「宝塚記念」に挑戦した3歳馬について振り返ってみた【ドゥラエレーデ参戦まで】

【はじめに】
春のグランプリこと「宝塚記念」。現3歳馬(旧4歳馬を含む)がこのレースを勝ったことが無いのですが、なぜ3歳馬が勝てていないのでしょうか? この謎について時代別に振り返っていきます。

なお、2023年の「宝塚記念」でも注目される【イクイノックス】に関する事項については(↓)の記事もご参照ください。

昭和中期:ダービーの翌月に現3歳馬も多数参戦

※なお、旧馬齢の時代も表記を新馬齢に統一しています点、あらかじめご了承ください。

「宝塚記念」が辿ってきた歴史については下の記事にまとめているので、そちらもご参照いただきたいのですが、1956年に創設(当初は中山グランプリ)された「有馬記念」に触発される形で、1960年に創設された「春/関西のグランプリ」が「宝塚記念」です。

有馬記念と同様に、ファン投票で出走馬を決め、こちらは上半期の締めくくりを飾る競走として関西地区の競馬を華やかに盛り上げようとの趣旨で企画され、1960年に創設された。「上半期の実力ナンバー1決定戦」として位置づけられている。

宝塚記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第1回は、1960年6月26日に阪神競馬場の芝1800mで開催されました。ここから、第8回(1967年)までは6月最終週から7月第1週にかけて開催されていた頃は、言ってしまえば今とほぼ同じく約1ヶ月の間隔で開催されていたため、現3歳馬が挑戦することは全く珍しくありませんでした。

当時は毎月のように競走馬が出走することが今に比べて珍しくなく、1ヶ月近いローテーションであれば標準的なスケジュールだったと言えるからです。実際に見ていきましょう。

開催日頭数内3歳馬最先着備考
1960/06/269頭3頭4着:タイゴンオー6月毎日杯1着
1961/07/024頭1頭4着:リユウライト5連勝→6連敗
1962/07/017頭1頭5着:モトイチ条件戦2連勝
1963/06/3010頭5頭3着:コウライオー6月毎日杯2着
1964/07/057頭1頭6着:ヤマニンルビーオークス2着
1965/06/276頭1頭4着:ハツライオーダービー10着
1966/06/268頭2頭4着:シバハヤ
1967/07/028頭1頭4着:タフネス6月毎日杯6着

ご覧の通り、初期は1桁頭数がザラだったのですが、その中でも必ず3歳馬が出走していました。今のように間隔が空くことはなく、毎年必ずです。ローテーションに対する考え方がまるっきり違うのでしょう。1963年に至ってはアラブの名牝ヒメカツプなどを含めて半数(10頭中5頭)が3歳馬でした。

とはいえ着順をみて明らかなように、最先着でも3着(唯一)で、連対を果たした馬すらおらず、それどころか歴戦の古馬を相手に掲示板に載ることすら困難といった有様でした。

最大の理由として、馬のランクが見劣りしていた点は否めないと思います。1964年のヤマニンルビーはオークス2着という実績がありますが、他の馬は少なくとも明け3歳の初夏以降は一線で活躍とまでは言えず、当時6月前半に阪神で開催されていた「毎日杯」に連対したが、現2歳時に活躍して東上したものの春2冠で活躍できず関西に戻ってきたタイプの馬ばかりでした。

昭和後期:6月前半開催となり3歳馬は出走不可に

1968年は「東京競馬場」の改修工事のため日本ダービーが7月開催となり、その年の第9回は前年から1ヶ月以上早い5月26日の開催となりました。

  • 1960年 – 4歳以上の馬による重賞競走「宝塚記念」を創設。阪神競馬場・芝1800mで施行。
  • 1966年 – 京都競馬場の芝外回り2200mで施行。これ以降、施行距離が芝2200mで定着。
  • 1968年 – 出走資格を「5歳以上」に変更。
  • 1976年 – 全国発売を開始。また厩務員労働組合の争議のため日程変更が行われ、京都競馬場での施行となった。
  • 1980年 – 京都競馬場がスタンド改築工事のため、この年のみ中京競馬場で施行。
  • 1984年 – グレード制導入、GIに格付け。
  • 1987年 – 出走資格を「4歳以上」に変更。
( 同上 )

その翌年のレーシングカレンダーは平常通りとなり、ダービーも5月最終週の開催となったのですが、宝塚記念はダービーの翌週(6月1日)開催に変更。3歳馬限定戦の「毎日杯」より前に開催されることとなった宝塚記念の出走資格は「(旧)5歳以上」のまま変わらず、それが20年間続くこととなりました。この期間は、そもそも3歳馬に出走資格がなかった訳ですから、当然制覇は期待できません。

むしろ、芝コースが新設された中京競馬場で「芝の中距離重賞」として開催されるようになった「高松宮杯」が6月後半に開催され、3歳馬も出走可能な点においてはそれまでの「宝塚記念」を踏襲したような位置づけとなります。

この「高松宮杯」には3歳馬も隔年ぐらいで出走するようになり、1979年にネーハイジェット、1986年にラグビーボールが3歳馬として古馬を相手にこのレースを制しています。どちらの馬も日本ダービーで掲示板に入る活躍を残した中で関西に転戦した格好でした。

そして、1987年になると開催が6月中旬となると共に、3歳馬に門戸が再び開放されることとなりますが、1987・88年という昭和年間には3歳馬の挑戦はなく、平成に時代が移ります。

平成年間:時折出走するも、あのウオッカでも勝てず

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阪神・淡路大震災が起きた1995年、ライスシャワーが予後不良となる痛ましい出来事が起こるまで、「宝塚記念」は6月前半の開催でした。 外国産馬がクラシックに出走できない時代だったとはいえ、春の終わりを宝塚記念で締める陣営は皆無でした。この時期の出走馬を見てみると、

  • 1991年・7着:イイデセゾン (日本ダービー3着)
  • 1991年・9着:イイデサターン(日本ダービー12着)
  • 1994年・12着:イイデライナー(日本ダービー12着)

冠名「イイデ」のアールエスエーカントリ の3頭のみで、その他は全く出走していませんでした。上段のイイデセゾンこそ3歳クラシック路線で活躍し、日本ダービー3着という映えある成績を残していましたが、10頭立ての7着。他の2頭は日本ダービーと同様結果を残せず終わっています。


1996年から1999年までは7月前半(梅雨真っ只中)に開催されていましたが、この時には2頭出走。

ヒシナタリーもオースミブライトも3歳になってから重賞を制していた馬ですし、結果的には着順以上に接戦というところまで古馬に迫っていた印象を受けるレースぶりでした。

「宝塚記念」の開催時期を日本ダービーから1ヶ月とした主な目的として、3歳馬を含めた「春競馬の総決算」としたかったJRA側などの意図が伝えられています。そうした意味で、この時代までは、その目的が果たされていたのだと思います。


そして、外国産馬にもクラシック戦線が開放され、21世紀になると、約40年ぶりとなる「毎年のように3歳馬が参戦」する時期が3年間だけですが訪れます。

  • 2001年・11着:ダービーレグノ  (日本ダービー7着)
  • 2002年・3着:ローエングリン  (駒草賞OP1着)
  • 2003年・4着:ネオユニヴァース (日本ダービー1着)
  • 2003年・10着:サイレントディール(日本ダービー4着)

これまでの歴史と比較すると、ネオユニヴァースという春クラシック2冠馬が参戦したことの持つ衝撃は計り知れないものがありました。2002年にローエングリンが(1963年のコウライオー以来39年ぶり)3着という結果を残し、初の3歳馬による宝塚記念制覇が期待されての挑戦です。

しかし、7戦6勝(5連勝中)だったネオユニヴァースは4着に入るのが精一杯。それどころか、秋を2戦続けて3着とし最大目標のはずだった「3冠馬」の夢も潰えてしまいます。(もちろん直接的に「菊花賞」の敗因と結論づけるべきではないでしょうが、見えない負担の蓄積はあったのかも知れず、これは当時から噂されていました。)

2冠馬でも連対できなかった事実によって、並の3歳馬陣営は「宝塚記念」に挑戦すること自体を検討しなくなったのが平成の後半です。2004~06年には、3歳馬の出走はなく、次の事例は2007年となります。そう、あの馬がダービー馬に輝いた年です。

ウオッカ(欧字名:Vodka、2004年4月4日 – 2019年4月1日)は、日本競走馬繁殖牝馬牝馬として史上3頭目、64年ぶりに東京優駿(日本ダービー)に勝利するなどGI通算7勝を挙げた。

その後は、フランスのロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞(G1)を目指した。東京優駿参戦前には第一次登録を済ませており、東京優駿3日後に凱旋門賞出走が決定した。

目標に向け、古馬とのレース経験を積むために6月24日の宝塚記念(GI)に参戦。1996年のヒシナタリー以来11年ぶりとなる3歳牝馬出走であり、負担重量は51キログラム。ファン投票は、6位となる5万608票を集めた。初対決となる古馬を上回り、単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持。良いスタートを切ったが折り合えず、最後の直線で伸びを欠いて8着に敗れた。

ウオッカ (競走馬)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

それまでとは異なり、牡牝で2000年代を代表するような日本ダービー馬が2頭挑んでも古馬に届かなかったことを受けて、いよいよ3歳馬による宝塚記念挑戦は、よほどの特殊事例となっていきます。

実際、ウオッカが8着と破れた翌年からの平成20年代での3歳馬の挑戦は1頭のみとなりました。2012年、オルフェーヴルが勝った年の【マウントシャスタ】です。

毎日杯2着からNHKマイルCで他馬を落馬させたとして6位入線からの失格となり、白百合Sを制して挑んだ宝塚記念は、12番人気と人気薄ながら5着(ウインバリアシオンとハナ差)という予想以上の好走を見せたりもしていました。

令和時代:ドゥラエレーデが11年ぶり出走も

マウントシャスタまで先行した3歳馬が好走した事例もある中、11年ぶりのサマーグランプリ参戦となったのは【ドゥラエレーデ】。ホープフルSを14番人気という人気薄で制し、UAEダービーを2着とするも、東京優駿ではスタート直後に躓いて落馬。レースでの疲労が少ないと判断されて、やや異例の事情で宝塚記念出走が決まりました。

私の記事にも多くの方が訪れましたが、他メディアでも報じられたとおり、3歳馬は過去最高でも3着、クラシックホースでも4着といった実績から、5kgの差があってもこの時期の3歳馬が古馬に対抗するのは難しく、大外枠から2番手で先行するも直線半ばで失速。イクイノックスから1.1秒差の10着と敗れました。

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