【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「チャンピオンズC」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。
チャンピオンズカップは、日本中央競馬会 (JRA)が中京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。創設から2013年までは「ジャパンカップダート」の名称で、主に東京競馬場(2007年まで)や阪神競馬場(2008年以降)で施行していた。2008年以降は原則12月第1日曜日に開催される。
チャンピオンズカップ (中央競馬)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2000年以前の日本における砂・ダート競馬
「チャンピオンズカップ」の前身となる『ジャパンCダート』が創設されたのは2000年のことであり、ちょうど1999/2000年が一つの区切りとなります。どういった経緯でJCダートが設立に至ったのかを見るにあたって、2000年より前の日本における砂・ダート競馬を見ていきましょう。
明治・大正時代:ヨーロッパ同様、芝コースが中心も
世界的には、ヨーロッパを中心に「芝」コース、アメリカ大陸を中心に「ダート(土)」コースが主流となっています。日本は、ヨーロッパ競馬を模範としてきたため、明治の根岸競馬場を代表に『芝』を中心として発展してきました。
ちなみに『ダート』コースについて、こんな記載がウィキペディアにありましたので、ご参考までに。
アメリカ
アメリカの競馬は、伝統的にダートコースにおけるレースが非常に盛んである。ダートは和訳すれば土であり、日本の競馬で使われている砂の意ではない。アメリカのダートコースは土を使っており、路盤は煉瓦を砕いた赤土のような路盤となっており、ダートレースは日本の芝レース並みの走破タイムが出る。一時期、アメリカの競馬界においてはイギリス式のオールウェザー (AW) 馬場を導入する競馬場が増えていた。これは、低温と降雨のために芝コースでのレース開催を通年で行うことが難しいイギリスにおいて発展したもので、ワックスされた砂と化学合成物質の混合物をコースの素材とするものである。オールウェザー馬場の利点は、維持費が安い、寒空時に馬場状態が悪化し難い、コースを平坦に均し易いことに加え衝撃を吸収する素材の性質から、競走馬の脚部にかかる負担が少ない、という点にあるとされ、競走馬の育成・調教施設では世界的に広く導入されている。
ダート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しかし、横浜と同じく『居留地競馬』として始まった『神戸居留地競馬』のページには、こんな記載があり、芝コースを断念したという記載が見当たります。
1870年以降も競馬は年2回(春と秋)のペースで開催されて活況を呈し、1回の開催における開催日数は1870年秋以降3日に増加した。しかし競馬場はいくつかの構造上の問題を抱えていた。まず第2コーナーと第3コーナーのカーブが急で、襲歩で走行できないほど急であった。またダートコースの水はけは非常に悪く、横浜競馬場のようにコースに芝を張ることが検討されたものの技術的に困難であるという理由から断念された。
神戸居留地競馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この他、明治前半の各地で近代化がはかられた“競馬”のうち、祭典競馬の馬場などを利用したものは、境内の土コースなどを利用したケースも多かったと考えられます。『芝』コースを維持・管理することの負担はいつの時代も小さくなくて、現代の地方競馬にも共通した悩みだったかも知れません。
日本
中央競馬では戦後、日本中央競馬会が冬季間の芝コースの保護を目的として、アメリカを参考にして土主体のダートコースを導入した。しかし、水捌けの悪い土主体のダートコースは雨の多い日本の気候条件下では使用に耐えず、ほどなく水捌けのよい砂主体のコースに置き換わった。地方競馬の競馬場は、芝コースの管理について技術的にも資金的にも制約があることから、ダートコースの内側に芝コースがある盛岡競馬場を除き、ダートコースのみで構成されている。
ダート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そして、明治末期の20世紀に入ってからも、アメリカ人の影響を受けた北海道の札幌競馬場や東京の「池上競馬場」の創設期、関西では「鳴尾競馬場」などでは、いわゆる土コースで競馬が行われていたと伝わります。
昭和時代:芝とダートの併設競馬場の増加
戦前の特別競走スケジュールをみても、札幌・函館・鳴尾の各競馬場以外は基本的に芝コースでの開催が中心でした。当時は、芝・ダートのいずれか一方でのコース形態が主流だったこともあり、いわば「坂の有無」や「右回り・左回り」といった競馬場の特性の一つとして、「馬場(芝か芝以外か)」も捉えられていた節があったのではないかと想像されます。
この発想には、1936年に文豪で競馬好きだった菊池寛の『日本競馬読本』の一節を参考としています。(↓)
しかしこの競馬の記録といふのは絶対的のものでない。各倶楽部の馬場の地形にもよるし平坦な馬場もあれば坂道の多い馬場もあり、砂地もあれば芝生もあり、地質の相違もあるし、コーナーの緩急もみな一様と云ふわけでないので、一概にタイムばかりで決められないのである。つまり甲の競馬場で何分何秒の優秀な記録を出したからと云つて、乙の競馬場でもその通りのタイムで駈けるか、と云ふとさうはいかないのである。
引用:菊池寛・著『日本競馬読本』(競馬場の構成と競走距離)
戦後に入って阪神や函館も『芝』コースでの開催となり、当時の国営8競馬場では札幌競馬場を除いて『芝』開催が主流となります。しかし1953年に新設された「中京競馬場」は、意識して特徴的なコース形態をもって開場しました。
1952年10月13日、中京競馬場の建設工事着工。当初は1953年5月の工事完了を目指したが、秋の長雨や電力事情の悪化があって遅れ気味であった。1953年7月26日に竣工。竣工当初の中京競馬場は1周1600mの砂馬場で、収容人員が6000人でシェル型の大屋根が特徴のスタンドがあった。
開場当時は砂コースしか存在しなかった。この砂コースはアメリカ合衆国の施設を参考にして建設された。砂コースは現在のダートコースとはやや異なるもので、当時の重賞競走の記録等でも「砂」と表記されている。1970年に砂コースが芝コースに改修され、1974年に調教用コースがダートコースに改修されている。
中京競馬場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
※厳密には日本のダートコースの方が『砂』コースであり、アメリカのダートコースは『土』に近いのですが、ここでは不問とします。いわゆる日本のダートとは少し違ったコースだったという意味です。
中京競馬場の実質的な開幕メイン競走となった「中京開設記念(現・中京記念)」は砂1800mで行われ、クラシック級の馬を含む非常に豪華なメンバーが、『芝』でないコースに集結。ハナ差で優勝した牝馬【レダ】が現2歳時に札幌でダート3戦3勝だったことからも窺える様に、『砂/ダート』に適性のある馬というのが当時から居たのだと思います。
1960年代に入ると芝コースの内側の調教コースをダートコースとして改装されるようになり、芝コースの保護という大義名分も相俟って、冬場を中心にダート開催が一般化するようになります。
一方で、1970年代に中京競馬場に芝コースが設置されると、降雪などを除き、札幌競馬以外での重賞が全て芝コースで統一されることとなり、史上最も『芝』に軸足が置かれる時期となります。
かつて砂コースというものが存在した。これは現行のダートとはやや質が異なるもので、当時の重賞競走の記録などにも「砂」と記載されている。中京競馬場の場合、1953年に砂コースのみで開場している。重賞競走では1971年の中京記念で使用されたのが最後で、ほどなくダートコースに改修されている。札幌競馬場の場合も1968年に砂からダートに改修されており、それ以前の札幌記念は砂コースでの施行であった。
ダート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
札幌競馬場以外にダート重賞が創設されたのはグレード制が導入された1984年のこと。そこからダート路線の拡充が、短距離・マイルなどと並んで進められていくこととなります。
平成時代:交流重賞・開放元年を経てJCダートへ
地方競馬は、昭和時代にダートコースで統一され、中央の芝と対照的な発展を遂げていました。地方に『芝』コースが復活するのは1996年の盛岡(ORO)競馬場まで待たねばなりません。
1986年に地方競馬招待競走と中央競馬招待競走は廃止され、地方競馬招待競走はオールカマーに、中央競馬招待競走は帝王賞にその役割を移すこととなった。また、中央競馬も地方競馬両方に競走馬を送る生産者の立場の人間が中心となって団体を作り、1989年、ホッカイドウ競馬にブリーダーズゴールドカップを新設し、この競走には中央競馬所属も地方競馬所属も隔てなく出走できるようにした。以降交流競走は年々微増していく。
その後、大きな転機となったのは1995年である。開放元年と称し、多くの改正が行われた。
日本の競馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そして、バブル経済がピークを迎え、その名残のあった1990年代、一気に『開放』が進み、中央・地方でダート重賞が充実していきます。まだ海外遠征が主流でなかった1990年代において、1997年にG1に格上げされた「フェブラリーS」が、地方・中央を含めた日本のダート王決定戦となったのです。
1999年当時を振り返ると、ダートで行われるG1競走というのは、
というラインナップでした。この時はまだ「JBC」もなく、「全日本3歳優駿」も「かしわ記念」もG1ではありませんでした。
2000年以降:ジャパンCダート→チャンピオンズC
ココまでの流れをウィキペディアに要約してもらうとこういった形になります。(↓)
日本では1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、1981年に芝2400mの国際招待競走「ジャパンカップ」が創設された。その後1995年より中央競馬と地方競馬の交流が飛躍的に拡大されるようになると、中央と地方の所属を超えたダートの重賞競走が注目されるようになり、ダートグレード競走で活躍した日本馬はアラブ首長国連邦やアメリカ合衆国のダート競走にも挑戦するようになった。
このような状況の中、日本のダート競走においても『ジャパンカップと並ぶダートの国際競走を開催しよう』という気運が高まり、2000年に前身となる日本初のダート国際招待競走「ジャパンカップダート」が東京競馬場のダート2100mで創設された。
チャンピオンズカップ (中央競馬)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
これが「チャンピオンズC」の前身「ジャパンCダート」創設の経緯です。時は2000年のことでした。
回数 | 施行日 | 競馬場 | 距離 | 優勝馬 | 性齢 | 所属 | タイム |
---|---|---|---|---|---|---|---|
第1回 | 2000年 11月25日 | 東京 | 2100m | ウイングアロー | 牡5 | JRA | 2:07.2 |
第2回 | 2001年 11月24日 | 東京 | 2100m | クロフネ | 牡3 | JRA | 2:05.9 |
第3回 | 2002年 11月23日 | 中山 | 1800m | イーグルカフェ | 牡5 | JRA | 1:52.2 |
第4回 | 2003年 11月29日 | 東京 | 2100m | フリートストリートダンサー | 騸5 | USA | 2:09.2 |
第5回 | 2004年 11月28日 | 東京 | 2100m | タイムパラドックス | 牡6 | JRA | 2:08.7 |
第6回 | 2005年 11月26日 | 東京 | 2100m | カネヒキリ | 牡3 | JRA | 2:08.0 |
第7回 | 2006年 11月25日 | 東京 | 2100m | アロンダイト | 牡3 | JRA | 2:08.5 |
第8回 | 2007年 11月24日 | 東京 | 2100m | ヴァーミリアン | 牡5 | JRA | 2:06.7 |
結論から言ってしまえば、当初はアメリカを中心に外国馬が好意的に出走してくれていましたが、そもそも冒頭に見た通り、アメリカの土コースと日本の砂コースでは求められる能力が異なる経緯もあり、2003年の『フリートストリートダンサー』を除いて外国馬が優勝することがなかったことを思うと、『ジャパンC』と同時期に開催するお祭り感はあったものの、期待されたほどの発展は果たされませんでした。
2010年代になると、日本の芝コースを避けて外国勢が『ジャパンC』に出走するケースが減ってしまいましたが、それに先駆けること数年、日本の『ジャパンCダート』は外国馬にとって魅力的なレースではなくなり、いち早く『国際招待競走』としての存在意義を失ってしまっていたのです。
それはやはり、外国馬を『日本の舞台』に呼び寄せるという『ジャパンC』にも半分共通した構造上の弱点であり、勝算に乏しければわざわざ出走しには来ないというのが正直なところだと思います。
ダートが主流のアメリカでは赤土のようなスピードの出やすいダートが主流だが、日本のダートはスピードが出にくい。2007年に来日したスチューデントカウンシルは時計のかかる馬場向きと見てブリーダーズカップ・クラシックを回避して、このレースに出走した経緯がある。
ただし日本馬のレベルが向上したことに加えアメリカ勢の惨敗が続いているため、アメリカの競馬関係者の中にはジャパンカップダートに出走すること自体が無謀という考えも多くあった。また、根本的な問題として、アメリカの競馬場は全て左回りであることから、右回りの阪神競馬場での開催に疑問の声もあった。そのため、2014年から左回りの中京競馬場のダート1800mで開催されることとなった。
( 同上 )
さて、東京開催時代のレースに目を向けると、やはり第2回の衝撃は忘れられないものでしょう。日本のダート界で最強の名を今でも疑わないファンの多い名馬【クロフネ】の圧勝劇です。
こういったレースが、海外馬を交えて行われれば『ジャパンCダート』の名に相応しかったのですが、開催時期の観点から創設8年で「ジャパンC」と同週の開催を諦めると、阪神開催に。海外馬の参戦の減少が如実になって日本馬ばかりの『ジャパンCダート』は2014年をもって一旦打ち止めとなります。
第8回 | 2007年 11月24日 | 東京 | 2100m | ヴァーミリアン | 牡5 | 2:06.7 |
第9回 | 2008年 12月7日 | 阪神 | 1800m | カネヒキリ | 牡6 | 1:49.2 |
第10回 | 2009年 12月6日 | 阪神 | 1800m | エスポワールシチー | 牡4 | 1:49.9 |
第11回 | 2010年 12月5日 | 阪神 | 1800m | トランセンド | 牡4 | 1:48.9 |
第12回 | 2011年 12月4日 | 阪神 | 1800m | トランセンド | 牡5 | 1:50.6 |
第13回 | 2012年 12月2日 | 阪神 | 1800m | ニホンピロアワーズ | 牡5 | 1:48.8 |
第14回 | 2013年 12月1日 | 阪神 | 1800m | ベルシャザール | 牡5 | 1:50.4 |
第15回 | 2014年 12月7日 | 中京 | 1800m | ホッコータルマエ | 牡5 | 1:51.0 |
表向きは、左回りのダートコースの方がアメリカ陣営を呼び込めるというものでしたが、結果的には、外国馬は全く参戦していません。開催時期もコースの周りも表面的には改善したにも拘らずダメということは、もはや別の要因があるという事実を突きつけたのです。
もちろんレースを見ると、2010年の優勝馬【トランセンド】が、翌年のドバイワールドカップで2着(ヴィクトワールピサとのワンツー)を果たし、同年末にはJCダート初の連覇を達成するなど、日本のダートチャンピオン決定戦としては見応えのあるレースとなっています。
しかし本来の地方を含めたチャンピオン決定戦といった意味合いも薄まっていて、11月上旬の「JBC」や12月下旬の「東京大賞典」といったほぼ距離が同じJpnI/G1競走に挟まれているという点は、芝の「天皇賞(秋)」→「ジャパンC」→「有馬記念」の秋三冠3連戦を皆勤する馬の減少と同じく、競走数の多さによる分散が目立つことにも繋がっていきました。
令和時代:世界で活躍する馬の輩出
レースレーティングでみると「G1の目安:115ポンド」を下回る年も見られ、これでも「フェブラリーS」よりかは幾分マシなのですが、非常に低調なことを示してしまっています。
しかし、2016年以降の勝ち馬を並べてみると、令和に入って(ようやく)世界を見据えられる馬が再び名を連ねてきている印象です。
第17回 | 2016年 12月4日 | 116.00 | サウンドトゥルー | 騸6 | 1:50.1 |
第18回 | 2017年 12月3日 | 116.75 | ゴールドドリーム | 牡4 | 1:50.1 |
第19回 | 2018年 12月2日 | 113.75 | ルヴァンスレーヴ | 牡3 | 1:50.1 |
第20回 | 2019年 12月1日 | 116.75 | クリソベリル | 牡3 | 1:48.5 |
第21回 | 2020年 12月6日 | 115.00 | チュウワウィザード | 牡5 | 1:49.3 |
第22回 | 2021年 12月5日 | 114.00 | テーオーケインズ | 牡4 | 1:49.7 |
2019年の勝ち馬【クリソベリル】は無傷の6連勝でこのレースを制すると、翌年には『サウジC』で初の海外遠征。7着と敗れはしますが、勝ち馬からは1.26秒差とそれなりの力を見せつけます。
更にその翌年の【チュウワウィザード】は、サウジCこそ9着でしたが、続く2021年のドバイワールドカップで2着と(ダート開催では日本馬最高位タイの)大健闘を遂げ、2022年にも3着となりました。
2021年の勝ち馬【テーオーケインズ】は、そのチュウワウィザードを6馬身突き放す強いレースでG1馬となり、サウジCでは8着となっています。
日本馬(主に中央馬)のチャンピオンを決める舞台となった『チャンピオンズC』は、外国馬を誘致するには力不足でしたが、世界(特に中東)で活躍を期待できる馬を選定するレースとなって令和の時代を迎えています。
しかしレースレーティングでみても、世界的に「G1」を誇れる水準には今一歩であり、地方競馬の改革と合わせて、中央のダート路線の見直しもいずれ必要となってくるかも知れません。『芝』を追って『ダート』でも世界を目指して創設された『ジャパンCダート』を前身に持つこのレースが、日本競馬のダート路線の進化に結びつくことを期待して、今年もレースに臨みましょう。
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