Wikipediaで古風土記 ~土佐国~

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。高知県にあたる。

土佐国
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土佐国の歴史

古くは『古事記』『日本書紀』では「土左」、『先代旧事本紀』では「都佐」と記されている。元々は「土左」で和銅6年(713年)の好字令で「土佐」に改められたといわれるが、和銅6年以後も「土左」と「土佐」が混用されている。平安時代中期に至り「土佐」が一般的な表記となったとされる。

「トサ」の語源には、俊聡・遠狭・(浦戸湾を指して)門狭などの諸説があるが明らかではない。

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律令制において、都佐国造波多国造の領域をあわせて建てられた。「土佐」(土左)の記述は『日本書紀』に見え、天武4年3月(675年)の条項に「土左大神以神刀一口、進于天皇」とある。また天武13年(684年)には「土左国田苑五十余万頃、没為海」、「土左国司言、大潮高騰、海水飄蕩、由是運調船多放失焉」と白鳳地震における地変や津波により調を運ぶ船が流失したことを国司が報告する記事があり、律令制が敷かれ国司が派遣されていたことを示すものである。

古くは流刑地の一つであった。『日本書紀』の天武5年9月(676年)の条項に「筑紫大宰三位屋垣王、有罪、流于土左」と見える。

都佐国造

都佐国造(とさのくにのみやつこ・とさこくぞう)は、都佐国(後の令制国土佐国東部)を支配した国造

  • 『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務天皇の御世に、長阿比古(ながのあびこ、長我孫)と同祖の三嶋溝杭命の9世孫の小立足尼を国造に定められたとされる。

土佐氏(とさうじ、凡直)。国造制の後には都佐評評督を務め、さらに後は土佐郡の郡司を務めた。奈良時代には凡直を称したという。安芸郡少領家として凡直姓の者が見えるため、安芸郡が土佐国の支配下にあったことがわかる。その他『続日本紀神護景雲2年(768年)十一月戊子条で賀茂姓を賜った神依田公も当地の豪族であり土佐高賀茂大社が存在したとされ、式内社都佐坐神社に比定される。

国造の本拠は後の土佐国土佐郡土佐郷か。
土佐国西部(幡多郡)を波多国造が支配しており、安芸郡を含む土佐国東部を都佐国造が支配していたとされる。名称については、建依別の示す剛健勇武さに由来する「敏聡」の約語によると見る説、遠狭・土狭・処離といった地勢に基づくとする説などがある。

安芸郡

東西に長い土佐国の東の端に位置した。文献初見は天平宝字6年(762年)8月27日の日付を持つ「造石山院所労劇文案」という史料で、右大舎人少初位上の玉作子綿が土左国安芸郡の人と記す。

香美郡

香美郡(かみぐん、かがみのごおり)は、高知県土佐国)にあった。古代は「かがみのごおり」と呼ばれ、「香我美郡」「加々美郡」などとも書く。郡名は「」に由来すると言われる。香我美町はその名残であった。 天忍穂別神社大川上美良布神社

長岡郡

郡の設置時期は不明だが、西大寺旧境内で発掘された宝亀2年(771年)以前の木簡に、長岡という郡の名が見えるので、これ以前にあったことは確実である。
また、石神遺跡から出た木簡に、「□岡評」(□は不明な字)と記されたものがあり、この□がだいぶ薄れているが長とも読めそうな形である。もし長岡評なら、制が敷かれた7世紀に設置されたとみなせるが、断定はできない。平安時代には土佐国の国府が置かれた。

土佐郡

土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社式内社(大社)、土佐国一宮。土佐神社の祭神は、古くは『日本書紀天武天皇4年(675年)条や朱鳥元年(686年)条で「土左大神」として、地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載された。この土左大神の祭祀には、在地豪族である三輪氏同族の都佐国造(土佐国造)があたったと考えられている。

吾川郡

古くは阿川郡とも書いた。資料的な根拠はないが、7世紀の制施行とともに設置されたと考えられている。存在が確認できるもっとも古い資料は、平城宮跡の発掘調査で見つかった「土左国吾川郡」と書かれた木簡である。この木簡は天平7、8年頃(735年736年)頃のものと推定されるので、吾川郡もそれ以前に設置されたことになる。

高岡郡

承和8年8月23日(841年9月11日) – 吾川郡の4郷をもって高岡郡を設置。

波多国造

波多国造(はたのくにのみやつこ・はたこくぞう)は、後の令制国土佐国西部、現在の高知県西部を支配した国造

  • 『先代旧事本紀』「国造本紀」よれば、崇神天皇の御世に、韓襲命を神の教えにより国造に定められたとされる。
  • 天韓襲命を事代主神の子(または孫)の観松彦色止命の9世孫で、長国造都佐国造の祖である韓背足尼と同人とする説がある。

本拠地は、現在の四万十市(しまんとし)中村説と、宿毛市平田の平田曽我山古墳のある平田古墳群の地とする説がある。
波多国造は後の令制国の土佐国のうち幡多郡を支配したと考えられる。「国造本紀」に見える都佐国造は波多国造より後の設置とされ、また律令制以前の南海道伊予から当地を経て都佐国造の地に至っており、土佐中央部よりも先進地帯であったといわれている。

幡多郡

幡多郡(はたぐん)は、高知県土佐国)の。古くは播多郡とも書いた。平城宮跡で出土した木簡に、「播多郡嶋田里」と記されたのが、幡多郡の存在を示すもっとも古い証拠である。国郡里制が施行されていた大宝元年(701年)から霊亀元年(715年)のものである。今ある文献で初めて記すのは、貞観2年(860年)6月29日、土左国播多郡の地10町を施薬院に与えた事を記す『日本三代実録』である。 ※伊豆田神社、高知坐神社加茂神社

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