【はじめに】
この記事では、私の「Rxヒット指標」に基づき歌手/アーティストのヒット曲を振り返っていきます。今回取り上げるのは「大川栄策」さんです。
大川 栄策(おおかわ えいさく、本名:荒巻 逸造(あらまき いつぞう)、1948年10月30日-)は、日本の演歌歌手である。大川栄策音楽事務所所属。血液型はA型。
大川栄策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Rxヒット指標にみる「大川栄策」さんの人気曲
まず、私(Rx)のヒット指標にみる「大川栄策」さんの代表曲をみていきましょう。こちらです(↓)
枚 | 発売 | 累計pt | ① レコード | ② DL | ③ 再生 | ④ カバー | 曲名 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 69/06/10 | 60 | 20 | 10 | 30 | 目ン無い千鳥 | |
32 | 82/08/01 | 270 | 180 | 10 | 80 | さざんかの宿 | |
33 | 83/06/01 | 30 | 30 | 恋吹雪 |
2位:60万pt(1969年)『目ン無い千鳥』
福岡県大川市出身。身長169cm。佐賀県立佐賀商業高等学校を卒業と同時に上京し、作曲家古賀政男に弟子入り。
そして1969年に日本コロムビアより「目ン無い千鳥」(兄弟子アントニオ古賀のB面だった)で念願のデビューを果たし、リバイバルヒットとなる。以後、地道に“古賀メロディ”を歌い続ける。
大川栄策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
もともとは戦前のヒット曲で、昭和40年代に入り、島倉千代子さん、そして大川栄策さんが歌ったバージョンがB面から話題となりました。
さらに1969年、大川栄策がカバーした。古賀は、この曲の出来に気をよくし、A面にして大川を売り出そうとしたが、レコード会社側は当時、無名だった大川をA面にしても売れないだろうと判断し、アントニオ古賀のレコードのB面に入れて発売した。
しかしリリース後、B面の大川の曲にファンの支持が集まり、再び「B面のヒット曲」となった。なお同時収録となったアントニオ古賀の収録曲は新妻鏡であり、偶然にも島倉・大川と揃って霧島昇のオリジナル版と同じA面・B面の組合せとなった。 なお、大川が歌う新妻鏡は翌年の1970年にシングルで発売されている。
目ン無い千鳥
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1位:270万pt(1982年)『さざんかの宿』
「さざんかの宿」(さざんかのやど)は、1982年8月1日に発売された大川栄策の32枚目のシングル。累計180万枚の売り上げを記録しており、大川にとって最大のヒットとなった。
さざんかの宿
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- 作曲の市川昭介は作品の出来によほどの自信があったようで、曲を書き上げるとすぐに大川に楽譜を見せたくなり、彼の自宅に行って玄関先で帰りを待ったという。
- 発売から4ヶ月経って、オリコンのトップ10に初登場。3週間2位(1983年1月24日 – 2月7日付)にランクイン。
- TBS『ザ・ベストテン』では同曲で自身唯一の登場となり、週間最高で3位(1983年1月27日・2月3日放映)で10位以内には12週間ランクインした。
- 大川にとっては1969年の「目ン無い千鳥」以来、13年ぶりのヒット曲である。この間ずっとヒットに恵まれず、1978年7月には恩師・古賀政男も死去する、という苦しい日々を過ごした。『ザ・ベストテン』で初めてランクインした時、「13年間の苦労は何とも思わないが、古賀先生がお元気な内に、A面でヒット曲を出して先生を喜ばせたかった」と語っている。(「目ン無い千鳥」は古賀門下の兄弟子・アントニオ古賀のレコードのB面だった)。
- 同曲の大ヒットにより、1983年大晦日放送のTBS『第25回日本レコード大賞』においてロングセラー賞を獲得。さらに同日の「第34回NHK紅白歌合戦」へも、大川自身念願の紅白初出場を果たした。
3位:30万pt(1983年)『恋吹雪』
1982年、吉岡治作詞、市川昭介作曲の「さざんかの宿」が180万枚の大ヒット。NHK紅白歌合戦にも初出場した。相乗効果にて次作の「恋吹雪」もヒットした。
大川栄策
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