地方馬の「ジャパンC」挑戦の歴史についてまとめてみた

【はじめに】
この記事では、競馬の祭典・ジャパンC に、日本代表そして地方代表として出走してきた「地方競馬」所属の馬の歴史について振り返っていきます。皆さんはどこから記憶にありますか? 昭和の第1回(1981年)から早速歴史を振り返っていきましょう!

昭和時代:「地方枠」からロツキータイガーが2着

戦後の一時期は中央よりも地方競馬の方が盛り上がり、実力も互角で八大競走を地方競馬からの移籍組が制することもありました。昭和の終わり1980年代に「ジャパンC」が創設され国際化を目指した中央競馬でしたが、特にその初頭は「地方競馬」枠(以下、地方枠)と呼ばれる出走枠が事実上用意され、南関競馬で地方競馬代表を選定するようなレースが開催されるようになりました。

第1回は日本馬が人気を集める中、中央競馬出身の馬が掲示板に1頭も入れない完敗。そんな中で唯一日本馬で掲示板を確保(5着)したのが、浦和競馬出走の【ゴールドスペンサー】でした。

ゴールドスペンサー南関東公営競馬浦和競馬場出身で、浦和時代も川崎記念2連覇や浦和記念を優勝した名馬であったが、この年の中央競馬に移籍して、毎日王冠4着、前走3着の2走しかしていなかった。……日本馬はゴールドスペンサーの5着が最高であった。ゴールドスペンサーは地方競馬出身であり、JRA生え抜きの馬はホウヨウボーイの6着が最高という結果となった。

第1回ジャパンカップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そして、翌年の第2回も、純粋な地方競馬所属馬は出走しなかった代わりに、地方出身馬が3頭も出走し、ヒカリデユールが5着、カズシゲが6着と善戦しました。

ヒカリデユールとカズシゲ、カツアールの3頭の地方出身馬と牝馬のスイートネイティブに牡馬のトドロキヒホウが選出。生粋の中央牡馬はトドロキヒホウのみが出走となり、アズマキングは選考漏れとなった。

ヒカリデユールは東海公営出身で、中央移籍後初レースの朝日チャレンジカップを勝ち前走の天皇賞で2着。実績から日本の総大将といえる存在であった。

カズシゲは社台グループ出身でありながら南関東公営から東海公営を経て中央移籍した。東海公営時代にはヒカリデユールとライバル関係にあった。マイラーズカップ、高松宮杯、函館記念と重賞3勝し、京都大賞典2着してからの出走。なお半弟に日本ダービー馬・ダイナガリバーがいる。

カツアールは南関東公営出身で、前年の宝塚記念勝ち馬。本年は未勝利ではあったが、宝塚記念で2着、前走の天皇賞では3着と健闘しており、当初は回避を宣言していたが出走に踏み切った。

……日本の最先着はまたも地方出身馬のヒカリデユールであり、逃げを打ったカズシゲが6着と頑張った。先頭までの2馬身差は評価が大いに分かれるところであった。

第2回ジャパンカップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1983年・10着:浦和・ダーリンググラス

第3回(1983年)から「地方競馬の出走枠」が実質的に与えられるようになり、正式に現役の地方馬がジャパンCに出走することとなります。その第1号が、福島大賞典・七夕賞と連勝したダーリングヒメを祖母に持つ【ダーリンググラス】でした。

出走馬の動静
第3回は地方競馬から1頭の出走枠が与えられることとなった。……日本馬は日本中央競馬会の積極的な要請を受けて、古馬のトップクラス全馬が出走することとなった。地方競馬からは南関東の大レースを多く勝っているダーリンググラスが招待を受諾した。

第3回ジャパンカップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そして、第4回は地方馬が出走を辞退する結果となり、日本馬は全て中央所属によって争われました。ミスターシービーとシンボリルドルフが人気を集め、カツラギエースが日本馬初優勝を遂げた年です。

競走施行時の状況
地方からは東海公営のリュウズイショウが選出されたが出走を辞退。チュウオーリーガルが追加で招待されたが、レース直前の東京競馬場で最終調整中に管骨を骨折し、出走を取りやめている。よってこの年はNAR所属馬は出走していない。

第4回ジャパンカップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1985年・2着:船橋・ロツキータイガー

前年は日本馬が初優勝を遂げましたがシンボリルドルフは3着で、2着には米・ベッドタイムでした。

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地方馬が初めて連対したのが、1985年(第5回)のロツキータイガーでした。中央代表のシンボリルドルフに迫り、日本馬のワンツーを史上初めて達成する立役者となったのです。

ロツキータイガー(Rocky Tiger)は日本の競走馬。南関東公営競馬の重賞を6勝したほか、第5回ジャパンカップでも2着に入着した。

春は羽田盃3着・東京ダービー2着とキングハイセイコーに敗れたものの、秋の東京王冠賞では三冠を狙ったキングハイセイコーに2馬身半の差を付けて優勝した。明けて5歳になっても勢いは衰えず、報知グランプリカップ金盃ダイオライト記念帝王賞を優勝。前年秋の「いちょう賞」から数えて通算6連勝(重賞は5連勝)を記録した。

その後2戦連続3着の後、当時地方競馬所属馬に対して1頭の招待枠が設けられていたジャパンカップの出走権を争うべく、第22回東京記念に出走する。4歳秋から上昇一途のロツキータイガーと、当時既に5000勝を記録していた佐々木竹見に乗り替わって5戦3勝2着2回のテツノカチドキがジャパンカップの出走権を懸けて激突したこのレースは、後に「名勝負」として語り継がれるレースとなった。最後の直線では残り200mあたりから内ロツキータイガー、外テツノカチドキの2頭が馬体をピタリと併せてのマッチレースとなり、壮絶な叩き合いの末に2頭がゴールへなだれ込む。写真判定の結果アタマ差でロツキータイガーが制し、ジャパンカップの出走権を獲得した。

こうして出走した第5回ジャパンカップには、絶対的本命と目されていたシンボリルドルフが出走していた事もあり単勝人気は15頭中11番人気の低評価だった。馬券的には全く期待されておらず、勝負とは関係ないと思われていたが、陣営や関係者らは真剣にジャパンカップを戦おうとしていた。ジャパンカップのレース本番も、桑島は普段どおりの競馬を徹底した。シンボリルドルフが直線で力強く抜け出し後続馬を引き離していく中、後方からただ1頭猛然と追い込んできたのがロツキータイガーだった。結果1馬身3/4及ばなかったが、地方競馬所属馬ではジャパンカップでの最高着順となる2着となり、結局この1戦のみだった芝にも高い適性を見せた。

ロツキータイガー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1986年・7着:愛知・ジュサブロー

1986年に地方競馬交流競走となった「オールカマー」に出走し、地方競馬での中京開催・東海桜花賞に次ぐ2度目の芝のレースを快勝(3馬身半差)し、地方馬として中央の重賞を制覇。一旦地方に戻って「ゴールド争覇」を勝って9連勝でジャパンCに臨みます。

勝ち馬・ジュピターアイランドが2分25秒0とレコード勝ちを収め、ジュサブローは0.7秒差の7着と善戦。天皇賞馬のサクラユタカオーにクビ差と力を見せる結果となりました。

1987年・13着:大井・ガルダン

現4歳時の浦河記念、現6歳になっての報知オールスターCなどを除き、一線級では掲示板確保が一杯だったガルダン。しかし母父にトサミドリがいる血統で芝で覚醒。オールカマーは当然10番人気と人気薄ながらダイナフェアリーのアタマ差2着と善戦すると、続く富士Sではトリプティクに離されるも5着と入り、ジャパンCへの出走権を確保。

しかし、レースでは日本馬自体ダイナアクトレスの3着以外は全て外国馬に負け、完走した中で最下位の13着にガルダンは敗戦。5頭中4頭が10~13着に入るという厳しい結果に終わりました。

平成時代:北の星「コスモバルク」が久々に2着

1989年・15着:川崎・ロジータ

平成に入って初回のジャパンCは、ニュージーランドのホーリックスと笠松出身のオグリキャップが、2分22秒2という世界レコードで決着し、大きな衝撃を呼びました。

秋シーズンは当時の数少ない中央・地方交流競走であるオールカマーから始動。レース間隔が2ヶ月あいた上初の芝コースなどの不利な条件で、イレ込みがあって道中折り合いを欠くところがありながら、レコード勝ちしたオグリキャップから0.7秒差の5着と大崩れしなかった。これで、当時の規程により第9回ジャパンカップの出走権を獲得した。地元に戻って東京王冠賞を勝って南関東三冠を達成。ジャパンカップではホーリックスの15着と大敗するが、次走東京大賞典で並み居る古馬を相手に馬なりで圧勝し、南関東最強と呼ばれるようになる。

ロジータ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フジテレビの大川和彦アナウンサーの実況には、レース中登場しませんでしたが、川崎そして南関競馬の人気の牝馬【ロジータ】も出走していました。大差の敗戦とはいえ、勝ちタイムは2分26秒9と優秀でした。

最下位で入線したのはブービーのキャロルハウスから更に2秒差を付けられたロジータだったが、同馬の走破時計2分26秒9も同年の優駿牝馬の勝ちタイム2分29秒0を大きく上回るものだった。

第9回ジャパンカップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1990~91年・15着:大井・ジョージモナーク

ジョージモナークとは、日本競走馬種牡馬である。南関東公営競馬で活躍し、地方競馬所属馬として中央競馬重賞である産経賞オールカマーを制し、ジャパンカップにも二度参戦した。

  • 芝適性がかなり高く、調教師の赤間は当初からジョージモナークの走りに芝コースへの適性を見い出していた。競走馬時代後半に主戦騎手を務めた早田秀治もまた同馬を芝向きでダートではそれほど強い馬ではないと評した。その言葉通り引退直前、競走馬としては盛りを過ぎた7歳という高齢にもかかわらず1992年の新潟・BSN杯(芝1,800m)で二着と好走、また、引退レースとなる1992年オールカマーも5着と健闘、掲示板に載った。
ジョージモナーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1992~93年・最下位:大井・ハシルショウグン

ハシルショウグン1988年4月18日 – 1996年5月19日)とは日本競走馬。主な勝ち鞍に1993年帝王賞川崎記念1991年東京王冠賞1992年と1993年の大井記念

ハシルショウグン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

このように1990年代に入ると、地方馬の大敗が目立つようになり、またダートの交流重賞の充実が一気に進んだことで、芝適性の未知数な中で「ジャパンC」に出走してくる馬が居なくなります。

2004年・2着:北海道・コスモバルク

そんな地方から久々に参戦をし、ロツキータイガー以来19年ぶりの地方馬連対を果たしたのが、『北の星』であった【コスモバルク】でした。

コスモバルク2001年2月10日 – )は、日本競走馬

地方競馬ホッカイドウ競馬に所属しながら中央競馬や日本国外のレースに挑戦を続け、2006年シンガポール航空インターナショナルカップシンガポール国際G1)を制したほか、日本中央競馬会 (JRA) の重賞を3勝し、2004年中央競馬クラシック三冠レースすべてに出走した。「道営のエース」と呼ばれる。

続くジャパンカップでは主戦騎手の五十嵐に代わり、フランスクリストフ・ルメールを鞍上に迎えた。陣営は掛かり癖を解消するため、リングハミに代えて臨んだ。逃げるマグナーテンの直後に付け、掛かるところも見せず最後の直線に入ると、勝利したゼンノロブロイには3馬身及ばなかったが、いったん交わされたポリシーメイカーを差し返し、デルタブルースの追撃もしのいで2着に入った。

コスモバルク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コスモバルクは、その後も世界を股にかけつつ、秋は国内王道路線に挑戦し続け、ジャパンCや有馬記念という出走するだけでも楽でない舞台に6年連続で出走し続け、以下の成績を残しています。

2005年・14着、2006年・4着、2007年・13着、2008年・17着、2009年・12着

2006年には、ディープインパクトが国内復帰戦を制したJCで、ドリームパスポート、ウィジャボードと大きな差のない4着に善戦しており、全盛期の地方馬のような期待を持たせる結果を残していました。

2018年・7着:ハッピーグリン

コスモバルクの後はしばらく地方馬の出走がなくなる中、久々の挑戦となったのが【ハッピーグリン】です。2018年のジャパンCといえば、3歳だった【アーモンドアイ】が世界レコードの2分20秒6で、戦慄の優勝を収めた年です。

ジャパン・オータムインターナショナル ロンジン賞 第38回ジャパンカップは、2018年11月25日東京競馬場で行われた競馬競走である。アーモンドアイが当時の芝の2400mの世界レコードを大きく上回るタイムでの優勝を成し遂げた。

地方競馬からは、ホッカイドウ競馬所属で巴賞4着の実績があるハッピーグリンが2009年コスモバルク(12着)以来9年ぶりとなる参戦。

第38回ジャパンカップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

結果的に勝ち馬から1秒6離された7着でしたが、これは従来のレコードタイムに匹敵する「2分22秒2」という走破タイムであり、“地方馬ここにあり”と印象付ける走りでした。

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