Wikipediaで古風土記 ~駿河国~

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。現在の静岡県中部。上国

駿河国
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駿河国の歴史

珠流河国造

珠流河国造(するがのくにみやつこ・するがこくぞう)は、珠流河国(律令制の駿河国東部)を支配した国造。駿河国造とも。

支配領域
国造の支配領域は当時珠流河国と呼ばれていた地域で、後の駿河国にあたる。現在の狩野川周辺から富士川の間である静岡県富士宮市富士市沼津市御殿場市裾野市清水町長泉町小山町にあたる。

祖先

  • 『先代旧事本紀』「国造本紀」によると、物部連の祖・大新川命の子の片堅石命成務天皇朝に国造に任じられたという。
  • 『先代旧事本紀』「天孫本紀」によると、十市根大連の子で物部胆咋宿祢の弟の、物部片堅石連公が駿河国造の祖という。なお十千根と大新川命は兄弟である。

氏族

金刺舎人・金刺部の分布とその理由
金刺舎人や金刺部は、伊豆国の一例を除いて信濃国駿河国に集中している。
信濃と駿河は、古墳などからの馬具の出土例が集中する地域であり、馬の繁殖や育成を行うということは、ただ馬を朝廷に供給するというだけではなく、武装騎乗する騎馬兵力を供給するということでもある。
舎人という職業やその性格を踏まえれば、6世紀中頃のヤマト王権は、政治機構を整えていく中で、信濃や駿河の馬の生産を掌握し、騎馬兵力を構成しうる地域の首長を舎人として体制内に編成したと考えられる。

金刺部氏
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廬原国造

廬原国造(いほはらのくにみやつこ・いほはらこくぞう)は駿河国西部を支配した国造。五百原国造とも。

本拠
国造の本拠は不明。ただし清水区には庵原町などの地名が現存しており、周囲には三池平古墳砥鹿神社がある。

支配領域
国造の支配領域は当時廬原国と呼ばれていた地域。後の廬原郡駿河国の一部。現在の静岡市清水区を中心として、富士川大井川に挟まれた範囲とされる。

祖先

  • 古事記』では孝霊天皇の皇子・日子刺肩別命が五百原君の祖とあり、高志の利波氏・豊国の国前氏などと同系とされる。
  • 『先代旧事本紀』「国造本紀」には池田坂井君の祖・吉備武彦命の子・思加部彦命が廬原国造の祖と伝わる。
  • 新撰姓氏録』によると孝霊天皇の皇子・稚武彦命で笠氏と同系。
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駿河国

  • 7世紀朝廷珠流河国造(現在の静岡県東部)と廬原国造(現在の静岡県中部)の領域を合併して駿河国とした。
    ※この時点では伊豆半島伊豆諸島(後に再度分離して伊豆国となる)を含んでいた。
  • 駿河は当初、須流加(『和名類聚抄』)、須留可(「東遊駿河舞歌」)、薦河(『駿河国風土記』)などとも表記され、尖川ないし駿馬の如きつまり、山から海に落ちる険しい川の意図をもって命名されたといわれている。富士川の流れが急峻であることに由来するというものである。
    • 宝賀寿男は、富士川の流域は庵原郡富士郡であり、語源となった駿河郡駿河郷は現在の沼津市大岡付近にある。この川は黄瀬川のことを指すと主張している。
    • 西隣の遠江国との境は大井川であった。奈良時代の大井川は、山間を出てから現在より北に折れ、今の栃山川を流れており、その流路が境であった。後世に、大井川の流路変更に従って、駿河国の領域が西に広がった。

駿河郡 → 駿東郡(すんとうぐん)

  • 古代は駿河郡と呼ばれていたが、のちに駿東郡と改称された。その詳しい年代については諸説あり、はっきりしない。[要出典]
  • 伊豆国の設置以前は駿河郡駿河郷(現・沼津市)に駿河国の国府があったといわれる。

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では上記3町のほか、概ね以下の区域にあたる。

沼津市・長泉町・清水町を南駿(なんすん)。裾野市・御殿場市・小山町を北駿(ほくすん)と呼ぶ。ただし、裾野市は場合により南駿・中駿・北駿と分類され一定しない。

  • 高尾山古墳(たかおやまこふん)
    静岡県沼津市にある全長62mの前方後方墳で、3世紀中期または4世紀中期の築造とされる。
    • その立地や築造時期から国造祖の大新川命の墓と考えられる(宝賀寿男「沼津の高尾山古墳の保存問題」『古樹紀之房間』2015年)
    • 静岡県沼津市東熊堂(ひがしくまんどう)にある古墳である。形状は前方後方墳、史跡指定はされていない。沼津市教育委員会は古墳時代最初期の西暦230年頃(邪馬台国の時期)の築造、被葬者の埋葬は250年頃と推定しており、古墳出現期の東日本では最古級かつ最大級の古墳とされている。日本考古学協会は、日本の初期国家形成過程の画期である古墳文化形成を解明する上で極めて重要な遺跡であると評価している。
    • 出土品:青銅鏡(上方作系浮彫式獣帯鏡)1面、勾玉1点、槍1点、鉄鏃32点、槍鉋(やりがんな)1点、墳丘や周溝から大量の土器
  • 東坂古墳(ひがしざかこふん)
    静岡県沼津市にある前方後円墳で、5世紀初頭の築造とされる。
  • 神明塚古墳(しんめいづかこふん)
    静岡県沼津市にある全長53mの前方後円墳
  • 長塚古墳(ながつかこふん)
    静岡県沼津市にある全長54mの前方後円墳で、6世紀前半の築造とされる。
  • 子ノ神古墳(ねのかみこふん)
    静岡県沼津市にある全長46mの前方後円墳。

富士郡

  • 富士市の大部分(境・境南・船津・船津南・西船津・西船津南および富士川以西を除く)
  • 富士宮市の大部分(富士川以西を除く)

富士山の名は富士郡から来るという平安前期9世紀の詩がある。[富士山記 (都良香)(本朝文粋)]

古墳

  • 浅間古墳(せんげんこふん)
    静岡県富士市にある全長100mの前方後方墳で、4世紀末から5世紀初頭の築造と見られているが、前後に築造された古墳との関係から、4世紀後期の築造とも考えられる。
    • 前方が東南に向いた前方後方墳である。全長約100メートル。主軸は長さ約97メートル。葺石の一部が残る。後方部には浅間神社の社殿がある。駿河にある墳丘として代表的な存在である。
  • 庚申塚古墳(こうしんづかこふん)
    静岡県富士市にある全長40mの双方中方墳で、5世紀末から6世紀初頭の築造とされる。
  • 山ノ神古墳(やまのかみこふん)
    静岡県富士市にある全長41mの前方後円墳で、6世紀前半の築造とされる。

神社

  • 富士山本宮浅間大社 …… 古くは『延喜式神名帳』に「浅間神社」と記載。
    • 「浅間」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。「あさま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は中世以降から用いられたと見られている。また、「本宮」は静岡浅間神社(新宮)に対する呼称である。
    • 富士山には、その美しい山容から女神と見る信仰が古くからあり、平安時代には都良香の「富士山記」(『本朝文粋』所収)に「浅間大神」として、『竹取物語』には「かぐや姫」の名でその表現がある。しかしながら、これに『古事記』『日本書紀』に見えるコノハナノサクヤヒメが当てられたのは近世に入ってからと見られ、それまでは一般に「浅間神」の名で信仰されていた。
    • 「浅間」の古称「あさま」は、阿蘇山浅間山朝日岳等に見られるように「火山」を表す呼称と見られている。都良香の記述も延暦21年(802年)の噴火を取り上げており、この頃に「浅間神」の呼称が生まれたと考えられている。

庵原郡

庵原郡(いはらぐん、いほはらのこおり)は、静岡県駿河国)にあった

成務朝吉備氏一族の意加都彦命が廬原国造に定められ、庵原郡庵原郷を本拠とした。その後裔の廬原氏白村江の戦い等で活躍し、戦国時代に至るまで長きにわたって当地を支配した。

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  • 神明山1号墳(しんめいやまいちごうふん)
    静岡市清水区にある全長72mの前方後円墳。奈良県桜井市箸墓古墳の4分の1の規模で設計され、3世紀後半に築造された。
  • 午王堂山3号墳(ごおうどうやまさんごうふん)
    静岡市清水区にある全長78mの前方後方墳で、4世紀後半に築造された。築造時期から廬原国造の初祖のものとされる。
  • 三池平古墳(みいけだいらこふん)
    静岡市清水区にある全長68mの前方後円墳で、5世紀初頭に築造された。午王堂山3号墳に次ぐ古墳と考えられる。

安倍郡

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね静岡市葵区の大部分(春日・柚木・宮前町・長沼・古庄・瀬名・瀬名川・南瀬名町・東瀬名町・西瀬名町・瀬名中央・長尾・平山を除く。静岡駅周辺の住居表示実施地区の境界線は不詳)にあたる。

駿河国府が置かれた地である。

  • 谷津山古墳(やづやまこふん)
    静岡市葵区にある全長110mの前方後円墳で、4世紀に築造された。

有渡郡

有渡郡(うどのこおり・うどぐん)は、静岡県駿河国)にあった

1896年(明治29年)4月1日 – 郡制の施行のため、安倍郡・有渡郡の区域をもって、改めて安倍郡を設置。同日有渡郡廃止。

志太郡

志太郡(しだぐん、しだのこおり)は静岡県駿河国)にあった

  • 藤枝市の大部分(源助・平島・田中・益津および立花・城南・緑町・郡・岡出山・本町・藤枝・稲川の各一部を除く)
  • 焼津市の一部(越後島および上小杉、下小杉以南を除く小川、小川新町、東小川、西小川、三ヶ名、五ヶ堀ノ内、小土、保福島以南)
  • 島田市の一部(大井川以東)
  • 榛原郡川根本町の一部(大井川以東)

志太郡衙跡(しだぐんがあと)は、静岡県藤枝市南駿河台にある古代駿河国志太郡郡家郡衙)の遺跡。別名を御子ヶ谷遺跡(みこがやいせき)。国の史跡に指定されている。

1977年昭和52年)に団地造営のための区画整備を行っている際に発見され、その後の発掘調査によって掘立柱建物30棟をはじめ、や板塀、井戸道路などの遺構が次々と発見され、古代郡衙の構造を示すものとされた。さらに出土した260点余りの墨書土器から、「志太」という地名と大領・少領・主帳などの郡司官職名が確認され、志太郡の郡衙跡と判明した。このため、当該区域での団地造営は中止され、史跡公園として整備された。

遺構は東西と南側を丘陵に囲まれた谷部に位置し、8世紀前半から9世紀前半にかけて3期の造替を繰り返したと見られる。建物は南北に棟の方位を揃えた規則的な配置であるが、小規模かつ典型的な郡庁と異なる構成であるため、郡庁や正倉ではなく厨家や館の遺構と推測される。

志太郡衙跡
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益津郡

益津郡(ましづぐん、ましづのこおり)は静岡県駿河国)にあった郡。

  • 藤枝市の一部(平島・田中・益津および立花・城南・緑町・郡・岡出山・本町・藤枝・稲川の各一部)
  • 焼津市の一部(越後島を除く鰯ヶ島、本町、焼津、大村新田以北)

駿河国で最も面積の小さい郡であった。

1896年(明治29年)4月1日 – 郡制の施行のため、志太郡・益津郡の区域をもって、改めて志太郡を設置。同日益津郡廃止。

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