【はじめに】
皆さん「Wikipediaで小旅行」へようこそ、ツアーコンダクターのRxです。今回の目的地は、アフリカの「カメルーン共和国」です。素敵な旅をお過ごし下さい。
概要
カメルーンは中部アフリカに位置しているが、稀に西アフリカの一部に数え上げられる場合がある。現在の同国地域を植民地としていたドイツ帝国が敗れた第一次世界大戦後の1922年、イギリスとフランスの植民地に分かれた経緯がある。独立後は非同盟路線を歩むが、経済・文化・軍事の面でフランスとの関係が深く、フランコフォニー国際機関に加盟している。1995年にはイギリス連邦にも加盟している。
国名
国名は、1470年にカメルーンを最初に訪れたポルトガル人がエビの多いことから「カマラウン(camarão、ポルトガル語で「小エビ」を意味する)」と名付けたことに由来する。
歴史
詳細は「カメルーンの歴史」を参照
独立前
カメルーン内の遺跡からは約8000年前の歴史までさかのぼることができる。カメルーンの先住民はバカ・ピグミーである。バントゥー系民族はカメルーン高地に起源を持つが、他民族による侵入が行われる前に別の土地に移動している。
1394年から北西部地域にはバムン王国が存在しており、独自の文化体系を固持していた。この国家は20世紀前半のヨーロッパ各国による侵攻まで勢力を維持し続けた。
独立後
アフリカの年と呼ばれる1960年、フランス領カメルーンが独立した。
1961年には北部がナイジェリアと合併、南部はカメルーンとの連邦制となり、アヒジョが大統領、イギリス領カメルーン首相のジョン・フォンチャが副大統領に就任した。
しかし徐々に圧倒的に規模の大きな旧フランス領の勢力が増大していき、フォンチャが副大統領を辞任したのち連邦制の是非を問う国民投票が行われ、この連邦制は1972年に廃止されて、アヒジョ大統領は国号をカメルーン連合共和国に変更した。
アヒジョからビヤへの政権交代そのものは平和的なものであり、またアヒジョも与党党首の座にはとどまるなど一定の権力は保持しつづけたが、やがてビヤが権力基盤を固めるとともに両者の関係は険悪化し、1983年にはアヒジョがクーデターを計画したとしてフランスに追放され、1984年には国外のアヒジョに死刑判決が下される(アヒジョは国外にいたため実行はされていない)など、ビヤは独裁権力を樹立していった。また同年、国号を現在のカメルーン共和国に変更した。
経済
独立後四半世紀はカカオ、コーヒー、バナナなどの農産物、次いで1970年代後半に採掘が始まった原油など第一次産品の輸出によって、アフリカ諸国の中でも経済的に成功していた。その後、1980年代後半から石油と農産物の価格が同時に下がり始め、経済運営にも成功しなかった。このため10年間の長期不況に陥り、一人当たりのGDPが1986年から1994年までに60パーセント以上低下した。しかしながら、電力をほぼ水力発電で賄えるようになったこと、石油増産に成功したこと、農地に適した地勢などの条件が重なり、2000年時点ではサブサハラでは経済的に成功している。
一方で観光産業にも注力しているものの、観光自体は現時点では隅々まで開拓されておらず、世界観光機関(UNWTO)からは正式な「観光地」として認可されていない。
文化
世界遺産
- ジャー動物保護区 – (1987年)
- サンガ川流域の3か国保護地域 – (2012年)
スポーツ
サッカーはドイツ保護領時代の1880年代に伝わって以降、カメルーン国内で1番人気のスポーツであり続けている。サッカーカメルーン代表はアフリカ屈指の強豪として知られており、アフリカネイションズカップではエジプト代表に次ぐ通算5回の優勝を誇っている。
さらにFIFAワールドカップ出場の常連国としても知られ、1982年大会で初出場して以降、2014年大会まで通算7度の出場を経験している。その中でも1990年大会では開幕戦で前回優勝国であるアルゼンチン代表を下す大金星を挙げ、最終的にはアフリカ勢初のベスト8まで勝ち進んだ。
同国代表は日本との関係も深く、中津江村(現在は大分県日田市の一部)では2002年日韓W杯の際にキャンプ地にして以降交流が続いている。日本代表とは2010年大会のグループリーグで共に対戦し、0-1で敗れた。
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