【はじめに】
この記事では、私の「Rxヒット指標」に基づき作詞家・作曲家などのヒット曲を振り返っていきます。今回取り上げるのは、「藤田まさと」さんです。
藤田 まさと(ふじた まさと、1908年5月12日 – 1982年8月16日)は、静岡県榛原郡川崎町(現・牧之原市)出身の作詞家。本名・藤田正人。
藤田まさと
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略歴
1908年(明治41年)川崎町細江に生まれる。
1918年(大正7年)旧満州の遼寧省大連に渡り、1926年(大正15年)大連商業学校卒。大連商時代には、野球で甲子園に出場している。内地に戻り、明治大学に入学したが、1928年(昭和3年)、3年生で大学を中退し、日本ポリドール蓄音機株式会社に入社する。
制作部長、文芸部長を歴任しながら作詞活動も行い、1935年(昭和10年)、「旅笠道中」、「明治一代女」の大ヒットで一躍人気作詞家となった。
戦後も「岸壁の母」などのヒットがある。1979年(昭和54年)には、自身もレコードを出し歌手としてデビューしている。晩年には、「浪花節だよ人生は」のヒット曲がある。
( 同上 )
受章
1969年(昭和44年)、紫綬褒章受章。
1970年(昭和45年)、日本作詩大賞受賞。
1973年(昭和48年)、第15回日本レコード大賞特別賞受賞。
1978年(昭和53年)、第20回日本レコード大賞特別賞受賞。
1978年(昭和53年)、勲三等瑞宝章受章。
Rxヒット指標にみる代表曲
昭和時代を通じて活躍された【藤田まさと】先生の手掛けた作品のうち、私(Rx)の独自指標で50万ptを突破した楽曲(漏れがあるかも知れませんが)をピックアップしました。(↓)
古くは昭和10年代から、没後に大ヒットした『浪花節だよ人生は』(昭和50~60年代)まで、これだけのヒット作があるというのはかなり特徴的です。早速見ていきましょう。
110万pt(1935年)『旅笠道中』/東海林太郎
個人的に東海林太郎さんの楽曲の中で最も好きなのがこの『旅笠道中』だったりします。股旅物の中でも切ない歌詞に、【大村能章】さんの明るい曲調が合わさって、作詩・作曲家とも最初期の大ヒット曲となりました。
なお、東海林太郎さんでは、『麦と兵隊』も、レコード売上が反映されれば、100万ptを突破する余地があるかと思います。
100万pt(1937年)『妻恋道中』/上原敏
1937年、東海林が当時の名子役・高峰秀子を養女をむかえることでトラブルが起き、東海林と意見が対立した藤田は、東海林のために用意した「妻恋道中」の吹き込みに上原を抜擢した。発売されるや25万枚を超える大ヒットとなり、上原は流行歌手としての地位を確立した。
上原敏
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上原敏さんが戦死されてしまったこともあり、現代に注目される機会は多くないですが、戦前・戦中には高い人気を博されました。こちらも藤田まさと作品ではトップクラスのカバー回数を誇っています。
220万pt(1939年)『大利根月夜』/田端義夫
「別れ船」「梅と兵隊」とヒットを続け、同じ会社のスター東海林太郎、上原敏と並ぶヒット歌手の地位を築いたのである。
田端義夫
昭和16年(1941年)、日本橋きみ栄らとともに中国大陸に戦地慰問にも赴くが、その後は主に国内の軍需工場や基地を中心に終戦まで慰問活動を続けた。
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バタヤンだけでなく、藤田まさとさんにとっても、戦前・戦中での最大級のヒット曲となりました。
160万pt(1954年)『岸壁の母』/菊池章子
昭和29年(1954年)9月、テイチクレコードから発売された菊池章子のレコード「岸壁の母」が大流行(100万枚以上)した。
作詞した藤田まさとは、上記の端野いせのインタビューを聞いているうちに身につまされ、母親の愛の執念への感動と、戦争へのいいようのない憤りを感じてすぐにペンを取り、高まる激情を抑えつつ詞を書き上げた。歌詞を読んだ平川浪竜(ひらかわ・なみりゅう)は、これが単なるお涙頂戴式の母ものでないと確信し、徹夜で作曲、翌日持参した。さっそく視聴室でピアノを演奏し、重役・文芸部長・藤田まさとに聴いてもらった。聴いてもらったはいいが、何も返事がなかった。3人は感動に涙していたのであった。そして、これはいけると確信を得、早速レコード作りへ動き出した。
岸壁の母
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歌手には専属の菊池章子が選ばれた。早速、レコーディングが始まったが、演奏が始まると菊池は泣き出した。何度しても同じであった。放送や舞台で披露する際も、ずっと涙が止まらなかった。菊池曰く「事前に発表される復員名簿に名前がなくても、「もしやもしやにひかされて」という歌詞通り、生死不明のわが子を生きて帰ってくると信じて、東京から遠く舞鶴まで通い続けた母の悲劇を想ったら、涙がこぼれますよ」と語っている。
昭和29年9月、発売と同時に、その感動は日本中を感動の渦に巻き込んだ。菊池はレコードが発売されたとき、「婦人倶楽部」の記者に端野いせの住所を探し出してもらい、「私のレコードを差し上げたい」と手紙を送った。しかし、端野の返事は「もらっても、家にはそれをかけるプレーヤーもないので、息子の新二が帰ってきたら買うからそれまで預かって欲しい」というものであった。菊池はみずから小型プレーヤーを購入し、端野に寄贈した。
( 同上 )
当時をしてミリオンヒットとなったとされる『岸壁の母』。一般には、1970年代の二葉百合子さんのカバーバージョンが有名ですが、もともと昭和29年(1954年)に【菊池章子】さんが歌ったのが初出。(個人的には、過剰にドラマチックに仕立て上げていないオリジナル版の方が好きです)
Rxヒット指標でも「160万pt」となっていますが、これには【二葉百合子】さんバージョンのYouTube再生回数などは含んでいませんで、原曲に関してのみでこれだけの高得点を叩き出しています。
120万pt(1970年)『傷だらけの人生』/鶴田浩二
- 高田幸吉門下で歌唱力にも優れていた鶴田浩二が、自らの多く演じた任侠映画に出てくる昔気質の侠客ばりに、理不尽な時世、軽佻浮薄な人情への怒りと、日陰育ちのやくざ者の哀しみを歌った重厚な作品で、鶴田のレコードでも代表的なヒット曲となった。曲は1番から3番まで、渡世人らしき男による自嘲混じりの語りを前置きに、その語りに結び付く内容の歌詞が歌われる構成となっており、曲の冒頭、鶴田が映画の侠客さながら情感豊かに語る口上は広く知られている。
- 「古い人間」が「今の世の中」を憂う詩は、藤田まさとが「鶴田浩二」をイメージして書き下ろしたもので、それに吉田正が曲をつけた。戦争体験を背負った「戦中派世代」の鶴田と、発表当時の高度経済成長時代における享楽的な社会風潮とをモチーフとして対比させた内容でもある。「傷だらけの人生」という表現は直接歌詞中には出てこないが、1番冒頭の語りと、己のやくざな身の上を嘆く3番の歌詞とが、題名を象徴する内容となっている。
- 本曲に限らず、鶴田はステージではマイクにハンカチを添え、耳に手を当てる独特のポーズで歌うことが多かったが、「手が脂性であったことと、従軍時に耳を傷めて演奏のリズムが取りにくかったことが理由である」と本人が明言している。
- 発売から3ヶ月ほどでオリコンチャートトップ10に初登場、累計で100万枚近い売上げを記録。
- 1971年7月に発売になったアルバム『男/傷だらけの人生』は最高位2位を記録。
- 1971年には、この曲をテーマに『傷だらけの人生』と『傷だらけの人生 古い奴でござんす』の二本の映画が作られた。共に監督は小沢茂弘、脚本は村尾昭が務めた。
- NHKからは「公共放送で流すことは好ましくない曲」「任侠映画に出演している」という理由でNHK紅白歌合戦の出場を拒否され[2]、これに鶴田は激怒し、以後、NHKの番組出演を拒否するようになり、『男たちの旅路』に出演するまで約6年間続いた。出演拒否を解除した後、鶴田は、NHKでは方針転換もあり『思い出のメロディー』などでこの曲を歌唱している他、彼の遺作でもあるドラマ『シャツの店』劇中でもこの歌を歌っている。
以上、『傷だらけの人生』出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より
220万pt(昭和50年代)『浪花節だよ人生は』
こちらは、全アーティストを含んだ集計値となっています。通算で、藤田まさとさんとしては(死後になってですが)ダブルミリオン相当を突破し、戦後最大のヒット曲となりました。
※但し、二葉百合子さんVer.を含むとすると、『岸壁の母』が恐らく最大ヒットとなるかと思います。
ちなみに、個人的には選外ですが、
- 『桃中軒雲右衛門』(昭和35年4月)[長津義司作曲、歌:三波春夫]
が、戦後楽曲の中では最も好きです。皆さんのお好きな曲はありましたか? 作詞家・【藤田まさと】さんについては以上です。
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