競馬歳時記【12月1週】「ステイヤーズS」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「ステイヤーズS」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

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ステイヤーズステークスは、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬重賞競走GII)である。競馬番組表での名称は「スポーツニッポン賞 ステイヤーズステークス」と表記している。競走名の「ステイヤー(Stayer)」は、英語で「耐える者」を意味する。

ステイヤーズステークス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「ステイヤーズS」前史

日本で開催される平地競走の中で、1976年以降、最長距離のレースといえば、この「ステイヤーズS」です。その名に相応しく半世紀近くその座に君臨し続けています。1967年の第1回開の催から1度も「中山3600m」という条件を変えることなく行われてきました。

それ以前(戦前)から、中山競馬場は障害レースを含めて「長距離」レースを売り物にしてきた経緯があり、今回は「ステイヤーズS」前史と題して、歴史を少し遡ってみようと思います。

明治時代:「連合二哩」創設まで案外少ない長距離戦

そもそも、日本が模範としたヨーロッパの競馬では、古くは「ヒートレース」が主流で、そこから「ダッシュレース」として今の1マイル台のレースに短くなっていった歴史があります。(↓)

ふつう、ヒート競走では優勝馬を決めるためには最少でも2回のヒートが必要であり、4マイル(約6437メートル)のヒート競走に出走する競走馬は少なくとも8マイル(約13キロメートル)を走らなければならない。18世紀の半ばになると、古典的な4マイルのヒート競走では、競走馬は前半はゆっくり走り、後半の2マイルだけ全力疾走するようになっていった。19世紀が近づく頃には、途中で「歩く」馬がしばしば見られたという。

競走馬が長距離のヒート競走に耐えうるには、完成された頑健な馬体と豊富なスタミナが要求され、生まれてから十分に時間をかけて成長させる必要があり、しばしば5歳や6歳、あるいはそれ以上に育つまで待つ必要があった。しかし生産者や馬主は、もっと若いうちから競馬に使う方が経営上の効率がよいと考えるようになり、また競馬の主催者は興業上の観点で、1回の競走が早く終わる方が経営効率がよい。こうして、より若馬による、より短い競走が好まれるようになっていった。

1780年に始まったダービーは、3歳の若馬による、わずか1マイル半(約2414メートル)の、1回勝負(ダッシュ戦)の競走だった。ヒートレース自体が現在ほとんどみられないので、現在は用いられることはまず無いが、ヒートレースに対する概念として、「1回限り」で勝負を決する競走を「ダッシュレースDash Race)」という。19世紀頃の競走の名には「○○ダッシュ」というようなレース名が散見されるが、これは「ヒートレースではなく1回で勝負を決めるレース」を表している。

ヒートレース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本に競馬が伝わったのが19世紀の後半ということもあり、それ以前に競馬が伝わった国と違い、国土の狭さも相俟ってか、当初(幕末・明治期)から基本的には「ダッシュレース」が行われてきました。

例えば、幕末(1862年)の【横浜新田競馬場】というウィキペディアのページを見ても、春には1周を3/4マイル(≒1200m)としていた同コースで、『半マイル』や『1周+1/8マイル(≒1400m)』、『2周+1/8マイル’(≒2600m)』といった距離で行われていました。
そして、秋開催には、初日の第3レースに『横浜ダービー』という目玉競走があり、そこでは『3周+1/8マイル(≒3800m)』という一番の長距離戦が行われていた記録があります。当時から、名物競走や格上は『長距離』という概念が定着していたことが窺えます。

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明治期の中盤まで、日本各地にできる競馬場は手狭な日本列島において「1周1000m」前後が主流であり、流石に狭めなコースを何周もするレースは施行されにくかったこともあってか、2000m付近が中心だったとされます。そうした中で、対外戦争で西洋列強との軍馬の違いを思い知らされ、馬匹改良の必要性を思い知らされた辺りで、例外的にこういったレースも行われていたという記録もあります(↓)

北海道乗馬会による運営
荒廃し自然消滅の危機を迎えた中島遊園地競馬は日露戦争を機に復活する。……北海道乗馬会は競馬を開催する趣旨として馬匹の改良を強く打ち出し、札幌共同競馬会社時代のような短距離競走を廃止し、長距離レースのみ行った。多くのレースは1マイル以上とし番外では5500間(10キロメートル)などという突拍子もない番組さえ組んだ。この超長距離番組には6頭が参加し時間は20分だったという。……5500間(10キロメートル)走る長距離レースは10回行われ、第一回目には20分だった時間が16分まで向上している。1906年(明治39年)には西洋馬も登場している。札幌共同競馬会社時代には5尺を超えることがなかった競走馬の体格も北海道乗馬会時代には5尺を超える和洋雑種馬がざらにいるようになっている。

中島遊園地競馬場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

実際、軍馬としての質の向上という観点では、1~2マイルでのスピードだけでなく、実戦的な長距離も走れなければならないという観点からすると理にかなってはいるように感じますが、当然単調で退屈なレースとなりますから当たり前ですが日本国内でも定着しませんでした。

大正・昭和時代(戦前):各地で2マイル級のレースが開催

その後、大正から昭和にかけて、当時でいう「外地」でも競馬が開催されるようになると(外地も日本に含めて考えれば、)内地と同等かそれ以上の1周の長さを持つ競馬場が設立されます。基本的に距離は日本と同じく2マイル以下で行われることが殆どでしたが、日本でいう昭和に入って法制化された「満洲国」の競馬は、軍馬育成に比重を置いたものとなっていて、

満洲国賽馬法では競馬場は一周2000m以上幅40m以上の広大な馬場にアップダウンと急角度のコーナーおよび500m以上の直線を設置することが義務付られている。

満洲国の競馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

となっており、平地競走以外にも、障害競走のほか、繋駕速歩競走も行われていたこともあったのでしょうが、特に大陸では広大な競馬が行われていたことが窺えます。

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さて、内地に目を向けますと、明治の終わりに『優勝内国産馬連合競走(連合二哩)』、大正時代には『各内国抽籤濠州産馬混合競走(二哩一分)』という2マイル以上の名物競走が設立されていきます。これはそれまで「2マイル以下」でばかりレースが行われてきた歴史を考えると画期的なことでした。

昭和に入って、帝室御賞典は春・秋2回を2マイル前後、「目黒記念」は戦前、3400~3900mで開催をされるようになり、各地でも競馬場名を冠したレースで2マイル級の競走が行われていきますが、

3000m級のレースが行われ『長距離こそ正義』といった風潮が強まったのは、早くとも明治末期以降であり、各地の名物競走が3200mなどで行われるようになったのもそれこそ戦争が深まっていった昭和に入って本格化ですから、戦前は一貫して長距離が重用されていた』というのは戦後からみた偏った見方なのかも知れません。

昭和時代(戦後):1960年代に天皇賞を超える距離が復活

戦後に入ると、目黒記念が3900mから短縮され、平地での最長距離は基本的に、天皇賞の3200mとなります。戦前のような『軍馬』など馬匹改良という大義名分が無くなったこともあるでしょう。また、地方競馬でもかつては「東京大賞典」が3000mなど中央に負けない長距離レースが行われていましたが、時代と共に廃れていきます。

昭和の中期にかけての長距離レースでいうと、1950年代の序盤をもって長距離重賞は距離が短縮され、それから昭和40年代までは3000m級の重賞は「天皇賞」と「菊花賞」だけという時期が続きました。

いわばマイル重賞が充実することの反対側の側面として、1960年代に中距離だったレースを長距離とする試みが一時的に行われ、その一環として『ステイヤーズS』の創設があったのだと思われます。

レース名距離延長短縮
目黒記念3200m1950
京都記念3000m1951
中山記念3200m1951
阪神大賞典3100m1965
ダイヤモンドS3200m1965
アルゼンチンJCC3200m19661968
ステイヤーズS3200m1967

戦前の「中山四千米」と戦後の「日本最長距離S」

ちなみに、競馬トリビアとして良く知られた話ですが、昭和40年代には『日本最長距離ステークス』という条件戦が行われていたことも有りました。当時の中山競馬場を外1周 → 内1周するというコースで、その距離は「芝4000m」というものでした。

なお、netkeiba.comさんのデータベースによると、『日本最長距離ステークス』が創設される1968年の前年(1967年)に『長距離S』という条件戦【芝3600m】が開催された記録が残されています。

日本最長距離ステークス(にほんさいちょうきょりステークス)とはかつて中山競馬場で行われていた中央競馬準オープンクラス競走である。外回りを1周後、内回りを1周する芝コースの4000メートル競走。

概要
施行当時の関東圏の中央競馬においては数少ない条件クラスの長距離戦であった。ハンデキャップ競走であったが出走馬は集まらず、多くの年は少頭数で行われた。

1974年の競走ではチャイナロック産駒のキクオーカンが4分15秒6のレコードタイムを記録したが翌1975年は一転して調教タイムのような凡戦でレースそのものの存在に対する物議を醸すこととなり、同年を最後に廃止された。

本競走の廃止により、平地競走で最長距離である競走は同じく中山競馬場で行われているステイヤーズステークス(芝3600メートル)となる。なお中山競馬場では第二次世界大戦前にも中山四千米(当記事と同じ中山4000mコース)が施行されていた。

日本最長距離ステークス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そして、最後にある通り「中山四千米」というその名もずばりなレースが戦前に行われていたというのも一部の競馬スキには知られた話となっています。

中山四千米競走(なかやまよんせんメートルきょうそう)とはかつて中山競馬場の2周芝4000mで行われていた競馬の特殊競走(現在の重賞競走に相当)である。1930年から1936年まで年1回、春季競馬で行われていた。

イギリスゴールドカップにならい創設された。
東京優駿競走(現・東京優駿(日本ダービー))が3歳馬の登竜門であるとすれば、この中山四千米は競馬界を引退する時期の近づいた強豪級の真の実力比べの檜舞台とされていた。第2回までは「内国産馬」というレース名だったが、第3回から「中山四千米」となった。

中山四千米
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

その第1回(1930年)は、当時の日本の最強馬2頭(ハクシヨウとナスノ)の事実上のマッチレースとなり、ダービー創設前の名勝負の一つとして100年近く経った今でも伝説として残っています。

古くから中山競馬場は『長距離』に伝統と由緒ある舞台であり、そうした経緯から『ステイヤーズS』の舞台として白羽の矢が立ったのだと個人的には思います。

昭和時代:国内最長の重賞として創設

中央競馬が長距離レースの充実をはかった1960年代に唯一新設された重賞が「ステイヤーズS」です。

1967年に重賞として創設されたといわれる「ステイヤーズS」ですが、実は『長距離S』という条件戦が創設される前年の1966年に『ステイヤーズS』という名の条件戦が開催されていたこともあるため、事実関係を整理するために、以下の表を作りました。こちらをご参照ください。


(4~5月)

(9~10月)

(12~1月)
1966ステイヤーズS
300万下 3600m
1967ステイヤーズS
重賞 3600m
長距離S
500万下 3600m
1968ステイヤーズS
重賞 3600m
日本最長距離S
600万下 4000m
1969ステイヤーズS
重賞 3600m
日本最長距離S
1000万下 4000m
1970ステイヤーズS
重賞 3600m
日本最長距離S
1000万下 4000m
1971日本最長距離S
900万下 4000m
ステイヤーズS
重賞 3600m
(参考)netkeiba.comさんのデータベース

12月の冬開催とそれ以外で時期を分けて、「重賞」と「条件」の2レース、中山競馬場で2マイル超のレースを行うというのが昭和40年代のトレンドでした。1971年は馬インフルエンザの影響により開催中止となり施行されませんでしたが、それからの半世紀は、有馬記念が開催される12月開催の開幕週の名物重賞として開催され続けています。

初回は、その年に天皇賞・有馬記念を連勝する【カブトシロー】が1番人気で出走するも6着と大敗。しかし本来、中距離が強いカブトシローにとってこの長距離は適正距離の約2倍であることを思えば、人気を裏切るのも致し方ない舞台だったかも知れません。

そして、第4回(1970年)には、前年に「日本最長距離S」を勝ってオープン入りをしていた【コンチネンタル】が5頭立てのレースを制して『ステイヤー王』に輝いていますが、その他の勝ち馬をみても基本的にステイヤーが有利な舞台というのは間違いなくて、短い距離で勝ち上がるのに苦労してきた馬が長距離で適性をみせるといった個性を持ったレースとなっていきます。

第14回1980年12月14日フジノハイハット牡53:47.7
第15回1981年12月13日ピュアーシンボリ牡53:52.7
第16回1982年12月19日ピュアーシンボリ牡63:50.4
第17回1983年12月18日ブライトシンボリ牡33:46.8
第18回1984年12月9日カネクロシオ牡33:50.2
第19回1985年12月8日ホッカイペガサス牡43:53.3
第20回1986年12月7日シーナンレディー牝63:52.7
第21回1987年12月19日マウントニゾン牡43:47.9
第22回1988年12月11日スルーオダイナ牡43:46.3
第23回1989年12月10日スルーオダイナ牡53:47.3

1980年代に入ると、1981・82年に【ピュアーシンボリ】、1988・89年に【スルーオダイナ】といった具合に、重賞での連対は3000m以上のみという生粋のステイヤーがこの舞台で連覇を達成するようになり、1984年にG3に格付けされてからは、まさに『ステイヤー王』を決する舞台として定着していました。

平成時代:G2に昇格も、維持の難しさを痛感

第23回1989年12月10日スルーオダイナ牡53:47.3
第24回1990年12月8日ドクタースパート牡43:45.6
第25回1991年12月7日メイショウビトリア牡43:44.1
第26回1992年12月12日アイルトンシンボリ牡33:47.8
第27回1993年12月11日アイルトンシンボリ牡43:51.4
第28回1994年12月10日エアダブリン牡33:41.6
第29回1995年12月9日ステージチャンプ牡53:47.1
第30回1996年12月7日サージュウェルズ牡53:50.5
第31回1997年11月29日メジロブライト牡33:48.7
第32回1998年12月5日インターフラッグ牡53:58.8
第33回1999年12月4日ペインテドブラック牡33:46.2
第34回2000年12月2日ホットシークレット騸43:45.6
第35回2001年12月1日エリモブライアン牡43:43.3
第36回2002年11月30日ホットシークレット騸63:45.6

スルーオダイナに続いて、アイルトンシンボリが連覇を達成し、2000年代にはホットシークレットが2度の優勝を果たす「ステイヤーズS」。

1997年からGIIに格上げ、あわせて負担重量もハンデキャップから別定に改められたことにより、有馬記念を目指す馬にとって重要な前哨戦のひとつとなった。

ステイヤーズステークス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1ヶ月弱での有馬記念出走が現実的だった1997年当時に前哨戦として機能することを期待して「G2」に昇格され、いきなり【メジロブライト】が出走します。

続いて11月29日、この年からGIIに昇格し、別定戦に改められたステイヤーズステークスに出走する。秀一はこの理由を、メジロブライトはGIII優勝馬に過ぎないため、斤量が軽く済んだことと、有馬記念をメジロドーベルが出走する関係もあって自粛したことだと回顧している。

直線では促されないままに先頭に立ち、直線半ばでスパート。すると後続を突き放す一方となって独走となった。後方との差を「およそ11馬身」(井口民樹)、大差で先頭で入線を果たす。重賞3勝目を挙げた。この頃の秀一は、まだ有馬記念出走の可能性を完全に捨てきれていなかったが、大差勝ちというパフォーマンスを見て、翌年の天皇賞(春)を目指すことを明確にする。

メジロブライト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
第37回2003年12月6日チャクラ牡33:48.2
第38回2004年12月4日ダイタクバートラム牡63:44.8
第39回2005年12月3日デルタブルース牡43:47.7
第40回2006年12月2日アイポッパー牡63:43.4
第41回2007年12月1日マキハタサイボーグ騸53:44.9
第42回2008年12月6日エアジパング騸53:48.1
第43回2009年12月5日フォゲッタブル牡33:51.3
第44回2010年12月4日コスモヘレノス牡33:43.4
第45回2011年12月3日マイネルキッツ牡83:50.8
第46回2012年12月1日トウカイトリック牡103:46.5
第47回2013年11月30日デスペラード牡53:45.2
第48回2014年12月6日デスペラード牡63:47.8
第49回2015年12月5日アルバート牡43:45.9
第50回2016年12月3日アルバート牡53:47.4
第51回2017年12月2日アルバート牡63:43.0
第52回2018年12月1日リッジマン牡53:45.2

しかし、2005年に菊花賞馬のデルタブルース、2011年に天皇賞馬のマイネルキッツなどが勝ったのは寧ろ例外で、前の週に「ジャパンC」があり、『中2週』で有馬記念に挑むローテーションが現代の馬にとってはタフなこともあって『孤立化』していきます。

G2に昇格して四半世紀が経ちますが、2013・14年に【デスペラード】、2015年からは【アルバート】が3連覇を達成していますが、『天皇賞(春)』を始めとするG1に結びつかないレースとして、徐々に地位低下が目立つようになりました。

ちなみに、平成最後の勝ち馬【リッジマン】は、地方・岩手に移籍した後、2022年のジャパンCに出走をして話題になったことも記憶に新しいところです。

令和時代:G2残留に厳しい展開が続く……

2016年以降のレースレーティングを併記してみると、G2として非常に厳しい状況にあることが分かります。こちらの表の左から3番目がレースレーティングです。(↓)

第50回2016年12月3日108.50アルバート牡5
第51回2017年12月2日109.25アルバート牡6
第52回2018年12月1日104.25リッジマン牡5
第53回2019年11月30日108.25モンドインテロ牡7
第54回2020年12月5日108.25オセアグレイト牡4
第55回2021年12月4日105.50ディバインフォース牡5

国際的には「G2の目安:110ポンド」とされており、それを上回れた年は1度もありません。また「G3の目安:105ポンド」を何とか上回るレベルではありますが、下の記事にも書いたとおり、日本のG3は平均して105ポンドを上回ったレートを持っていることに鑑みると、『ステイヤーズS』の実績値はG3相当という結論に至ってしまいます。

レーティング的にはG3相当なのですが、これは今「G2」としてそれ相当の賞金が提示されているからG3のレートを維持できているという見方もできましょう。これが仮にG3に格下げされてしまい、賞金も減額されてしまったら、それこそ重賞としての水準を維持することも困難となりそうです。

現代のステイヤーは、菊花賞や天皇賞(春)を制したり、クラシックディスタンスで善戦するレベルの強豪が中心で、そうした馬は敢えて12月開催な「ステイヤーズS」に出走してきません。個人的には、開催時期を変えて秋のステイヤー王・決定戦とするか、凱旋門賞の前哨戦みたいな位置づけにするか、12月に固執するなら賞金そのままに「ハンデ戦」にするといった改革をしないと、ジリ貧で長距離路線の凋落を進めてしまうのではないかと危惧しています。

とはいえ、レースそのものは興味深く、馬券的に未知数な部分も多いことは事実。何とか「長距離」の灯を消さないためにも、何らかの対策を講じて頂けることを期待しています。

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