追悼句とWikipediaで振り返る「虚子忌/椿寿忌(4月8日)」

【はじめに】
皆さんは、高浜虚子きょしという俳人をご存知でしょうか? 1959年(昭和34年)の4月8日に亡くなった虚子の命日を「虚子忌きょしき」や「椿寿ちんじゅ忌」といい、春の季語となっています。

今日は、高浜虚子を偲んで詠まれた追悼句を例句に引用しつつ、日本語版ウィキペディア「高浜虚子」のページを参考にしながら、この季語について解説していきたいと思います。

国語の授業で聞いたことがある気がするぐらいで、高浜虚子のことなんて全然知らないよ……

という方もぜひ最後までお詠みください。きっと忌日の季語を考える際のヒントになるはずです!

追悼句と振り返る虚子の生涯

高浜 虚子(たかはま きょし、1874年〈明治7年〉2月22日 – 1959年〈昭和34年〉4月8日)は、明治・大正・昭和の3代にわたる俳人・小説家。

愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内(いけのうち)政忠の五男として生まれた。9歳の時に祖母の実家の高浜家を継ぐ。この時、清に次男を得られたら池内家に戻す約束があり、次男の友次郎には約束通り池内姓を継がせた。

1888年(明治21年)、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に入学する。1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。1891年、子規より虚子の号を授かる。「虚子(キシ)」の名は本名の「清(キシ)」に由来している。

日本語版ウィキペディア > 高浜虚子 より(以下同)

『伊予にゐてがばと起きたる虚子忌かな』/藤田湘子

子規さん(1867年生まれ)との共通点がかなり多い虚子さん。温泉郡出身で、現在の「松山東高校」に入学しただけでなく、父親が「松山藩士」だった点が共通していたことも今回はじめて知りました。

学生時代から子規が亡くなって俳句を離れた時期のエピソードは日本語版ウィキペディアをご参照ください。旧制第三高校進学時に松山を離れた虚子は社会人になってからしばらく「東京」に拠点を置き、大正時代に移る辺りで「鎌倉」に移住します。

1910年(明治43年)、一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住する。以来、亡くなるまでの50年間を同地で過ごした。……1959年(昭和34年)4月8日、脳溢血のため、鎌倉市由比ヶ浜の自宅で永眠。85歳没。墓所は鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。戒名は虚子庵高吟椿寿居士。

『かまくらへゆつくりいそぐ虚子忌かな』/黒田杏子

俳人・夏井いつきの師匠でもある【黒田杏子】さんの作品です。「子規忌」以外をすべて旧かなで書くことの視覚的な魅力もあります。ちなみに、夏井組長が自身のYouTubeでも語っていましたけど、夏井組長の師系(師匠の系譜)を辿ると、夏井いつき → 黒田杏子 → 山口青邨 → 高浜虚子となり、実は何と『夏井いつきは、高浜虚子のひ孫弟子』にあたるというこぼれ話もありましたね。

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そういえば、「ギャ句゛」の回で、夏井組長が好きだと語っていた虚子の句『鎌倉を驚かしたる余寒あり』がありましたが、この句を詠んだ虚子が鎌倉の人だったということを抑えておきましょう。

関東大震災などに遭うも鎌倉を離れなかった虚子ですが、戦争の激化に伴い、戦中戦後の一時期を長野県小諸市に疎開していたそうです。

1944年(昭和19年)9月4日、太平洋戦争の戦火を避けて長野県小諸市に疎開し、1947年(昭和22年)10月までの足掛け4年間を小諸で暮した。

『不自由の小諸を語る虚子忌かな』/森田峠

そんな高浜虚子の俳句の思想・理念(作家評)は、以下のとおり書かれています。

『ホトトギス』の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。……

子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は1913年(大正2年)の俳壇復帰の理由として、俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。

また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立した。そしてまた、1927年(昭和2年)、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。

『虚子の忌や花鳥風詠死語ならず』/三木夏雄

こうして強い思いや信念を込めた俳句も詠まれ、追悼されているのが「虚子忌」です。こうして、生前の記憶や思想、生涯を詠み込むのも「忌日の季語」の立たせ方の一つでしょう。

高浜虚子の一族・姻戚

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日本語版ウィキペディア「高浜虚子の一族・姻族」から、“俳人”の方と「虚子忌を連想させる例句」をピックアップしました。

氏名続柄生没年例句
高浜虚子本人1874~1959
 高浜年尾長男1900~1979又花の雨の虚子忌となりしかな
  坊城中子 孫1928~2021
   坊城俊樹ひ孫1957~
  稲畑汀子 孫1931~2022はやばやと花の虚子忌の旅程組む
   稲畑廣太郎ひ孫1957~椿寿忌や生涯一句皆目指す
又降つて又晴れて椿寿忌らしく
 星野立子次女1903~1984父がつけしわが名立子や月を仰ぐ
うら\/と今日美しき虚子忌かな
  星野椿 孫1930~虚子忌とは初心に還る事と知る
   星野高士ひ孫1952~
 高木晴子五女1915~2000冷えつゝも虚子忌とは暖かきもの
 上野章子六女1919~1999
 上野泰義子1918~1973

ここに載せさせていただいた皆さんにとっては、父や祖父、曽祖父などの命日が「虚子忌」と名付けられている訳です。家族のことを俳句で偲び、それが季語になっているというのは非常に貴重なことだと思います。21世紀に入っても詠み続けられており、忌日の季語の中でも「生命力の高い季語」と言えるでしょう。

【参考】秋(10月14日)の季語「西の虚子忌」

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『この後は西の虚子忌と申さばや』/星野立子

1959年(昭和34年)の10月14日(十三夜)に、比叡山横川の「虚子之塔」に分骨をされたことから、10月14日の法要日を「西(の)虚子忌」と命名され、次女・星野立子が上記句を詠みました。ちなみに『ホトトギス俳句季題辞典』には、「西(の)虚子忌」が秋十月の季語として掲載されています。

言い換えると、春四月の「虚子忌」とは別の季語と考えた方が良いかと思います。仮に、「虚子忌」が兼題として出題された時に「西の虚子忌」を詠むのは避けた方が無難な気がしますね。

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賑やかに、様々な「虚子忌」の句たち

「高浜虚子の一族・姻戚」で説明されているとおり、お子さんも多く、お弟子さんも多かったことも、この「虚子忌」という季語が長く広く用いられる要因になったと思います。例句を調べてみてもどこか賑わっていたり、楽しげな句が多い印象です。例えば、

  • 『ぎつしりと並ぶ黒靴虚子忌なり』/奥坂まや
  • 『座布団のたらぬ虚子忌となりにけり』/山本林雨
  • 『座布団の房大いなる虚子忌かな』/伊東慶子

大人数が集まる時のアイテムが「賑わい」を醸し出しています。似た傾向で、『いちばんわかりやすい俳句歳時記』でもお馴染みの辻桃子さんの作品。

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  • 『虚子の忌の大浴場に泳ぐなり』/辻桃子

また、上の表に示した【稲畑汀子】の句に、『はやばやと花の虚子忌の旅程組む』というものがありますが、4月8日という晩春の時期、「花」を絡めた作品もあります。新暦・旧暦の区別はありますが、現在の日本では「陽暦4月8日」に祝われることの多い「祭(灌仏会)」と掛けているのではないかと思います。

  • 『満開の花の中なる虚子忌かな』/秋元不死男

そして、高浜虚子の命日には異名もあって、傍題の一つに「惜春忌」というものもあります。虚子忌が4月だという前提をもってこの句を詠むと、晩春の風の温もりを感じてきませんか?

  • 『虚子の忌の風うしろからうしろから』/宇多喜代子

【まとめ】

ここまで記事をお詠みいただきありがとうございました。俳人・高浜虚子を偲んだ俳句を中心にご紹介してきましたが、最後に1句、ご紹介しましょう。

『忘れずに虚子の忌日と思ふのみ』/勝又一透

俳句を詠めない方も、今日この記事をお読みいただいたことで、どこかで「今日は高浜虚子の命日だ」とか、今日は誰それの命日だ、或いは「今日は身近などなたかの命日だ」みたいに気づく瞬間があると思います。虚子忌の偲び方は俳句を詠むだけではないはずです。

上五の『忘れずに』という言葉に、『人間は忘れてしまうもの、忘れないように努める』という悲しい定めがあるような気がしてならないのです。私の記事では、今後もその折々で「忌日・命日」も様々な形で取り上げていきますので、皆さんぜひ他の記事もお読み頂ければ嬉しいです。

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