書紀の編纂者が古事記に崩年注記のない神功皇后を中国史に現れる卑弥呼に比定するためであったとしている。
執筆過程
執筆方法
全体は漢文で記されているが、万葉仮名を用いて128首の和歌が記載されており、また特定の語意について訓注によって日本語(和語)で読むことが指定されている箇所がある。このような漢文中に現れる日本語的特徴、また日本語話者特有の発想による特殊な表現は現在では研究者によって和習(倭習)と呼ばれている。『日本書紀』は伝統的に純漢文(正格漢文)の史書として扱われる場合が多いが、この和習を多々含むためその本文は変格漢文(和化漢文)としての性質を持つ。
暦
『日本書紀』は紀年・暦日を有する史書であり、日本書紀上の紀年は原則として天皇の即位年を太歳の干支によって示す。
歴史について語る際に年月日を付して時間的認識、「いつ」のことであるのかを明らかにするのは現代的感覚では普通のことであるが、古代においては必ずしもそうではなかった。『日本書紀』と同じく天皇の即位に関わる情報を記録する『古事記』には同様の天皇の即位記事において年代を提示しない。
そのため、年次を明確化する意図を持って書かれていることは『日本書紀』を『古事記』と比べた場合の大きな特徴である。……『日本書紀』の暦法は中国に起源を持つ太陰太陽暦に依っている。
日本では江戸時代以来、『日本書紀』が用いている暦法を復元する試みが行われており、初期の頃は日本独自の暦、あるいは百済の暦などの説が出されていたが、20世紀半ばに東京天文台(現:国立天文台)の職員・天文学者であった小川清彦によって中国からもたらされた元嘉暦と儀鳳暦(麟徳暦)が使用されていることが明らかにされた。
即ち、『日本書紀』は神武天皇の時代から儀鳳暦によって暦日を記述しており、5世紀以降は元嘉暦に切り替わっている。しかし、儀鳳暦は7世紀に唐で作られた新しい暦であり、日本にもたらされたのは持統天皇代であるのに対し、元嘉暦は5世紀に作られた古い暦であり、時代の新旧が逆転している。このことから、『日本書紀』の暦日は古い時代、5世紀前半以前の時代のものは『日本書紀』編纂時に最新の暦であった儀鳳暦を使って推算したものであることが明らかとなっている。
古事記の崩御年干支
なお、『古事記』は年次を持たないが分注の形で15人の天皇について崩御年干支と崩御月が記され、第10代崇神天皇と第18代反正天皇を除く13人は崩御日も記されている。崇神天皇、第13代成務天皇~第19代允恭天皇、第21代雄略天皇、第26代継体天皇、第30代敏達天皇の11人は『日本書紀』の崩御年の干支と一致しないが、以下は一致する。
- 第27代 – 安閑天皇(乙卯、安閑天皇2年〈535年〉)
- 第31代 – 用明天皇(丁未、用明天皇2年〈587年〉)
- 第32代 – 崇峻天皇(壬子、崇峻天皇5年〈592年〉)
- 第33代 – 推古天皇(戊子、推古天皇36年〈628年〉)
紀年論
『日本書紀』の紀年がどのように構成されているか明らかにしようとする試みが紀年論である。神代について語る『日本書紀』の巻1, 2は年数の経過や一日の概念を示す記事は有るが紀年は無く、巻3の神武天皇の東征開始から初めて紀年が記され絶対年代が明示され始める。『日本書紀』の紀年はその古い時代について江戸時代以来疑問が持たれてきた。倉西裕子のまとめによれば、『日本書紀』の紀年を巡る具体的な論点は次の3つである。
- 「巻9(神功紀)に見られる年代的不整合」
- 「国内外の諸史料と巻10の応神紀以降の歴代天皇の在位期間との不整合」
- 「歴代天皇の在位期間や宝算(享年)における非現実的数字」
初期の天皇の絶対年代と寿命
歴代天皇の在位期間の問題は、初期の天皇の不自然な長寿についてである。そして彼らに関わる紀年を西暦に置き換えると到底史実とはみなし難い年代が得られる。現代ではこのような『日本書紀』の年代設定は架空のもので、推古朝の頃に中国の讖緯説(陰陽五行説にもとづく予言・占い)に基づいて、神武天皇の即位を紀元前660年に当たる辛酉(かのととり、しんゆう)の年に設定したと考えられている。神武天皇の即位年が讖緯説によって設定された作為によるものであるという見解は早くも江戸時代に伴信友などによって指摘され、明治時代に那珂通世によって現代の通説が打ち立てられた。
讖緯説は干支が一周する60年を一元、二十一元(1260年)を一蔀として特別な意味を持たせるもので、後漢代の学者鄭玄が『易緯』の注の中で述べているものである。那珂通世の結論は、推古天皇9年(601年)、辛酉の年を起点として、一蔀遡った前660年、辛酉の年が神武天皇元年として設定されたというものである。
- また、初期の天皇の不自然に長い寿命を説明する説として春秋二倍暦説がある。これは古い時代には春夏を1年、秋冬を1年と数えていたが、『日本書紀』編纂時にはこれが忘れ去られていたため天皇の年齢が2倍になったという仮説である。
- この説は明治時代にデンマーク人ウィリアム・ブラムセンが初めて唱えたもので、戦後には幾人かの日本人学者が『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」の注釈に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることを論拠にこの説を展開した。これとは別に、『日本書紀』には記事がない空白の年が多数あることから、記事がある年のみが実際の紀年であり、記事の空白期間を省くことで実際の年代を復元できるという説(復元紀年説)も存在する。これらの説は、その後の「倭の五王」の時代の編年との接続に問題を抱えており、広く受け入れられてはいない。その他、当時の日本には四倍年暦が存在していたとする説がある。
- これとは別に、『日本書紀』には記事がない空白の年が多数あることから、記事がある年のみが実際の紀年であり、記事の空白期間を省くことで実際の年代を復元できるという説(復元紀年説)も存在する。
- これらの説は、その後の「倭の五王」の時代の編年との接続に問題を抱えており、広く受け入れられてはいない。その他、当時の日本には四倍年暦が存在していたとする説がある。
神功紀の紀年
『日本書紀』は神功紀・応神紀にはいると飛躍的に外国の記述、特に朝鮮半島での出来事や倭国と朝鮮との関わりについての記述が増える。この時期の記述には朝鮮の史書である『三国史記』と対応する記述があり、また倭国から中国への遣使記録が中国各王朝の正史にあることから、『日本書紀』の年次と外国史書の年次を比較することができる。
倭の五王と『日本書紀』
「倭の五王」も参照
応神紀以降の紀年においては、『三国史記』との対照と並んで中国史書に登場するいわゆる「倭の五王」の遣使記事との年代比較が重要となる。倭の五王は5世紀と6世紀初頭に中国へ遣使したことが記録されている倭国の王である。
神功皇后と卑弥呼を同一視する『日本書紀』の編年に基づいて紀年を組み立てた場合、倭の五王の記録と『日本書紀』の歴代天皇の記録は全く合致しない。また、仁徳天皇が長大な在位期間を持つため、神功紀の紀年を120年繰り上げてもやはり全く整合しない。これらの問題についても江戸時代から新井白石によって指摘されていた。
倭の五王の紀年について注目されるのが古事記の崩御年干支である。上に述べた通り、『古事記』は年次を持たないが、現存最古の写本に分注の形で15人の天皇の崩御年干支と崩御月が記されている。
この古事記の干支から那珂通世によって西暦換算の年代が割り出されているが、これは5世紀代において『日本書紀』とは合致しないものの、倭の五王の記録とは比較的無理のない整合性を示す。しかし、この古事記の崩御年干支に基づく年代も『日本書紀』記事中の記録から修正して導き出せる年代とは合致しない。
区分論
『日本書紀』は単独の人物ではなく、複数の撰者・著者によって編纂されたと見られ、この結果として全体の構成は不統一なものとなっている。このため近代以降においては各巻の様々な特徴によってグループ分けを行う区分論が盛んに研究されている。
『日本書紀』は内容・語句・音韻など様々な観点から各巻をいくつかのグループに分類できることがわかっており、多くの学者が区分論を展開している。以下、主として坂本太郎と森博達の著作を参考にまとめる。区分において特に重要な指標となるのは同じような語句の使用傾向や用いられている万葉仮名の日本語と漢字音の対応(音韻の対応)、そして漢文の文法的誤りや日本語独特の発想による文章(和習)の分布などである。
区分論において近年とりわけ注目されたのは森博達による分析である。森は歌謡などを表記する万葉仮名に用いられている漢字音の音韻の分析によって『日本書紀』を2つのグループ(α群とβ群)に大別することができることを論証した(30巻には歌謡がなく、区分していない)。
森の学説は近年の区分論における大きな進展であり、区分論に触れる際にはそれをどのように評価する場合でも大抵の場合言及される。
森による分析でα群に使用されている万葉仮名の漢字音は唐代北方音(漢音)に依拠しており、β群のそれは倭音・複数の字音体系が混在していることが明らかになっている。そして森はさらにそれを発展させ、β群に和習が集中すること、漢文の初歩的な文法・語彙の誤りが頻出することなどから、β群は非中国語話者が主筆担当したと推定している。
逆にα群では漢文の誤りが少ない事、和歌の採録時日本語の清音と濁音を区別できていないこと、日本の習俗に精通していないことがわかることなどから、中国系の渡来1世が主たる述作にあたったと結論している。さらにα群・β群内の混在(α群の中に和習の強い文章が混入している)や、特定の表現が頻出する筆癖などから、本文完成後の加筆や潤色等の編纂過程の手掛かりが得られるとしている。
内容と目次
『日本書紀』は全30巻、系図1巻(系図は現存しない)からなり、天地開闢から始まる神代から持統天皇代までを扱う編年体の歴史書である。神代を扱う1巻、2巻を除き、原則的に日本の歴代天皇の系譜・事績を記述している。ただし神功皇后など天皇とはされていない人物を1巻全体で取り扱う9巻や、事実上壬申の乱の記述に全体を費やす28巻などの例外も含む。
文体・用語
『日本書紀』の文体・用語など文章上のさまざまな特徴を分類した研究・調査の結果によると、全三十巻のうち、巻第一・巻第二の神代紀と巻第二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の25巻は、大別してふたつにわけられるとされる。
その一は、巻第三の神武紀から巻第十三の允恭・安康紀までであり、
その二は、巻第十四の雄略紀から巻第二十一の用明・崇峻紀までである。残る巻第二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻第二十四の皇極紀から巻第二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻第十三と巻第十四の間、つまり、雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
巻1~2:神代(Β)
- 卷第一
- 神代上(かみのよのかみのまき)
- 第一段、天地開闢と神々 天地のはじめ及び神々の化成した話
- 第二段、世界起源神話の続き
- 第三段、男女の神が八柱、神世七代(かみのよななよ)
- 第四段、国産みの話
- 第五段、黄泉の国、国産みに次いで山川草木・月日などを産む話(神産み)
- 第六段、アマテラスとスサノオの誓約 イザナギが崩御し、スサノオは根の国に行く前にアマテラスに会いに行く。アマテラスはスサノオと誓約し、互いに相手の持ち物から五男三女神を産む。
- 第七段、天の岩戸 スサノオは乱暴をはたらき、アマテラスは天の岩戸に隠れてしまう。神々がいろいろな工夫の末アマテラスを引き出す。スサノオは罪を償った上で放たれる。(岩戸隠れ)
- 第八段、八岐大蛇 スサノオが出雲に降り、アシナヅチ・テナヅチに会う。スサノオがクシナダヒメを救うためヤマタノオロチを殺し、出てきた草薙剣(くさなぎのつるぎ)をアマテラスに献上する。姫と結婚し、オオナムチを産み、スサノオは根の国に行った。大己貴神(おおあなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)
- 神代上(かみのよのかみのまき)
- 卷第二
巻3:神武天皇(Β)
- 卷第三
巻4~13:欠史八代 ~ 安康天皇
- 卷第四 : 欠史八代
- 卷第五
- 卷第六
- 卷第七
- 卷第八
- 卷第九
- 卷第十
- 卷第十一
- 卷第十二
- 瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)反正天皇
- 卷第十三
- 雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)允恭天皇
巻14~21:雄略天皇 ~ 崇峻天皇(α)
- 卷第十四
- 大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけるのすめらみこと)雄略天皇
- 第十五
- 卷第十六
- 小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)武烈天皇
- 卷第十七
- 男大迹天皇(おほどのすめらみこと)継体天皇
- 卷第十八
- 卷第十九
- 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにはのすめらみこと)欽明天皇
- 卷第二十
- 渟中倉太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)敏達天皇
- 卷第二十一
巻22~23:推古天皇・舒明天皇(Β)
- 卷第二十二
- 卷第二十三
巻24~27:皇極天皇 ~ 天智天皇(Β)
- 卷第二十四
- 卷第二十五
- 卷第二十六
- 卷第二十七
巻28~29:天武天皇(Β)
- 卷第二十八
- 卷第二十九
巻30:持統天皇
- 卷第三十
外部リンク
- 日本書紀30巻本(刊本) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 国立国会図書館リンク(保護期間満了)、年代順
- 日本書紀神代巻 – 室町末期
- 日本書紀神代巻 2巻 – 三善盛政写 慶長2年(1597年)
- 日本書紀 巻1,2 – 後陽成天皇勅版 慶長4年(1599年)刊
- 国史大系. 第1巻 日本書紀 – 国史大系 経済雑誌社 編(1897年-1901年)
- 六国史 : 国史大系. 日本書紀 – 国史大系六国史 経済雑誌社 編(1917年-1918年)
- 仮名日本書紀. 上巻 – 植松安 (大同館書店) 大正9年(1920年)
- 仮名日本書紀. 下巻 – 同上
- 訓讀日本書紀. 上巻 – 黒板勝美 (岩波書店) 1943年
- 訓読日本書紀. 中 – 同上 (1928年-1939年)
- 訓読日本書紀. 下 – 同上 (1928年-1939年)
- 日本書紀. 巻第1-30 – 早稲田大学図書館
- 日本書紀. 巻第1-30 / 清原国賢 (校訂) – 早稲田大学図書館
- 国立国会図書館デジタルコレクション検索結果
- 日本書紀を全文検索(漢文)できるサイト
- 「日本書と日本紀と」折口信夫、1926年(青空文庫)
- 『日本書紀』 – コトバンク
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