【はじめに】
この記事では、冠名「ニホンピロ」の重賞勝ち馬などを振り返っていきます。通常であれば、日本語版ウィキペディアに「まとめ記事」があるのですが、(2022年4月時点では)全く纏められていないので、ひょっとすると漏れがあるかも知れませんが暫定的にかき集めてみましたのでぜひご活用下さい。
(参考)FYH株式会社って?
FYH株式会社とは、転がり軸受ユニット「ピローブロック」を製造する企業である。大阪府堺市に本社を置く。
概要
1946年、転がり軸受ユニット生産専門メーカーとして小林保・小林百太郎兄弟の手で設立。1950年には工業機械用途を中心としてピローブロックを製造。そのほか宇宙産業やバイオケミカルなど幅広い分野への受注・製造を行っている。2017年、日本ピローブロック株式会社から現在の社名に変更した。
同社オーナーの小林百太郎(2012年12月時点では名誉会長、2022年3月27日死去)は競走馬の馬主としても有名で、ニホンピロウイナー、ニホンピロアワーズといったGI優勝馬を所有している。その関係から2001年に関連会社として競走馬の管理を行う「有限会社ニホンピロ・レーシング」を設立した。
FYH > 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本語版ウィキペディアで、「ニホンピロ・レーシング」や「小林百太郎」氏について検索をしても、この「FYH株式会社」がヒットするだけで、それ以上の詳細は出てきません。
通常であれば、主な活躍馬(せめてGIクラスの馬)が列挙されていてもおかしくないはずなのですが、ウィキペディアの記事で書かれている内容は上記引用部分でほぼ全てです。
なのでここからは、「ニホンピロ(ー)」と冠名が付いた馬のうち、重賞勝ち馬を中心にピックアップして時代ごとにご紹介していきます。皆さんは何頭知っていますか?
1960年代の活躍馬
1963年生:ニホンピローエース【阪神3歳S、皐月賞】
ニホンピローエースは、1960年代後半に活躍した日本の競走馬。年齢表記は旧呼称とする。尚、すべてのレースに田所稔が騎乗した。尾花栗毛の逃げ馬と形容されていた。
1963年3月25日、北海道浦河郡浦河町の辻牧場で誕生。日本ピローブロック製造のオーナー・小林保の所有馬となり。1965年、京都競馬場の小川佐助厩舎へ入厩する。
1965年10月23日の京都競馬場での3歳新馬戦(芝 1,100m)に出走、1分5秒06のレコードタイムで2着のリュウファーロスに1.5秒もの差をつけての圧勝であった。2戦目の条件特別戦でも再びリュウファーロスに勝利し、3戦目には阪神競馬場の重賞競走である阪神3歳ステークス(芝 1,600m)に出走、ここでもリュウファーロス、アポオンワードを下して重賞初制覇を果たす。尚、ニホンピローエースはこの阪神3歳ステークスの勝利が評価されて1965年度啓衆社賞最優秀3歳牡馬に選出された。
…… 4月17日の皐月賞(中山 芝 2,000m)ではスタートダッシュが決まりハナに立つと道中澱みなく快走、第4コーナーを回って最後の直線でもスピードは衰えず、1番人気シヨウグンの追撃も抑えて1着となりタイトルを手にした。
ニホンピローエース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
※血統表をみると、父はフランスのモンタヴァル、母系は日本古来からの一族で、母父は1942年の東京優駿を制したミナミホマレで、母母父は月友、3代母は「第参ソネラ」という由緒ある血統です。
※また、距離面に関しては、短距離からマイルが強かったと見られ、2000m超だと2桁着順などの大敗が多く、勝った中での最長が皐月賞の2000mでした。
1964年生:ニホンピローホマレ【京都記念】
こちらは小林百太郎氏の持ち馬。1961年の桜花賞のほか牡馬混合重賞を複数制しているスギヒメの産駒です。1968年の「京都記念(春)」に7頭立ての5番人気(牡馬ながら最軽量の53kg)で出走。前年のオークス馬・ヤマピツトら重賞馬を抑えて生涯唯一の重賞勝利を収めています。
※ちなみに最初の頃は「ニホンピロ」ではなく「ピロー」と伸ばしていたんですね、興味深いです。
1970年代の活躍馬
1968年生:ニホンピロムーテー【菊花賞】
ニホンピロムーテーは日本の競走馬、種牡馬。1971年の第32回菊花賞などに優勝した。主戦騎手は福永洋一。福永の騎手生活最初の八大競走優勝馬である。
…ここまでの勝利はいずれも差し、あるいは後方からの追い込みで挙げたものであり、菊花賞でも当初は先頭から5、6番手に位置取っていた。しかし福永はレースがスローペースで推移していることを見て取り、2周目の第2コーナーで早くもニホンピロムーテーを先頭に立たせた。
この展開に場内がどよめいたが、福永は第3コーナー手前からスパートをかけると、最後はスインホウシュウを3/4馬身抑え優勝を果たした。この勝利は騎手の福永、調教師の服部ともに、初の八大競走制覇となった。
福永は競走後、「ニホンピロムーテーは1600メートルなら誰にも負けない。あそこで先頭に立てばゴールまで1600メートル。このペースなら逃げ切れると思った。あれで負けたら乗り役をやめても良いぐらいの自信があった」と語った。この騎乗により、福永は「天才」という評価を確立したとされる。
ニホンピロムーテー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
音数の関係で「ムーテー」となっていますが、これは父ムーティエ(Moutiers)のことでしょう。上記のモンタヴァルの半弟に当たる種牡馬で、二冠馬・タニノムーティエの方で有名かも知れません。
父ムーティエは非常に悍性のきつい馬として知られ、本馬も気性の荒い馬であった。
母ニホンピローは競走馬時代に5勝。小林保の所有馬で「ニホンピロー(またはニホンピロ)」と名付けられた最初の馬である。その全妹に京都牝馬特別優勝馬ミスハツライオー。
母系は戦前屈指の名牝・月城(クレオパトラトマス)の流れを汲み、近親にはハクチカラなど数々の名馬がいる。
( 同上 )
1976年生:ニホンピロポリシー【デイリー杯3歳S】
祖母に1965年の最優秀5歳以上牝馬(当時)に輝いた「オーヒメ」がいるニホンピロポリシーは、3戦2勝で「デイリー杯3歳S」に出走し、2馬身差のレコード勝ちを収めます。
その後の「京都3歳S」、本番の「阪神3歳S」は、ともに【タマモアサヒ】に敗れて初の連敗を喫すると、年明けはトライアルを2戦して3着とし、皐月賞には2番人気で挑むも6着、その後は馬券圏内にも絡めず現役を引退しています。
1980年代の活躍馬
1980年生:ニホンピロウイナー【マイルGI3勝】
ニホンピロウイナーは、日本の競走馬である。マイルチャンピオンシップ2勝、安田記念優勝など中央競馬の重賞を10勝、特にマイル(約1600メートル)以下の短距離競走では圧倒的な強さを誇った。1983年、1984年、1985年の3年連続で優駿賞最優秀スプリンターを受賞している。
本馬はグレード制導入とともに整備されたマイルGIを3勝するなど、八大競走と呼ばれた中長距離の大レースに比して「裏街道」と言われていた短距離レースで勝ち続けることにより、後に続く短距離、マイルGI路線の活路を開いた存在とされる。また種牡馬としてもヤマニンゼファー、フラワーパークという短距離GIの優勝馬を輩出するなど優れた実績を残した。
母ニホンピロエバートは1974年のクラシック二冠馬キタノカチドキの半妹であり、管理調教師の服部正利はキタノカチドキを管理していた。主戦騎手は河内洋。叔父キタノカチドキの主戦騎手武邦彦も6戦騎乗している。
ニホンピロウイナー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1982年生:ニホンピロビッキー【最優秀3歳牝馬】
小林百太郎氏の持ち馬。トウショウボーイ産駒で1984年に4戦3勝2着1回(ラジオたんぱ杯3歳牝馬Sを優勝)の成績で「最優秀3歳牝馬」に輝いています。約10ヶ月の戦線離脱の後に復帰し、阪神牝馬特別を2着としましたが、重賞は上記1勝のみとなっています。
1985年生:ニホンピロブレイブ【京阪杯、エプソムC】
4歳春に1400万下 → 京阪杯 → エプソムCと3連勝(重賞連勝)。期待されるも、約1年半の長期戦線離脱を余儀なくされます。5歳の年末に復帰し7歳春まで現役を続け、勝利こそなかったものの、重賞2回を含むオープンクラスでの2着6回を記録しました。
1990年代の活躍馬
1987年生:ニホンピロエイブル【京都4歳特別】
ニホンピロウイナー産駒で、ダービートライアル最終節だった「京都4歳特別」を7番人気ながら勝利し、アイネスフウジンの勝った日本ダービーに出走。14番人気の14着となり、このレースを最後に現役を引退しました。
1988年生:ニホンピロラック【東京障害特別】
平地時代はシンザン記念3着などを含む31戦6勝(現4歳時に3連勝でオープンクラスを2勝、現5歳になって2着3回)の成績を残し、現6歳になって障害入り。秋の「東京障害特別」で1番人気に応えて重賞勝利を果たしました。
1989年生:ニホンピロプリンス【CBC賞、マイラーズC】
ニホンピロウイナー産駒で、こちらは短距離~マイルに特化したレースを選択。現5歳時にはGIIだった「CBC賞」を、現7歳時には「マイラーズC」を制し、GIIを2勝しました。
1995年生:ニホンピロジュピタ【南部杯、エルムS】
デビュー当初は芝レースのみに出走。 新馬戦を僅差で勝ち上がるものの以降は掲示板(5着以内)レベルの内容が続き、4歳春早々にダート路線に方向転換となる。
これが功を奏し格上挑戦のエルムステークスで3着に入る等、古馬相手にも引けをとらない内容を見せ、1999年5歳夏にオープンクラスに昇進。さらに前年3着に終わったエルムステークスにて初の重賞タイトルを獲得し、その勢いを次走南部杯にも持ち込み優勝。条件戦から一気の4連勝でGI馬の仲間入りとなる。
ニホンピロジュピタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2000年代の活躍馬
1997年生:ニホンピロスワン【ローズS】
条件戦3着からの格上挑戦で挑んだ「ローズS」で、オークス馬・シルクプリマドンナなどを相手に勝って生涯唯一の重賞制覇。秋華賞は3番人気に支持されるもティコティコタックの11着。
年明けには都大路Sで2着、朝日チャレンジCで3着と善戦するも、重賞勝ちは「ローズS」のみで現役を引退します。
1998年生:ニホンピロサート【ダートGIII・5勝】
ニホンピロサート (Nihon Pillow Cert) は、日本の競走馬である。主な勝ち鞍は2003年ガーネットステークス、2004年プロキオンステークス、サマーチャンピオン、2005年さきたま杯、兵庫ゴールドトロフィー。馬名の由来は「冠名+本命」
ニホンピロサート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2003年生:ニホンピロレガーロ【小倉記念】
ニホンピロサートの弟であるものの、ダートでは2着1回のみ。5歳まで条件戦で9戦全敗で、勝ちは全て芝コースという極端な兄弟でした。7歳で小倉記念を9番人気でハナ差制し、初重賞制覇を果たしました。父・アドマイヤベガの2年目の産駒にあたり、母系は両親ともニホンピロの系譜でした。
2010年代の活躍馬
2007年生:ニホンピロアワーズ【JCダートほか】
ニホンピロアワーズは日本の競走馬。2011年名古屋グランプリ、2012年ジャパンカップダート、名古屋大賞典、白山大賞典、2013年平安ステークス、2014年東海ステークス、ダイオライト記念優勝馬。馬名の由来は冠名+「私達のもの」。
ニホンピロアワーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
GIを勝った以外にGIIとGIIIをそれぞれ3度制しており、21世紀の平地では最も活躍した馬でしょう。
2010年生:ニホンピロバロン【中山大障害ほか】
ニホンピロバロン(英: Nihonpiro Baron、2010年3月30日 – )は、日本の競走馬。主な勝ち鞍は2018年の中山大障害(J・GI)、2016年の京都ハイジャンプ(J・GII)、阪神ジャンプステークス(J・GIII)。馬名の意味は、冠名+男爵。
ニホンピロバロン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
5歳シーズンとなった2015年も勝ちきれないレースが続いたが4月26日福島の4歳以上500万下(ダート2400m)で1年8か月ぶりの勝利を挙げる。しかし、その後は惨敗続きとなり、7月25日の駒場特別12着を最後に障害入りする。
11月28日東京の障害未勝利戦で初勝利を飾ると、翌2016年の中山新春ジャンプステークスから阪神ジャンプステークスまで5連勝を飾った。11月12日の京都ジャンプステークス2着の後、屈腱炎を発症して1年以上の休養を余儀なくされる。
( 同上 )
2018年3月24日のペガサスジャンプステークスで復帰し2着。4月14日の中山グランドジャンプではオジュウチョウサンの3着に入るも、脚部不安を発症。中山グランドジャンプからのぶっつけで挑んだ中山大障害では好位追走から3~4コーナーで先頭に立つと、最後はタイセイドリームとの競り合いをハナ差制してJ・GI初制覇を飾った。
2019年4月13日の中山グランドジャンプではオジュウチョウサンの6着となるも、再び脚部不安を発症。左前繋部浅屈腱炎と診断され、9ヶ月以上の休養を要する見込みであることから現役続行を断念。同月19日付で競走馬登録を抹消された。
( 同上 )
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