種田 山頭火(たねだ さんとうか、本名:種田 正一(たねだ しょういち)、1882年12月3日 – 1940年10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。
山口県佐波郡(現在の防府市)の生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。
種田山頭火
1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。
各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
代表句
義務教育の国語の教科書にも載っているような「種田山頭火」の著名な代表句を5つ厳選しました。
- あるけばかつこういそげばかつこう
- うしろすがたのしぐれてゆくか
- まつすぐな道でさみしい
- すべつてころんで山がひつそり
- 分け入つても分け入つても青い山
なお、自由律俳句の代表格とされる俳句のうち、『咳をしても一人』は【尾崎放哉】の作品です。
自由律俳句の誕生を準備したのは河東碧梧桐の新傾向俳句と、それを理論化した大須賀乙字である。正岡子規の俳句革新ののち、碧梧桐は自然主義の影響を受けて個性重視、接社会を説き、五七五の定型を徐々に破って五五三五、五五五三といった四分節形式を試みるようになっていった(こうした傾向に対して高浜虚子は危機感を覚えて俳壇に復活、客観写生、花鳥諷詠を説いた)。
しかし荻原井泉水は新傾向俳句の不徹底性を批判し、主宰誌「層雲」(1911年創刊)誌上で印象詩としての俳句を提唱。「層雲」はもともと碧梧桐を擁していたが、大正時代以降に季題を捨てることを拒んだ碧梧桐派が分離したのち、境涯俳句性の強い種田山頭火、尾崎放哉や大橋裸木、のち俳句幽玄論を説き「かほ」「いろ」といったわずか二音の短い句も作った青木此君楼などを輩出、自由律俳句の拠点となった。
自由律俳句
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そして種田山頭火の生涯を思うと、以下のような俳句が私は好きです。いわゆる「五七五」の定型とは全く異なる韻律や印象を持った『自由律俳句』。こちらに惹かれる方が100年以上経った今もあるというのが分かります。
- 生まれた家はあとかたもないほうたる
- 笠にとんぼをとまらせてあるく
- けふもいちにち風を歩いてきた
- また見ることもない山が遠ざかる
- 濁れる水の流れつつ澄む
主要な著作
- 『鉢の子』
- 『草木塔』
- 『山行水行』
- 『山頭火全集』全11巻(春陽堂書店、新編は全8巻)
没後の表彰
故郷の防府市には山頭火の句碑が83あり、2017年には山頭火ふるさと館が開設された。山口市では1992年に其中庵が復元されている。
種田山頭火賞
種田山頭火
山頭火の生き方を彷彿とさせるような表現者を顕彰するため、春陽堂書店が2018年に創設した。2022年までに麿赤児、伊藤比呂美、碓井俊樹、夏井いつき、ロバート・キャンベルが受賞している。
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ちなみに、夏井いつき先生は、自身のYouTubeチャンネルでこの賞を受賞した喜びを語ると共に、商品としてもらった『山頭火全集』をもとにコーナーを開催したりもしていました。
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