【はじめに】
この記事では、日本語版ウィキペディアを通じて、松尾芭蕉の『おくのほそ道』について学びます。
『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行及び俳諧。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」[* 1]という冒頭より始まる。
[* 1] 月日は永遠の旅人であり、やって来ては過ぎてゆく年もまた旅人である、の意。8世紀、中国、唐の詩人、李白の「春夜宴桃李園序」の「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」(そもそも天地はあらゆるものを泊める宿屋であり、時の流れは永遠の旅人である、の意)をふまえたもの。
作品中に多数の俳句が詠み込まれている。「奥の細道」とも表記されるが、中学校国語の検定済み教科書ではすべて「おくのほそ道」の表記法をとっている。
おくのほそ道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下略 )
概要
おくのほそ道(奥の細道)は、芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った紀行文である。全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って、元禄4年(1691年)に江戸に帰った。西行500回忌の記念すべき年に東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねることが最大の目的の旅であった。
「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。
ほとんどの旅程で曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川にあった芭蕉の草庵である採荼庵を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、船に乗って千住に渡り、日光街道の草加、日光へ道を取って下野国の城下町黒羽へ行く。黒羽では大いに歓迎されたこともあり、おくのほそ道の旅程では最長となる14日間滞在する地となった。
ここからさらに北へ向かい白河関を越えて奥州に入る。須賀川、飯坂、仙台と渡り歩き、日本三景の一つに数えられる松島では、その美しい風景に感動するあまり句を詠めず、曾良が詠んだ句「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」が収載されている。平泉は、おくのほそ道の折り返し地点にあたり、藤原三代の栄華をしのび、「夏草や兵どもが夢のあと」の句を詠んだ。
ここから奥羽山脈を越えて出羽国に入って尾花沢に至る。この町の紅花を扱う豪商で、芭蕉とは旧知の俳人でもある鈴木清風を訪ねることもこの旅の目的の一つで、尾花沢に11日間滞在した。尾花沢の人々の強い勧めにより、予定にはなかった山寺(立石寺)に立寄り、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の聲」の句を残す。
日本三大急流のひとつに数えられる最上川を下り、出羽三山の最高峰である月山にも登り、6月半ばにおくのほそ道の最北の地となった象潟に到達する。当時の象潟は、松島に劣らぬ景勝地で「松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し」と、その美しい多島風景を評した。
ここから、再び折り返して日本海岸沿いに南下して新潟へ向かい、出雲崎では「荒波や 佐渡によこたふ 天河」と佐渡島を望む日本海の荒波の情景を詠んだ。 さらに海岸を南下して富山、金沢、福井と北陸道を経て、美濃路(美濃国の脇街道)の大垣で「蛤の ふたみにわかれて 行秋ぞ」の句を詠み、結ばれている。
書き出し(冒頭部)
月日は百代の過客にしてゆきかふ年も又旅人なり舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふるものは日々旅にして旅をすみかとす古人も多く旅に死せるあり
Wikisource > おくのほそ道 より
旅程
日本語版ウィキペディアの記載を、主観で再編集してタイムライン化。引用の俳句については、本来は俳句で避けるべきとされる「分かち書き」となっているので、本来の一行書きに改めました!
- 「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」
芭蕉は旅立ちの準備をすすめ、隅田川のほとりにあった芭蕉庵を引き払う
- 旧3月27日
(新5/16)「行く春や鳥啼き魚の目は泪」明け方、採荼庵より舟に乗って出立し、千住大橋付近で船を下りて詠む
- 旧4月1日
(新5/20)「あらたふと青葉若葉の日の光」下野国日光(現、栃木県日光市)
- 旧5月13日
(新6/29)「夏草や兵どもが夢のあと」
「五月雨の降り残してや光堂」藤原3代の跡を訪ねて平泉(岩手県奥州市)にて
- 旧5月27日
(新7/13)立石寺(山形市山寺)にて
- 旧5月29日
(新7/15) - 旧7月4日
(新8/18) - 旧9月6日
(新10/18)
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