エフフォーリアが、京都記念を最後に現役引退を発表したけど、年明け緒戦を最後に現役を引退するって、そういうことって過去にもあったの?
今回は「JRA年度代表馬」に輝いた馬が、年明け1走で現役を引退することとなった事例を調べてみました。平成最後の事例となる牝馬……どの馬か分かりますか? 答えは↓にありますのでぜひ最後までお読み下さい!
昭和時代の年度代表馬
1959ウイルデイール → 61/10・5着オープン
「年度代表馬」が決められるようになって最初の事例は、1959年に皐月賞を制したウイルデイール。2000m以下の良馬場に強い適正を持った同馬は、現5歳(当時6歳)の怪我からの復帰戦となる10月の平場オープンでブービーの5着と敗れ、この結果を受けて引退、種牡馬入りしています。
ウイルデイール
- 1959年4月19日、第19回皐月賞に出走、前走の内容が評価されて2番人気に支持されてのレースは、渡邊正人の好騎乗で2分3秒3のレコードタイムでの優勝。渡邊騎手は前年のタイセイホープに続いて皐月賞を連覇した。続く東京優駿トライアルのNHK杯(東京競馬場)も連勝、二冠達成の期待を担って東京優駿へコマを進める。しかし、5月24日の第26回東京優駿では降りしきる雨の中、ドロドロの馬場に脚を取られて思うようなレースが出来ず、コマツヒカリの15着と敗れた。
- ウイルデイールは東京優駿の後、3ヶ月の休養をはさんで9月20日の第7回京都杯に出走し、1着となる。だが菊花賞へは出走せず、平場オープン競走を叩いて1959年末の第9回クモハタ記念に出走し1着、年間を通じて11戦6勝と活躍したことが評価され、年度代表馬に選ばれた。
- 明け5歳となった1960年は、前年のクモハタ記念から僅か1週間後のアメリカジョッキークラブカップに出走(5着)、さらにその2週間後には金杯(2着)と、1ヶ月で3レースをこなすタフネスぶりを見せた。3月6日の大阪杯に優勝し、春の目標であった天皇賞(春)に出走してクリペロの4着に入った。夏は全休した後、一戦して天皇賞(秋)に挑んだがオーテモンの3着となった。秋の天皇賞の後、有馬記念に出馬投票したが故障のため、レース直前で出走を取り消し、グランプリを走ることは出来なかった。
- 明け6歳となった1961年は、前年の秋の天皇賞以来、1年ぶりとなる10月28日の平場オープン競走に出走したが5着と敗れ、このレースを最後に現役を引退した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1962オンスロート → 63/01・取消 AJCC
2例目は、大井競馬から中央に移籍して1962年の「年度代表馬」となったオンスロート。1963年にAJCCを出走取消したものをここでは含もうと思います。
オンスロート (競走馬)
- オンスロートは、日本の競走馬。南関東でデビューしたのち中央競馬でも活躍し、南関東公営競馬と中央競馬双方において年度代表馬に輝いた。
- 6歳となった1962年に、オンスロートは一層の充実振りをみせる。まずは正月の金杯で中央競馬での重賞初勝利を飾り、幸先の良いスタートを決めた。そして天皇賞(春)を目指して関西への遠征を敢行すると、前哨戦のスワンステークスで3着。しかし本番では西の筆頭シーザーを破り、ついに念願の盾を獲得した。
- 関東に戻って緒戦の東京記念こそ7着と人気を裏切ったが、その後のオンスロートは盤石の強さで連勝を続ける。7月の日本経済賞ではタカマガハラを軽々と退け、秋になってもオープン戦を2連勝。そして前年のリベンジとなった有馬記念では、日本代表としてワシントンDCインターナショナルに出走して帰国したばかりのタカマガハラを1と3/4馬身差で下し、グランプリ制覇を達成した。この活躍により、オンスロートは啓衆社賞年度代表馬に選出されている。
- 7歳となった1963年、オンスロートは出走を予定していたアルゼンチンジョッキークラブカップを脚部不安で取り消している。すでに十分な戦績を残していたこともあって現役継続ではなく種牡馬入りを目指すこととなったが、日本軽種馬協会から提示された金額はタカマガハラの半額の300万円と低額であり、私有での種牡馬入り先を模索する。だが同年春には厩務員のストライキにより厩舎の環境が悪化したこともあって、オンスロートはいったん古巣・大井へ移籍し、同競馬場の馬房でしばしの休息を過ごした。もっとも南関東での出走はなく、同年秋には旭川で種牡馬入り先が見つかったことから正式に競走登録を抹消している。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
このオンスロートの場合は「結果的に出走せずに引退した」タイプになります。
1963メイズイ → 65/01オープン1着
シンザンの前年、三冠確実と言われながら、騎手の驕りなどもあり単勝支持率83.2%の菊花賞を6着と大敗した【メイズイ】。2400m以下では16戦15勝、2500m以上では未勝利と距離適性が顕著だった同馬は、現4歳時に有馬記念を3着と惜敗……しますが、
メイズイは日本の競走馬。1963年の皐月賞、東京優駿(日本ダービー)を圧勝し、クラシック三冠確実と言われながらも菊花賞で敗れ、三冠を逃した。クラシック戦線ではグレートヨルカとライバル関係を築き、一連の対戦はそれぞれのイニシャルを取り「MG対決」と呼ばれた。
秋は精彩を欠く結果となったが、春のクラシック二冠が評価され、翌1月には当年の年度代表馬にリュウフォーレルと同時選出された。
5歳となった翌1964年は、春の天皇賞を目標にアメリカジョッキークラブカップから始動するも、5着と敗れる。しかしその後のオープン戦、前哨戦スワンステークスを連勝して天皇賞に臨み、1番人気に推された。しかし最後の直線を先頭で逃げ粘るも、前走で4着に退けていた関西馬ヒカルポーラにゴール寸前で差し切られ、3/4馬身差の2着に終わった。
休養の後、秋の天皇賞を目標に10月の復帰戦から3連勝。しかし本番の天皇賞はヤマトキョウダイの8着と大敗。年末の有馬記念には、当年にクラシック三冠を達成したシンザンを押さえて1位で選出されたが、ヤマトキョウダイの3着に終わった。この競走を最後に引退の予定だったが、負けたままでは格好が付かないとして年明け1月5日のオープン戦に出走し、ここを勝利して引退。同月24日、千明牧場出身の天皇賞優勝馬コレヒサと共に、東京競馬場で引退式が行われた。
メイズイ
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この馬のとにかく痺れるところは『年明け1戦を勝って現役引退したところ』でしょう。怪我ではなく引退の花道を自ら飾るべく出走する例は古今を問わず稀有でしょう。
1972イシノヒカル → 73/11・7着オープン
こちらは現3歳時に年度代表馬に輝くも1年近い休養を余儀なくされ、4歳の秋に復帰するもシンガリ負けとなった事例です。
イシノヒカル(1969年5月6日 – 1986年4月11日)は、日本中央競馬会に所属していた競走馬・種牡馬。「花の47年組」の一頭で、1972年の菊花賞・有馬記念に優勝し、同年の優駿賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬を受賞。
しかし短期間に激戦をこなしたイシノヒカルは疲労困憊状態にあった。5歳になった1973年は年初から蕁麻疹に裂蹄、そして左前脚の挫石が発症し、春の天皇賞を目指して西下ものの、レースに使える状態ではなかった。増沢はこの原因を「外向した脚に負担が掛かり続けたため」と分析している。
10か月の長期休養を余儀なくされ、5月に福島県いわき市の馬の温泉で治療、8月に千葉県九十九里浜でリハビリを行い、11月3日の東京のオープンにようやく姿を表す。しかし後に宝塚記念を勝つナオキのスピードについて行けず、7頭立ての殿負けに終わる。このレースが最後となり、7歳になった1975年2月に登録を抹消。
イシノヒカル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
結局最後となったレースから登録抹消(現役引退)まで1年以上、復帰に向けた道を模索していたという点でも、馬の活躍期間の短さと復帰にかける陣営の思いが伝わってきます。
1977テンポイント → 78/01・中止 日本経済新春杯
この馬の最期については改めて説明不要な部分もあろうかとは思いますので、「日経新春杯」の記事を確認されたい方はご参照願います。
テンポイント(1973年4月19日 – 1978年3月5日)は、日本中央競馬会に登録されていた競走馬。
1975年8月に競走馬として中央競馬でデビュー。関西のクラシック候補として注目を浴び、額の流星と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれた。現役時代は鹿戸明を主戦騎手とし、1976年に出走したクラシックでは無冠に終わったが、翌1977年に天皇賞(春)と有馬記念(第22回有馬記念)に優勝。後者のレースではトウショウボーイと繰り広げたマッチレースは競馬史に残る名勝負のひとつとされている。
1978年には海外遠征を予定していたが、その壮行レースとして出走した日本経済新春杯(第25回日本経済新春杯)のレース中に骨折し、43日間におよぶ治療の末、死亡した。
テンポイント
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一つ言えることとしては、年度代表馬に輝いた翌月に年明け緒戦を迎えたというローテーションだったということです。今に比べて珍しいことではなかったとはいえ、斤量云々以前に有馬記念でトウショウボーイを下した1ヶ月後に秋4走目として66.5kgを背負ったことは無理があったのかも知れません。
1978カネミノブ → 81/01・4着 AJCC
派手さはないものの大敗も少なく堅実に走り続けた【カネミノブ】。今でいう7歳まで走り、その最後に戦ったAJCCまで通算37戦を戦い抜きました。
年末の有馬記念は……ノーマークに近い9番人気であった。カネミノブは馬群から抜け出して先頭に立つと、粘り込みを図るメジロイーグルの外から同期のインターグロリアが強襲。それらを退けてカネミノブがレコードタイムで制覇し、この年の優駿賞年度代表馬に選出された。
1979年は6戦未勝利に終わり、スピードシンボリ以来の連覇を狙った第24回有馬記念もグリーングラスの3着であった。直線でメジロファントムが外から内へと大きく蛇行してカネミノブとサクラショウリの進路を妨害したとして、加賀は裁決委員に詰め寄った。騎手仲間から審議に持ち込む費用を借りてまで実行した加賀の思いは叶わず、長時間に及んだ審議の結果は「着順変わらず」であった。1980年は復調し、目黒記念(春)と毎日王冠を勝利。3年連続出走となった有馬記念は2番人気で、メジロファントム・カツラノハイセイコ・ホウヨウボーイと争ったが、ホウヨウボーイの3着に終わった。1981年は年明けのAJCCが引退レースとなり、勝利すれば中央競馬歴代最高賞金王という記録が掛かっていたが、ホウヨウボーイの4着に敗れた。
カネミノブ
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1984・85シンボリルドルフ → 1986/03・6着 サンルイレイH
まさに『たった3度の敗北を語りたくなる馬』というキャッチフレーズに相応しい皇帝の引退レースは、異国・アメリカ遠征の緒戦でした。明け現5歳の3月サンルイレイHで6着となったレースです。
シンボリルドルフ(欧字名:Symboli Rudolf、1981年3月13日 – 2011年10月4日)は、日本の競走馬、種牡馬。
日本競馬史上4頭目の中央競馬クラシック三冠馬(無敗で三冠達成した史上初の馬)であり、その他のGI競走を含めると史上初の七冠馬でもある。1984年度優駿賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬、1985年度同年度代表馬および最優秀5歳以上牡馬。主戦騎手は岡部幸雄。1987年、顕彰馬に選出された。
6歳
シンボリルドルフはまずサンタアニタ競馬場のサンルイレイステークス(GⅠ) に出走し、次にサンフアンカピストラーノインビテーショナルハンデキャップに出走する予定だった。
しかし迎えたサンルイレイステークスではDahar(ダハール)の6着に敗れた。コースの特徴でもあるダートコースを横切る場所で左前脚繋靭帯炎を発症したことが敗戦の理由とされ、その日のテレビではNHKをはじめ各局がニュースなどでシンボリルドルフの故障、敗戦を報じた。岡部はレース直前の調教でシンボリルドルフの異変を察し陣営にレース回避を進言したが聞き入れられることは無かった。なおシンボリルドルフの三つの敗戦はすべて左周りコースの競馬場でのものである。そして帰国後、海外再挑戦が検討されるも最終的には引退となり、12月7日には中山競馬場で引退式が行われた。
シンボリルドルフ
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不幸中の幸いだったのは、予後不良とならず、種牡馬入りし、幾多の名馬を輩出できたことでしょう。これが次の例に繋がります。
平成・令和時代の年度代表馬
1991トウカイテイオー → 1993/12・1着 有馬記念
父・シンボリルドルフとは結果的に異なり、引退レースともなる年明けの緒戦=有馬記念を優勝したのが【トウカイテイオー】です。
トウカイテイオー(欧字名:Tokai Teio、1988年4月20日 – 2013年8月30日)は、日本の競走馬、種牡馬。
七冠馬シンボリルドルフの初年度産駒の一頭であり、日本調教馬として最初の国際G1競走優勝馬である。1991年度JRA賞年度代表馬、最優秀4歳牡馬および最優秀父内国産馬、1993年度JRA賞特別賞受賞。 1995年、顕彰馬に選出。主な勝ち鞍は1991年皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、1992年ジャパンカップ、1993年有馬記念など。「皇帝」と称された父から連想して付けられた馬名より「帝王」、幾度もの骨折から復活の勝利を挙げた競走生活から「奇跡の名馬」とも呼ばれる。
5歳(1992年)
年末のグランプリ・有馬記念では、出走馬選定のファン投票で17万票以上を集め、第1位で選出。……しかしレースでは終始後方のまま、生涯最低の11着に終わった。6-7歳(1993年-1994年)
翌1993年1月3日、左中臀筋を痛めていたことが判明し、鹿児島県の山下牧場で休養に入る。
この時水面下では種牡馬となることも模索されていたが、結果的に価格が折り合わなかったため現役続行が決まった。3月に帰厩、宝塚記念での復帰を目標に調整されていたが、競走10日前に左前トウ骨の剥離骨折が判明し、再び休養に入った。10月に栗東に帰厩し、この結果、復帰戦は1年(364日)ぶりのレースとなる有馬記念(12月26日)に決まった。……レースが始まると、中盤まで後方待機策をとったトウカイテイオーは、2周目第3コーナーから徐々に進出。最後の直線に入ると先に抜け出したビワハヤヒデを追走し、ゴール前の競り合いを制して半馬身差で優勝した。前回の出走から中364日でのGI勝利は長期休養明けGI勝利の最長記録となり、現在まで破られていない(競走詳細については 第38回有馬記念も参照のこと)。この勝利が評価され、翌1月にはJRA賞特別賞を受賞した。
翌1994年も現役を続行、天皇賞(春)を目標に調教が進められていたが、復帰予定の大阪杯を右トモの筋肉痛により回避。これを受け宝塚記念を目標に定めたが、4月14日に前回故障の患部である左前トウ骨をふたたび骨折し、4度目の休養に入った。18日に内村がこの年の天皇賞(秋)を最後に引退し、翌年春から種牡馬入りすることを発表。以後は引退レースとなる秋の天皇賞に目標が切り替えられたが、状態の回復が思わしくなく、天皇賞に間に合わないとの判断から8月27日に松元から引退が正式に発表された。
トウカイテイオー
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沢山の文章を引用してしまいましたが、要するに【トウカイテイオー】の有馬記念での復活は、オグリキャップのそれとは異なり『引退レース』となることを想定したものでなかった点に注意が必要です。
ひょっとすると劇的なレースを最後に年明け(1994年)には現役引退する運びになっていたと誤解される方もいらっしゃるでしょうが、あの有馬記念での奇跡の復活が最後になるのが既定路線ではなかったのです。
2008・09ウオッカ → 10/03・8着 A.M.C.Rd.3
レース名を略して書かせてもらいましたが、ドバイのメイダン競馬場で行われた「マクトゥームチャレンジラウンド3」のことです。一緒に出走した【レッドディザイア】が優勝した一方で、ウオッカは鼻出血のため目標としていたドバイワールドCへの出走を断念し、現役を引退しています。
ウオッカ(欧字名:Vodka、2004年4月4日 – 2019年4月1日)は、日本の競走馬、繁殖牝馬。
牝馬として史上3頭目、64年ぶりに東京優駿(日本ダービー)に勝利するなどGI通算7勝を挙げた。2008年、2009年のJRA賞年度代表馬。2011年選出の顕彰馬。
年内での引退を宣言していたために、ジャパンカップが引退レースとなる見方も存在したが、12月8日に年内引退を撤回。引退を、2010年3月末のドバイワールドカップ(G1)出走後に改め、放牧に出された。前年と同様に2月中旬に出国した。
ウオッカ (競走馬)
3月4日のマクトゥームチャレンジラウンド3(G2)を前哨戦に選択、ルメールとともに出走し、8着敗退。直後に競走中に2度目の鼻出血の再発が判明したため、角居と谷水の合意の上でドバイワールドカップ出走を断念、前倒しして引退が決定した。3月18日、日本中央競馬会の競走馬登録を抹消。
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5歳時ヴィクトリアマイル、安田記念、ジャパンCとG1を3勝した【ウオッカ】も、6歳時に再び鼻出血を発症して1戦で現役を引退しているのです。
2021エフフォーリア → 23/02・中止 京都記念
令和になってはじめての事例となったのが、2021年に3歳で圧倒的な強さを見せるも、2022年に3戦して馬券圏内に絡めず苦しんだ【エフフォーリア】です。それでも有馬記念では5着と復調の兆しを見せ、明け5歳の緒戦に選んだ『京都記念』では、1つ年下の日本ダービー馬・ドウデュースと人気を二分、レース前半は積極的に先行策を取っていました。
エフフォーリア(欧字名:Efforia、2018年3月10日 – )は、日本の競走馬。主な勝ち鞍は2021年の皐月賞、天皇賞(秋)、有馬記念。2021年のJRA賞年度代表馬、最優秀3歳牡馬である。
4歳(2022年)
長期休養を挟み、陣営は有馬記念への直行を選択。調教では鹿戸調教師も「いい状態になっている」という動きを見せ臨んだレース。中団やや前方で待機し、4コーナーでは先頭に立つ勢いも見せたが、後ろから伸びてきやイクイノックス、更にはボルドグフーシュなどに交わされ、5着という結果に終わった。しかしレース後横山武史騎手は「やりたい競馬はできた」「得るものがあったレース」と振り返り、2023年への期待感を寄せた。5歳(2023年)
エフフォーリア
2月12日、当初の予定通り自身初のG2である京都記念に出走。レース当日には昨年のダービー馬であるドウデュース、前走の中日新聞杯で復活の勝利を果たした2021年度のホープフルステークス覇者キラーアビリティなどのG1馬も出走する中、ドウデュースに次ぐ2番人気に支持された。
スタートを決めると先行集団に加わり、第3コーナーまではユニコーンライオンを見ながら2番手をキープしたが、第4コーナーに差し掛かった時点でズルズルと後退し始め、直線に入った時点で最後方まで後退し、ゴール手前で競走を中止した。後のJRAの発表でレース中に心房細動を発生したことがわかり、これには鹿戸師も「積極的に行って良かったが…」「急に止まって心房細動みたい。仕方ないですね」と振り返った。
その後美浦に戻り、検査での数値は特に異常は見られなかったが、関係者サイドと協議した結果、同月14日にオーナーのキャロットクラブより現役を引退し、北海道安平町の社台スタリオンステーションで種牡馬となることが発表された
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ただ、歴史的にみると『年度代表馬』にも輝くような馬が、年明け1走のみで現役を引退するケースが(主に20世紀が中心ですが)無いことはないという点を改めて確認いただけたかと思います。
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