競馬歳時記【10月4週】「菊花賞」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「菊花賞」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

昭和時代:長距離こそ“最も強い馬”が勝つ

他のクラシックの記事でも書いています通り、日本のクラシック競走はイギリス競馬を範としていて、「菊花賞」のもとになったのは『セントレジャー』という約2921mのG1レースです。1776年に創設され、20世紀初頭までは『最高の権威』を誇っていました。

(参考)各国のセントレジャー
各国に「〜セントレジャー」と名のつくものや本競走をモデルとした競走が数多く施行されている。ただしいくつかは完全に三冠最終戦としての性格を失っており、古馬を含めた長距離戦としてやただの下級戦となっている例も有る。他方距離を短縮したりして生き延びている例もある。

日本やトルコ、インドなどは当初の性格を残している。

レース名距離条件
イギリスセントレジャーSG114ハロン台3歳
日本菊花賞G13000m3歳
インドインド
セントレジャー
3歳
トルコアンカラ・
コスス賞
3歳
ドイツドイチェス
セントレジャー
G2→
2005:G3
2800m3歳→
2007:古馬開放
アイル
ランド
アイリッシュ
セントレジャー
G114ハロン3歳→
1983:古馬開放
フランスロワイヤル
オーク賞
G13000m→
1964:3100m
3歳→
1979:古馬開放
イタリアセントレジャー
イタリアーノ
G2→G3
→L→G3
2800m3歳→
1994:古馬開放
ニュージー
ランド
ニュージーランド
セントレジャー
G1→L2500m→
2019:2600m
3歳→
2019:古馬開放

実は世界的にみて、セントレジャーに3歳馬しか出走できない国は少なくなっていて、ここ半世紀で「古馬開放」した国が欧州で広がっています。パートI国には幾つかまだ残っている国もあり、日本もそのうちの1か国になる訳ですが、「長距離・G1・3歳馬限定」という条件は寧ろ貴重な様なのです。

昭和10年代:第1回から京都3000m戦

さて日本でクラシック競走が整備されていったのは1930年代のことであり、日本ダービーを除く4競走は、各地の競馬倶楽部が統合されて創設された「日本競馬会」が推進して設立されたものです。1938年に第1回が「京都農林省賞典四歳呼馬」として開催されました。

初回を制したのは【テツモン】という馬で、母系に(軽種馬でない)トロッター種の血を引いていました。当時も今もそういった非サラブレッドの血を引く馬への偏見は弱くないですが、このテツモンは、10年間破られることのない菊花賞レコードを記録、翌年秋に帝室御賞典を制するなど一流のステイヤーとして活躍しています。

結果的には、クラシック競走の中で最も長い「京都3000m」という条件は第1回から(代替開催を除いて)昭和・平成・令和を通じて変わっていません。80回以上の歴史を持つ国内競走としては、(東京優駿が「目黒競馬場」で始まったことを踏まえると)唯一の事例となります。

そして、日中戦争の翌年で、欧州で第二次世界大戦が勃発する前年にあたる1938年に始まった現・菊花賞は、まさにスピードを誇るサラブレッド種の中でスタミナを兼ね備えた馬(軍馬を絡めた大義名分が重視される時局)が期待される場となっていきました。

回数施行日優勝馬性齢タイム
第1回1938年12月11日テツモン牡33:16 0/5
第2回1939年10月29日マルタケ牡33:22 0/5
第3回1940年11月3日テツザクラ牡33:17 3/5
第4回1941年10月26日セントライト牡33:22 3/5
第5回1942年11月8日ハヤタケ牡33:16 3/5
第6回1943年11月14日クリフジ牝33:19 3/5
1944年12月8日カイソウ牡3不成立

戦前をみても、菊花賞と帝室御賞典の長距離2レースを制した馬や、シンザンの母父であった【ハヤタケ】、そして戦前競馬の象徴する競走馬として戦後「JRA顕彰馬」に選出された2頭(セントライト、クリフジ)が名を連ねています。

特に、クリフジの現・菊花賞は、前2走を62.5~63kgで走って10馬身差の圧勝だったにも関わらず、ダービーよりも軽い55.5kgという軽い斤量で出走したということもあり、史上唯一の「大差勝ち」を、牡馬相手の菊花賞で成し遂げる破格の強さを残しています。

実際はイギリスセントレジャーで語られていたものが日本に伝わったとも言われていますが、現在でも語り継がれる『最も強い馬が勝つ』という菊花賞のキャッチフレーズは、戦前から名は体を表していました。

※ちなみに大戦末期の1944年には、能力検定競走「長距離特殊競走」として開催された際、全馬がコースを間違ってしまい、ダービー馬【カイソウ】の優勝が取り消されての「レース不成立」となるアクシデントがありました。今でも語り継がれる『幻の二冠馬』とされています。

昭和20年代:6年連続「三冠馬」ならず

戦後に入って、クラシック競走の開催条件が大きく変わったものの、東京優駿と菊花賞は据え置かれ、引き続き秋に京都3000mで開催されることとなりました。

第7回1946年12月1日アヅマライ牡33:26 4/5
第8回1947年10月19日ブラウニー牝33:16 0/5
第9回1948年11月23日ニユーフオード牡33:13 3/5
第10回1949年11月3日トサミドリ牡33:14 3/5
第11回1950年10月29日ハイレコード牡33:09 1/5
第12回1951年11月3日トラツクオー牡33:11 1/5
第13回1952年11月23日セントオー牡33:10 1/5
第14回1953年11月23日ハクリヨウ牡33:09 1/5
第15回1954年11月23日ダイナナホウシユウ牡33:09 1/5

戦後初回は終戦翌年の1946年。しかし5頭立てかつ馬場が渋ったこともあり、レコードから10秒以上遅い「3分26秒 4/5」という史上最遅記録です。ちなみに、2017年・不良馬場を勝った【キセキ】の勝ちタイムが「3分18秒9」だったことを思うと、如何に厳しい時局だったかが窺えます。

その翌年には、桜花賞馬【ブラウニー】がレコードタイム(相当)で優勝。史上2頭目にして戦後唯一の牝馬による菊花賞制覇です。なお、ブラウニーはダービー・オークスを勝てれば3冠馬となっていましたが、どちらも勝っておらず変則2冠馬という扱いを受けています。

また、1949年の【トサミドリ】や1954年の【ダイナナホウシユウ】は、戦後競馬でも屈指の強さを誇った馬で、菊花賞も強い競馬で勝っていますが、日本ダービーで複勝圏外に敗れており、皐月賞・菊花賞での2冠馬となっています。

上の記事にも書きましたが、1950年のクモノハナや1953年のボストニアンは菊花賞2着、1951年のトキノミノル、1952年のクリノハナは菊花賞に出走できずの牡馬『春2冠』。そして、牝馬に目を向けても、スウヰイスーが1952年に2着、ヤマイチが1954年に3着で、6年連続で2冠が達成されるも戦後初の三冠馬は誕生しませんでした。

馬名1冠目2冠目菊花賞
1949トサミドリ1着7着1着
1950クモノハナ1着1着2着
1951トキノミノル1着1着不出走
1952クリノハナ
スウヰイスー
1着
1着
1着
1着
不出走
2着
1953ボストニアン1着1着2着
1954ダイナナホウシユウ
♀ヤマイチ
1着
1着
4着
1着
1着
3着

昭和20年代でなければ三冠が達成されていたのではないかと考えてしまう馬が多く名を連ねています。

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昭和30年代:牡牝2冠馬が3冠を懸けて直接対決!

この頃には、春2冠で結果を出しきれなかった馬が夏を越え、3000mというこの舞台で最後の1冠を掴むパターンが増えてきます。そして、1950年代には3分10秒を切るタイムが珍しくなくなりますが、そういった時代でも(中距離が主戦場の)【ハククラマ】が叩き出した「3分7秒7」というタイムは18年間破られない大レコードとなりました。

そしてこれまで多くても15頭、多くの年が1桁頭数だった菊花賞が、1962年は史上最多の23頭が出走することとなるなど、1960年代以降は少しずつレースにも変化が訪れます。

第16回1955年11月23日メイヂヒカリ3:09 1/5
第17回1956年11月18日キタノオー3:09 3/5
第18回1957年11月17日ラプソデー3:16 0/5
第19回1958年11月16日コマヒカリ3:10 0/5
第20回1959年11月15日ハククラマ3:07.7
第21回1960年11月13日キタノオーザ3:15.1
第22回1961年11月19日アズマテンラン3:15.4
第23回1962年11月25日ヒロキミ3:10.7
第24回1963年11月17日グレートヨルカ3:09.5
第25回1964年11月15日シンザン3:13.8

1960年代までは秋に牝馬限定の大競走がなく、牝馬も「菊花賞」が3冠目とされていました。近年ではコントレイルとデアリングタクトという3冠馬が「ジャパンC」で直接対決を果たして話題になりましたが、東京オリンピックが開催された1964年は、2冠牡馬と2冠牝馬がどちらも戦後初3冠馬を懸けて直接対決するという劇的なレースが実現しています。

【シンザン】1964年菊花賞 史上2頭目の三冠制覇 実況:松本暢章《Triple Crown #2 Shinzan》|カンテレ競馬【公式】

レースはカネケヤキ大逃げを見せ、一時は20馬身以上の大差を付けた。武田から「早く追うな」と指示を受けていた栗田は、レースを実況していた小坂巖が「シンザン、どうした。三冠はもうだめだ」と発するほど仕掛けのタイミングを遅らせ、直線で一気にスパート。一時先頭に立ったウメノチカラを残り200メートルの地点で抜き去り、戦後初、セントライト以来23年ぶりの三冠を達成した。

シンザン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

シンザンが戦後初の三冠馬を達成。ライバルのウメノチカラを2着と下し、カネケヤキは直線力尽きての5着。しかし、当時のレースカレンダーでしか果たされないドラマチックなレースでありました。

昭和40年代:雌雄を決する秋、夏の上がり馬 台頭の秋

第26回1965年11月14日ダイコーター3:13.4
第27回1966年11月13日ナスノコトブキ3:08.5
第28回1967年11月12日ニツトエイト3:14.5
第29回1968年11月17日アサカオー3:09.0
第30回1969年11月16日アカネテンリュウ3:15.3
第31回1970年11月15日ダテテンリュウ3:10.4
第32回1971年11月14日ニホンピロムーテー3:13.6
第33回1972年11月12日イシノヒカル3:11.6
第34回1973年11月11日タケホープ3:14.2
第35回1974年11月10日キタノカチドキ3:11.9

1965年は【キーストン】とのライバル対決についに勝って【ダイコーター】が優勝。1968年は不在のタケシバオーや3着に敗れたマーチスを下して【アサカオー】が最後の1冠、そして1970年はアローエクスプレスとタニノムーティエが大敗し【ダテテンリュウ】が優勝などと、春前から続くライバル対決の雌雄を決する場として「菊花賞」は機能します。

その最たる例が、「ハイセイコー#タケホープとのライバル関係」にも纏められている『人気のハイセイコー、実力のタケホープ』によるハナ差決着でしょう。寧ろ、2400m以上で一度も勝てなかったハイセイコーが3000mという明らかに苦手な長距離で、長距離が得意なタケホープにハナ差まで迫ったと考えれば、これも一つの名勝負だったといえます。

昭和50年代:2度の2桁人気馬の優勝、どちらもドラマ

グレード制が導入され、天皇賞(秋)が2000mに短縮されるも、現3歳馬の秋の大目標としての権威を保ち続け、【シンボリルドルフ】陣営もジャパンCが中1週であることを承知の上で、菊花賞での無敗での3冠を目指し、ジャパンCにも参戦しました。

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この頃までは間違いなく、一流の現3歳馬は「菊花賞」を一大目標とし、『最も強い馬が勝つ』という格言に見合った権威を何とか保っていたと思います。仮にこの1980年代に「菊花賞」の条件を一つでも変えていたら(例えば距離短縮や古馬開放など)、「三冠馬」の権威は途絶えていたことでしょう。

第36回1975年11月9日京都コクサイプリンス3:11.1
第37回1976年11月14日京都グリーングラス3:09.9
第38回1977年11月13日京都プレストウコウ3:07.6
第39回1978年11月12日京都インターグシケン3:06.2
第40回1979年11月11日阪神ハシハーミット3:07.5
第41回1980年11月9日京都ノースガスト3:06.1
第42回1981年11月8日京都ミナガワマンナ3:07.1
第43回1982年11月14日京都ホリスキー3:05.4
第44回1983年11月13日京都ミスターシービー3:08.1
第45回1984年11月11日京都シンボリルドルフ3:06.8

この時代には平均して20頭前後(18から21頭ぐらい)が出走することが多くなり、1962年のヒロキミ以来の2桁人気馬の優勝が2例誕生します。

2桁人気馬が優勝した昭和50年代の菊花賞

  1. 1976年:12番人気・グリーングラス
    グリーングラスの単勝5250円は2021年現在でも菊花賞の単勝最高払い戻し金額であり、枠連は8030円という波乱であった。
  2. 1981年:14番人気・ミナガワマンナ
    種牡馬としてのシンザンに初の中央競馬クラシック勝利をもたらした。
    この年の菊花賞は春の二冠馬カツトップエースが引退し、トライアル3冠馬サンエイソロンが1番人気であった。菊花賞では前走で1.4秒も差をつけられたサンエイソロンを逆に4馬身ちぎる圧勝でシンザン産駒初のクラシック制覇を成し遂げた。

1976年の【グリーングラス】は杉本清アナウンサーがテンポイントの優勝を疑わない中での関東の刺客に絶句。「TTG時代」の到来を予感させる結果でしたし、1981年の【ミナガワマンナ】は、20歳となっていたシンザンにとって初のクラシック勝利であり、菊花賞父子制覇という偉業を果たした場。馬券的には当時大荒れとなりましたが、少なくとも競馬史に残る歴史のワンシーンとなっています。

昭和60年代:桜が満開 → 武豊のG1初制覇

平成元年まで載せますが、こちらもドラマチックなメンバーが名を連ねています。シンボリルドルフがジャパンCで初黒星を喫したことをある程度受けてか、1985年を最後に「11月中旬」開催はなくなり、月末のジャパンCとの開催間隔が若干あくようになります。

第46回1985年11月10日ミホシンザン3:08.1柴田政人
第47回1986年11月9日メジロデュレン3:09.2村本善之
第48回1987年11月8日サクラスターオー3:08.0東信二
第49回1988年11月6日スーパークリーク3:07.3武豊
第50回1989年11月5日バンブービギン3:07.7南井克巳

ミホシンザン】や【サクラスターオー】は皐月賞との2冠馬となり、特にサクラスターオーが勝った際の『菊の季節に桜が満開』は昭和の菊花賞の名フレーズの一つとされています。

そして、1988年には【スーパークリーク】が優勝。獲得賞金的に当初厳しかった同馬が出走を果たすと獲得賞金が少なかった2頭による決着となり、10代(19歳8ヶ月)だった武豊騎手が、史上最年少でのクラシック制覇を果たす結果となっています。

平成・令和時代:長距離での“最も強い”が勝つ

1990年代:名ステイヤーが歴代優勝馬に名を連ねる

距離適性が重視されていく終盤であった1990年代は、長距離=ステイヤーの名馬が名を連ねています。1990年代の後半には例えばバブルガムフェローが天皇賞(秋)に出走したり、外国産馬が菊花賞に出走叶わなかったことも影響していますが、勝つべくして勝った馬が多い印象です。

第51回1990年11月4日メジロマックイーン3:06.2内田浩一
第52回1991年11月3日レオダーバン3:09.5岡部幸雄
第53回1992年11月8日ライスシャワー3:05.0的場均
第54回1993年11月7日ビワハヤヒデ3:04.7岡部幸雄
第55回1994年11月6日ナリタブライアン3:04.6南井克巳
第56回1995年11月5日マヤノトップガン3:04.4田原成貴
第57回1996年11月3日ダンスインザダーク3:05.1武豊
第58回1997年11月2日マチカネフクキタル3:07.7南井克巳
第59回1998年11月8日セイウンスカイ3:03.2横山典弘
第60回1999年11月7日ナリタトップロード3:07.6渡辺薫彦

個々のレースについては説明不要(或いは「ウマ娘」から入った方々もご存知のエピソードが多い筈)かと思いますので省略しますが、天皇賞(春)との関連性が極めて高く、生粋のステイヤーが勝って、古馬での活躍が半分保証されるような時代となっていきます。

事実、平成に入ってからの11回は、メジロマックイーンが4番人気だったことを除いて、全て3番人気以内が優勝しており、波乱の多かった昭和の後半とは時代の違いを感じます。

2000年代:一転して4番人気以下が7勝

2000年代の菊花賞を人気で制したのは、1番人気の【ディープインパクト】と【オウケンブルースリ】と2番人気の【エアシャカール】。その他の7頭はいずれも4番人気以下でした。2000年代前半は生粋のステイヤーと今振り返れば分かる馬達ですが、2000年代後半になると「唯一のG1が菊花賞」という馬が目立ち、少しずつ長距離冷遇の流れが見え始めます。

第61回2000年10月22日エアシャカール3:04.7武豊
第62回2001年10月21日マンハッタンカフェ3:07.2蛯名正義
第63回2002年10月20日ヒシミラクル3:05.9角田晃一
第64回2003年10月26日ザッツザプレンティ3:04.8安藤勝己
第65回2004年10月24日デルタブルース3:05.7岩田康誠
第66回2005年10月23日ディープインパクト3:04.6武豊
第67回2006年10月22日ソングオブウインド3:02.7武幸四郎
第68回2007年10月21日アサクサキングス3:05.1四位洋文
第69回2008年10月26日オウケンブルースリ3:05.7内田博幸
第70回2009年10月25日スリーロールス3:03.5浜中俊

令和の現在、2400mを勝つような日本ダービー馬は、天皇賞(春)よりも大阪杯、菊花賞よりも天皇賞(秋)に本音としては挑みたい雰囲気を感じます。しかしこの平成初頭までは、天皇賞(春)や菊花賞に出走し(せざるを得ず)、多少距離に厳しさはあっても挑んでいく姿が印象的でした。

マンハッタンカフェからデルタブルースまでは4年連続で5番人気以下。この間にネオユニヴァースが3着に力負けするなど、2400mまでの春2冠で活躍した馬や秋の上がり馬が人気を集めるも、終わってみればステイヤーがこの舞台で力を開花させるそんな展開が目立った頃かも知れません。

『強い馬なら3000mも熟せる』という20世紀の考え方が、21世紀に入って早々に打ち砕かれるかの様な結果であり、ディープインパクトの後も中距離で実績を残した馬が人気を集めるも敗れる年が続きました。

2010年代:中距離馬は天皇賞へ、菊はステイヤーが強い

2010年代になると3歳馬でもスピードが勝る馬は基本的に「天皇賞(秋)」に向かうようになります。かつてのように「長距離を回避する」といった風潮は弱まり、却って「菊花賞」に挑む勝算のある陣営がこのレースを選択するようになって、再び人気馬が勝つ時代が訪れます。

2011年から3年連続、2016年から2年連続で1番人気が勝っており、キタサンブラックは5番人気、フィエールマンは7番人気とやや人気薄でしたが、どちらも古馬になって天皇賞(春)を制するなど、まさに生粋のステイヤー気質です。

第71回2010年10月24日ビッグウィーク3:06.1川田将雅
第72回2011年10月23日オルフェーヴル3:02.8池添謙一
第73回2012年10月21日ゴールドシップ3:02.9内田博幸
第74回2013年10月20日エピファネイア3:05.2福永祐一
第75回2014年10月26日トーホウジャッカル3:01.0酒井学
第76回2015年10月25日キタサンブラック3:03.9北村宏司
第77回2016年10月23日サトノダイヤモンド3:03.3C.ルメール
第78回2017年10月22日キセキ3:18.9M.デムーロ
第79回2018年10月21日フィエールマン3:06.1C.ルメール
第80回2019年10月20日ワールドプレミア3:06.0武豊

ところで、2014年の勝ちタイムが3分1秒0であったのに対し、歴史的な不良馬場あった2017年には70年以上ぶりの遅いタイムである3分18秒9で「17秒9」ものタイム差が出たことも特徴的ですね。

2020年代:コントレイルが克服し無敗の三冠馬に

メンバーの手薄さが年々心配される中ではあるものの、2020年代に入っても「菊花賞」はその存在感独自に貫き、令和に入っても『三冠馬』の威厳を保っています。父に比べて距離に苦しまされた【コントレイル】も、世界史上初の無敗での父子・三冠馬を達成する辛勝を2020年に達成。

対して、【タイトルホルダー】がこの舞台で5馬身差の圧勝を遂げ、翌年にかけ「阪神三冠」をも達成する現役最強馬に名乗りを挙げたのもこの舞台でした。

レースR勝ち馬
2016118.50サトノダイヤモンド
2017115.25キセキ
2018117.25フィエールマン
2019116.25ワールドプレミア
2020116.75コントレイル
2021115.75タイトルホルダー
2022

過去6年のレースレーティングをみても、基本的には(何とか)G1の目安:115ポンドを越えており、国内の長距離レースとしては一定の水準を保っています。仮にこれが翌年春までを対象としていれば、もう少しレベルは上がっているかも知れません。

ただ、春2冠が平均して117~118ポンドであるのに対し、菊花賞のみが116ポンド台が中心となっていることを考えると、2着以下の『層の薄さ』も気になるところでしょうか。

今でも出走馬の半数弱が条件馬の格上挑戦であり、菊花賞で人気を集めるも好走できずその後主だった結果を残せずターフを去っていく馬も一定数いる時点で、過去の権威がいつまで続くかは不透明です。

長距離重視の時代に逆行することはもはや不可能ですし、だからといって距離短縮や古馬開放は非現実的で個人的には反対です。但しトライアルの距離が短く、なかなか本格的に3000mを戦える重賞クラスの馬が片手で数えるぐらいしか出走しない「菊花賞」の中長距離的な未来には今後も注視が必要です。

仮にこのまま平均レーティングがもう少し下がり、「G1の目安:115ポンド」を状態的に跨ぐような形になっていってしまえば、改革の要請も高まってしまうでしょう。その前に、伝統ある菊花賞を残すための準備が必要ではないかと個人的には考えました。令和より先の長い時代を「菊花賞」が息切れせずに走り抜けられるか、ファンにかかっている部分もありそうです。伝統の菊舞台、今年は果たして。

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