ウィキペディア小旅行「淡路島」(淡路市、洲本市、南あわじ市)

【はじめに】
皆さん「ウィキペディア小旅行」へようこそ、ツアーコンダクターのRxです。今回は「淡路島」を巡っていきます。素敵な旅をお過ごし下さい。

淡路島(あわじしま)は、瀬戸内海東部に位置する。日本国内では島としては主要4島を含め11番目に面積が大きく、瀬戸内海では最大面積の島で、人口は離島の中では最も多い約13万人。令制国淡路国の主要国域を占める。近畿地方兵庫県に属し、現在は北から淡路市洲本市南あわじ市の3市で区分される。日本神話国産みの島としても知られる。

淡路島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下省略 )

概要

古代より淡路国として存在し、江戸時代には蜂須賀家が阿波国とともに領した。淡路洲本城主である筆頭家老稲田家と蜂須賀家との対立に端を発した庚午事変の発生により、廃藩置県では徳島県ではなく兵庫県に編入された。

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気候が温暖で、農業が盛ん。特に酪農タマネギ栽培がよく知られる。第二次世界大戦中までは、要塞地であったため、観光地として発展することはなかった。しかし、1950年国立公園に編入されて以降、鳴門と抱き合わせでクローズアップされ出した。2016年以降は、パソナグループ、さらに飲食業のバルニバービがこれまで「西浦」と呼ばれ開発から放置されてきた西側海岸に目を付け、播磨灘の美しい夕日を目玉に観光開発を進め、観光施設が相次いで出現。賑わいを見せ始めた。

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気候

全島が瀬戸内海式気候(年間平均気温約16℃、年間降水量約1300mm)の区分に属するが、諭鶴羽山地以南では南海型太平洋側気候の特徴も少し混じる。このため多くの農業用ため池があり、兵庫県内にある43,000のため池の半数を超える23,000が島内にある。 近代以降もダム建設が行われてきたが、1999年平成11年)12月に明石海峡大橋に架設された口径450mmの2条の水道管による本土導水が開始された。台風銀座であり第2室戸台風をはじめ、多くの台風が通過している。

歴史

古代
記紀』の日本列島国産み神話では、淡路島は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が日本列島中、最初に創造した島である。『古事記』では淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま、あわじのほのさわけのしま)と記される。

先代旧事本紀』「国造本紀」には、仁徳天皇の御代に淡道国造が設置されたとの記述があり、『日本書紀』では淡路洲と記される。海人族とされる阿曇浜子によって水軍が形成され、初期の天皇家との繋がりは深いらしく、淡路宮や淡路からの皇后の記載も見られる。また反正天皇は淡路島で生まれたとされる。

古代から平安時代まで御食国(みけつくに)として皇室朝廷(にえ)を貢いだとされる。『延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。

近世
江戸時代になり徳川家康は大坂の陣で貢献した蜂須賀氏に従来の阿波国に加えて淡路国を加増した。その際、蜂須賀家の家祖蜂須賀正勝(子六)と義兄弟の契りを結び蜂須賀家の家臣となっていた稲田植元、その子の稲田示植、そして孫の稲田植次の活躍が特に大きかったため、徳川家康の命により稲田氏が淡路一国を支配する城代に代々任じられる事となった。

ただし蜂須賀家にとって稲田氏はあくまで一家臣に過ぎず、しかし稲田氏では代を重ねるごとに徐々に蜂須賀家からの独立意識が芽生え、次第に軋轢が生じるようになる。明治維新では、佐幕であった蜂須賀家に対し、稲田氏は倒幕・新政府側に立って活動した。それにも関わらず家臣は士族ではなく卒族とされた(陪臣とみなされた)ために、稲田氏側は淡路を阿波藩から分藩独立することを画策した。その動きに対し庚午事変(稲田騒動)で蜂須賀家側が一方的に稲田氏側を殺傷したことより確執は決定的なものとなった。
それが遠因となり、1876年に初代兵庫県知事となった伊藤博文が大きな領域を望んだこともあり、淡路は阿波と別れて兵庫県に編入されることになった。以来、兵庫五国の一角として発展している。

  • 1871年12月26日 – 名東県が成立(阿波国・讃岐国・淡路国)
  • 1876年8月21日 – 兵庫県に編入
  • 1940年2月11日 – 洲本町の市制施行により洲本市が成立
  • 1970年9月16日 – 台風第25号の接近に伴う集中豪雨三原川洲本川など島内の河川が氾濫。7000戸以上が床上・床下浸水。
  • 2005年1月11日 – 南部の4町の合併で南あわじ市が誕生
  • 2005年4月1日 – 北部の5町の合併で淡路市が誕生

行政

1965年昭和40年)以降、洲本市津名郡三原郡の1市10町体制が続いていたが、市町村合併によって、2005年平成17年)1月11日には三原郡4町(緑町三原町西淡町南淡町)が南あわじ市に、同4月1日には津名郡五色町を除く津名郡5町(淡路町北淡町東浦町一宮町津名町)が淡路市となった。残る五色町は2006年(平成18年)2月11日に洲本市と合併し、新たに洲本市となった。これらの合併により現在の淡路島は、北から淡路市・洲本市・南あわじ市の3市体制となっている。淡路島全体で一つの市となる構想や動きもあったが、実現しなかった

淡路市

淡路市(あわじし)は、兵庫県南部の淡路島北端から中央部にかけて位置する。島の北側3分の1を占める。明石海峡大橋を通じて神戸市と、明石海峡をはさんで航路で明石市と、市南部は洲本市と隣接しており、神戸都市圏(1.5%都市圏)に含まれる。

旧・津名町から引き継いだ1億円の金塊や、兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)の震源地である旧・北淡町野島断層、世界最長の吊り橋明石海峡大橋などがある。また百人一首の「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ」(藤原定家)の歌は、北端の松帆の浦(松帆崎)が舞台である。

淡路市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

・面積:184.32km^2
・人口:41,283人【2022/12/1 推計】

洲本市

洲本市(すもとし)は、兵庫県南部の淡路島の中部西から南東に貫く都市である。

淡路市南あわじ市と、また紀淡海峡を隔てて和歌山県和歌山市とも接する市である。境界が確定している部分が海上ではあるものの、兵庫県が和歌山県と唯一接している都市でもある。

・面積:182.38km^2
・人口:40,287人【2022/12/1 推計】

洲本市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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南あわじ市

南あわじ市(みなみあわじし)は、兵庫県南部の淡路島最南端(県全体としても南端)に位置する

・面積:229.01km^2
・人口:42,872人【2022/12/1 推計】

南あわじ市
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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