競馬歳時記【5月5週】「目黒記念」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返る「競馬歳時記」。今回は「目黒記念」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

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目黒記念(めぐろきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬重賞競走GII)である。競馬番組表上の名称は「農林水産省賞典 目黒記念」と表記している。

競走名の「目黒」は東京競馬場の前身で、「第1回東京優駿大競走」が行われた目黒競馬場に由来している。

目黒記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(大正時代)前身「濠抽混合」時代

「目黒記念」の歴史が古いというのはご存知の方が多いかと思いますが、その歴史が大正時代まで遡れることを把握していらっしゃる方は、今や多くないと思うので、前身時代から触れていきましょう。

前身競走は1925年(大正14年)に始まった「各内国抽籤濠州産馬混合競走」です。もはや漢字13文字というレース名に驚きというか辟易とする方も多いかと思うので、噛み砕いていきますと、

「~~~~混合競走」ということで、何かしらの「混合」による競走だそうです。これは、現代における「混合競走」と似ていて、複数の出生条件の異なる馬たちが同じレースに出走できるというものです。すなわち、「内国産馬」と「濠洲(オーストラリア)産馬」という(当時は特に)力の差が大きかった馬たちが共に出走する名物競走といった意味合いです。

この時代の背景となる「豪サラ」については、下記の記載もお確かめください。

明治・大正時代の豪サラ
大正後期に馬券の販売が合法化されると各地の競馬場は活況となり、競走馬不足が起こると、オーストラリアからの競走馬の輸入が再開された。この頃になると、日本国内でもイギリスから輸入したサラブレッド種馬による生産を行う産馬業者も増加し、一部の国産サラブレッドは豪州産馬に匹敵する競走能力を示すものも現れ、国産馬と豪州産馬が対戦する名物競走が創設され話題を呼んだ。馬主個人による輸入は稀で、一般には競馬主催者がまとめて輸入したものを抽選で希望者に配布する方式をとったため、これらの競走馬は「豪抽」と分類された。しかし過剰な豪州産馬の輸入は国内の事業者の発展を阻害するとの懸念により、数年で輸入は再び停止された。この時期に輸入されたものの中でバウアーストックが有名である。

豪サラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こうした背景のもと「東京優駿」創設前の1920年代中盤に創設された「各内国抽籤濠州産馬混合競走」は、新たな名物競走として大きく注目されます。当時ビッグレースは特ハン、帝室御賞典、連合二哩、優勝戦などに限られていたため、開催条件が明確だった本競走は見栄えするものだったかと思います。

その一方で、レース名の長さは恐らく当時からネックだったと思われ、「優勝内国産馬連合競走」が、レース距離(3200m=二マイル)だったことにちなんで「連合二哩」という異名で親しまれたのと同様に、3400mで創設された同レースは「二哩一分(2マイル+1ハロン)」だったり「濠抽混合」として親しまれました。

1920年代:アストラル、ナスノ、ハクシヨウなどが優勝

今から約100年前の馬が現代に伝わっていないことを承知で申し上げますが……、当時としては一線級の名馬がこのレースに出走しています。

第1回は10ポンドの斤量差に泣き2着と敗れた、大正時代を代表する名馬【バンザイ】が生涯2度目の敗戦を喫したのがこの舞台でした。しかし、このバンザイは13戦11勝2着2回というパーフェクト連対を達成していて、これは20世紀における偉業中の偉業として、昭和中盤まで高く評価されていました。

バンザイ (競走馬)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この他、勝ち馬としては、1927年の【アストラル】は、カブトヤマ・ガヴアナーという2頭のダービー馬の母親となっていますし、1929年から1930年にかけて【ナスノ】と【ハクシヨウ】というライバルが覇を競った時代は、華やかなりし時代の内国産古馬の名物競走として大きく注目されました。

(昭和時代)年2回→1回、春のGII開催へ

1930年代:目黒競馬場の名を残すべく「目黒記念」が創設

地名を冠した重賞レースは幾つもありますが、その先駆けとなったのがこの「目黒記念」です。第1・2回の東京優駿が開催された「旧・東京競馬場」こと「目黒競馬場」の名を残すべく、「目黒記念」が1932年に創設されました。

本競走は「各内国抽籤濠州産馬混合競走」を前身とし、のちに「各内国産古馬競走」の名称で行われていたが、競馬場を府中へ移転することが決まった際、「目黒」の名を長く後世に伝えるため、1932年に4歳(現3歳)以上の馬によるハンデキャップ競走として「目黒記念」が創設された。

第1回東京優駿大競走の6日前に第1回競走が行われたことから、中央競馬に現存する重賞競走としては最古とされているほか、日本の競馬におけるハンデキャップ競走としても最古の競走である。

目黒記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ちなみに「目黒記念」はJRAの回次で130回を超えていますが、これはグレード制施行の直前:1983年まで春・秋の年2回開催が行われていたことによるものです。現実には大正年間まで遡れる訳ですが、JRAが認定しているこの1932年を初回としてみても少なくとも90年もの歴史がある訳です。(ただ逆に130年以上の歴史がある訳ではない点も抑えておきましょう)

1930年代の「目黒記念」
  • 1932春
    第1回
    ハクリユウ

    1932年4月18日、第1回「東京優駿」の前週に目黒3400mで開催。

  • 1933春
    第3回

    35戦17勝2着13回、当時の総獲得賞金の最多記録を更新し現役を引退。引退後は「バロン西」こと西竹一と共に総合馬術日本代表としてベルリン五輪に出場。

  • 1933秋
    第4回
    ハクセツ

    この回から「府中の競馬場」に移行、引き続き3400mでの開催。

  • 1934秋
    第6回

    目黒時代最後の第2代ダービー馬が、現4歳秋に「目黒記念」を制覇。

  • 1939春
    第15回
    ヘンウン

    春開催のみ「3900m」戦に移行。秋は引き続き「3400m」で挙行。

1940年代:3200mで再開、秋は距離短縮へ

戦後に入り、春開催のみが復活して第25・26回と回次を重ねる中で、レース距離が3900mから3200mに短縮されます。これでも今よりかは長いのですが、これまで3400mとしてスタートした同レースが、従来の「連合二哩」と同じ距離となったことの衝撃は多少あったものと想像します。

1948年秋から1949年春にかけて、牝馬【セフテス】が史上初の連覇を達成していますが、1949年の秋開催は急遽「2600m」に距離が短縮されるなど、時代の変化の波が四半世紀の歴史を持つ「目黒記念」にも押し寄せることとなります。

1950年代:2500m戦に定着、牝馬が4勝

昭和20年代後半には開催時期が移り変わり、春は1954年に4月29日、1955年からは3月の開催へ。秋も1952~56年は10月前半などとなり、1957年からは文化の日など11月開催となっています。また、1950年春は3200mで開催されますが、この年の秋から2500m戦となり、現在知られる形となります。この時期は、天皇賞を制するクラスのステイヤーが、ハンデを厭わず出走しており、例えば、

6月22日の春の目黒記念(東京、2500m)では、73キロの斤量を背負いながらも、2分35秒0のレコードタイムをマークし、2着のトキツオーに3馬身半の差をつけて勝利。一方、イツセイは3着に終わった。しかし、このレースが当馬にとって最後の勝利となった。

ミツハタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

生粋のステイヤーだった【ミツハタ】は73kgを背負いながらレコード勝ちを収め、同1952年秋には、【ハタカゼ】が前年春を69kgで制してから更に6kg増の「75kg」という現代では考えられない酷量を背負い、2着馬と23kgの斤量差がありながら半馬身制したこともありました。

また、この時代の特色としては、50秋クニハタ、53春タカハタ、58秋ミスオンワード、59秋エドヒメと牝馬が4勝しているのも特徴的です。ちなみに、この後、牝馬は5度しか勝っていません。

1960年代:天皇賞の前哨戦として古豪が次々勝利

1960年代には、春は3月前半、秋は11月上旬の開催となり、3200m時代の「天皇賞」の実質的な前哨戦としての意味合いが強まります。1960秋から【ヤシマフアースト】が秋春連覇を達成すると、タカマガハラシーザーヤマトキヨウダイなどがこのレースを制しています。

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そして、1965年秋には三冠馬【シンザン】が63kgで半馬身差の勝利を収め、春に出走できなかった「天皇賞(秋)」、そして有馬記念を制して、史上初の5冠馬となりました。

昭和40年代に入っても、スピードシンボリの2勝のほか、メジロタイヨウやマーチスが勝っています。

1970年代:春が2月開催で天皇賞とは関係性弱まる

1973年からは、2月後半の開催となり、1996年までこの時期で開催されることとなります。これによって「天皇賞(春)」との連携性は大きく低下しますが、「AJCC」や「日経新春杯」などと同様、いわゆる年明け緒戦(2戦目)として選ばれるレースとなっていきます。

1979年の中山開催では、前年のダービー馬【サクラショウリ】がAJCCに続いて年明けの重賞を連勝していました。

1980年代:グレード制と共に秋開催廃止

1980年代に入り、日本競馬の国際化、グレード制が導入されますが、その1983年を最後に「秋」開催が廃止されることとなりました。大正時代から数えると、半世紀以上の歴史がある秋開催が廃止され、春開催に統一されて現在に至ります。

その終盤の秋開催は、日本ダービー馬を含む古豪が名を連ねていました。開催時期は殆ど「ジャパンC」と被っていたために、実質的に重複していたとも言えるでしょう。


1984年にグレード制が導入されGIIに格付けされた際、秋の競走が廃止され年1回の施行となった。なおこの際、廃止になった秋の競走はアルゼンチン共和国杯を同時期に繰り下げのうえ、本競走と同じGIIに格付けし、東京競馬場芝2500mでの施行とすることにより事実上代替された。

1984年のグレード制導入にあたってはハンデキャップ競走だったこともありGIIに格付けされたが、長い歴史を考慮しGIにすべきとの声もあったとされる。

目黒記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ここから、GII・春(2月)開催に限った話しとなっていきます。「秋」の充実ぶりに対して、春は非常にレースレベルが低くなってしまい、1984年から1990年まで「55kg以下」馬が勝つ時代が続きます。

(平成・令和時代)初春 → 初夏開催、ダービーデーへ

平成に入って、1991年【カリブソング】が何と60.5kgを背負って優勝したこともありました。いかに59kgで金杯を制し、58kgのAJCCが2着だったとはいえ、その前までダートを主戦としていた馬に対する斤量じゃないんじゃないかと令和の私なんかは思ってしまいますが、これに勝利。これを上回る斤量での勝利というのが、1962年の【シーザー】の63.5kgということですから、まさしく偉業でしょう。

その後は、【ナリタタイシン】が58.5kgで勝った他、マチカネタンホイザ、ローゼンカバリー、ステイゴールドが58kgで勝利。ステイゴールドは約2年半ぶりの勝利を初重賞で飾る記念すべきレースです。

その後はホットシークレット、トシザブイの連覇、チャクラ、オペラシチー、ポップロックの連覇など、中長距離路線というより「長距離路線」組が、宝塚記念ではなくこちらを選ぶという選択になってきました。1997年から開催時期が2月から初夏に移ったことも影響しているのでしょう。

日本ダービーの付近の古馬伝統の重賞として開催されるようになった平成以降は、勝ちタイムも伸びをみせ、直近では2分20秒台も珍しくなくなってきています。

平成20年代には1番人気が1勝のみと、「ハンデ戦」とはいえ、非常に渋い結果が続いている印象で、日本ダービー当日の最終レースに2006年から開催されるようになると、「残念ダービー」もとい「日本ダービーでの損を取り返そうとして損を拡大させる最終レース」もとい「目(真っ)黒記念」ではないですが、また新たな個性がついてきたように感じます。

レースR勝ち馬斤量
2016110.00クリプトグラム54kg
2017108.50フェイムゲーム58kg
2018108.50ウインテンダネス54kg
2019106.50ルックトゥワイス55kg
2020110.00キングオブコージ54kg
2021106.50ウインキートス52kg
2022

レースレーティングをみても、ハンデ戦とはいえ、直近では「110ポンド」というGIIの目安を上回ることもできなくなっており、(レースレコードが出たとはいえ)2019年と2021年が「106.50」となっていて、一歩間違えばニュージーランドTが受けたような『GIIからの降格警告』を受ける可能性も出てきてしまうほどです。

個人的には、こうした伝統もあり好きなレースなのですが、現在の条件で「GII」に固執するのは、ニュージーランドTと同じく無理があるのではないかと感じます。個人的には、「GIII」に降格させてでも、その伝統を守る、長距離レースにはそれぐらいの気概を示してもらいたいという風に考えています。

皆さんが、日本ダービーの後の「目黒記念」で、ご武運を掴まれることをお祈りしております。どうか傷を広げられることのないように。

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