【はじめに】
2023年、最後のジャパンダートダービーを、大井所属のミックファイアが1番人気に応え優勝しました。果たして、過去に「1番人気でG1級競走を制した地方馬/地方出身馬」にはどういった馬がいたのか、時代ごとにまとめてみましたのでぜひお楽しみ下さい。
昭和時代(中期)
戦後、闇競馬から今の「地方競馬」につながる興行が本格化すると、国営 → 中央競馬よりも先進的だったり、レベルも同等以上だった時代が1950年代には訪れます。
当時は地方競馬に所属したまま中央競馬に挑むことは出来なかったため、地方競馬で実績をあげた馬が中央競馬に移籍して、中央馬として戦うこととされていました。こうした時代の名馬としては、
1951 | 優駿牝馬 | キヨフジ | 川崎 |
1954 | 東京優駿 | ゴールデンウエーブ | 大井 |
1954 | 天皇賞(秋) | オパールオーキット | 大井 |
1956 | 天皇賞(秋) | ミツドフアーム | 大井 |
1958 | 東京優駿 | ダイゴホマレ | 大井 |
1961 | 天皇賞(秋) | タカマガハラ | 大井 |
など、八大競走(しかも東京競馬場で行われたオークス・ダービーという旧4歳馬の王者を決めるレースと、古馬最高の栄誉・天皇賞(秋))を制した馬を輩出しています。
それでも、キヨフジは2番人気で秋開催のオークスを制していますが、1番人気で八大競走を制した馬は下に示すオンスロートまで待たねばなりませんでした。
オンスロート:1962年・天皇賞(春)、有馬記念
オンスロートの凄さは、ウィキペディアにも書いてあるとおり、公営・中央のどちらでも年度代表馬に輝いたところ、そして中央で当時の2大競走であった古馬競走を堂々1番人気で制した点でしょう。
オンスロートは、日本の競走馬。南関東でデビューしたのち中央競馬でも活躍し、南関東公営競馬と中央競馬双方において年度代表馬に輝いた。
オンスロート (競走馬)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
現2歳から5歳まで一線級で戦い続け、6歳になっても現役での活躍の場を求めて調教を続けていた点は、昭和時代中期の地方出身馬の代表的な存在といえると思います。
ヒカルタカイ:1968年・天皇賞(春)
それから数年経って、再び衝撃的な馬が誕生しました。【ヒカルタカイ】です。天皇賞(春)での衝撃的な大差勝ちばかりが話題になりますが、改めてみてみるとその他のエピソードも強力でした。
ヒカルタカイは、日本の競走馬である。南関東公営競馬の初代三冠馬で、中央競馬に移籍後は天皇賞(春)・宝塚記念を制した。リンボーの代表産駒である。
概要
4歳となった1967年は12戦7勝で黒潮盃および南関東三冠競走(羽田盃・東京ダービー・東京王冠賞)を全て優勝し、三冠競走創設以来初となる三冠馬となった。この年の最終戦となった12月の東京大賞典は2着に終わったものの、その評価が下がることはなく、同年の公営日本一・公営日本一最良の4歳馬を受賞している。古馬となった1968年。元日の新春盃(2着)を最後に中央競馬に移籍した。オープン競走を3戦連続2着で迎えた天皇賞(春)では2着馬タイヨウに2秒8差の大差(記録上は「大差」。馬身に換算すると17馬身と推測される。着差の項目を参照)という八大競走史上最大の着差をつけ優勝。「雨天に助けられた」と見る向きもあったが、続く宝塚記念も2分14秒7のレコードタイムで優勝したことでこれを払拭。この功績により同年の啓衆社賞最優秀古馬牡馬を受賞した。同年は6戦2勝。
ヒカルタカイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
直線で一頭違った手応えをみせ、直線半ばで大差をつけると、テレビの実況もカメラワークも2着争いに終始するほどの圧勝は、地方で戦ってきたことからの馬場適性も相俟って恐ろしい差となりました。
昭和時代(後期)
ハイセイコー:1973年・皐月賞
時代は少し近代化をし、現代にもつながる重賞競走が地方でも整備され始めた昭和の後半。その時代の地方競馬を象徴したのが【ハイセイコー】でしょう。
ハイセイコー(1970年 – 2000年)は、日本の競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年、顕彰馬に選出。
1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞の青雲賞優勝を含む6連勝を達成。1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた。
ハイセイコー
移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった。5月27日に東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく、むしろ高まり、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハイセイコーが活躍した一方で、地方馬の中央挑戦の機運は弱まりを見せ、むしろ1980年代の国際化に伴って、オールカマーからジャパンCといったローテーションが固定化されていきます。
カツアールが1981年に準八大競走だった宝塚記念を、翌1982年にヒカルデユールが有馬記念を、共に3番人気で制し、更に1985年にはロツキータイガーがジャパンCで2着に入るなどの活躍を見せます。
平成時代(前期)
昭和から平成にかけて「平成三強」と称された馬のうち、【イナリワン】は実は古馬になってから中央・地方を問わず1番人気に支持されたことがありませんでした。なので、天皇賞(春)も春秋グランプリ制覇もこの記事では大きく取り上げることが叶いません。
オグリキャップ:1989年・マイルCS、1990年:安田記念
その「平成三強」として長く競馬ブームを盛り上げた笠松・芦毛の怪物こと【オグリキャップ】も、タマモクロスなどの中央生え抜きの人気馬に惜敗することもあったため、中長距離路線では1番人気でG1を制することは出来ませんでした。
オグリキャップ(欧字名:Oguri Cap、1985年3月27日 – 2010年7月3日)は、日本の競走馬、種牡馬。
1987年5月に岐阜県の地方競馬・笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1989年度のJRA賞特別賞、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。1991年、JRA顕彰馬に選出。愛称は「オグリ」「芦毛の怪物」など多数。
中央競馬時代はスーパークリーク、イナリワンの二頭とともに「平成三強」と総称され、自身と騎手である武豊の活躍を中心として起こった第二次競馬ブーム期において、第一次競馬ブームの立役者とされるハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。
オグリキャップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堂々1番人気でG1を制した事例としては、バンブーメモリーとのハナ差決着で知られる「マイルCS」と、翌年の年明け緒戦となった「安田記念」の2例。どちらもマイルG1でした。
そして平成の初頭は、ドクタースパートが平成最初の「皐月賞」を制し、オグリローマンは地方出身馬として初めて「桜花賞」を制しました。
しかし、徐々に「交流元年」と言われるような時期を迎えます。交流重賞の整備が進む反面、中央の芝に若くから挑戦する陣営は減ります。もちろん、1997年の【コンサートボーイ】が帝王賞を制したように、中央のバトルラインらを下して当時の表記でいう交流G1を制する地方馬も増えてきた点で、当初の目的は達成していたのですが、20世紀の芝挑戦のトレンドはこの辺りでかなり弱まっていきました。
アブクマポーロ:1998年・川崎記念、帝王賞、東京大賞典、1999年・川崎記念
1998年から翌99年にかけて、交流G1を4勝したアブクマポーロは、南関競馬を代表する活躍をみせ、その充実ぶりを示していました。
アブクマポーロとは日本の競走馬。主な勝ち鞍は東京大賞典、帝王賞、川崎記念(2回)。また、1997年から1998年にかけ、NARグランプリの年度代表馬部門とサラブレッド系5歳上最優秀馬部門を2年連続で受賞した。ダートグレード競走初期に地方競馬側の総大将格として君臨し、引退後年数を経ても地方競馬を代表する最強馬の1頭として名前が挙がっている。
NARグランプリ年度代表馬(1997・1998年)
アブクマポーロ
NARサラ5歳以上最優秀馬(1997・1998年)
ダートグレード競走最優秀馬(1998年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平成時代(中盤)
これまでの歴史をみても、G1級競走を制した馬を輩出したのは、南関競馬とオグリの笠松競馬でした。そんな経緯を一気に打ち崩したのが、1999年の【メイセイオペラ】です。1996年にOROパークの「盛岡競馬場」が移転新設されると、俄に活気づき、気づけばあの「フェブラリーS」にまで繋がるのです。
メイセイオペラ :1999年・帝王賞
メイセイオペラは地元・岩手では無敵を誇りましたが、交流重賞で県外に遠征すると勝ちきれず、特に1998年は前述のアブクマポーロに後塵を拝していました。
その直後、1999年1月31日に行われた「フェブラリーS」には2番人気で出走し、人気のワシントンカラー以下の中央勢を完封し、中央初挑戦で現代でも他に例のない「地方所属での中央G1制覇」を果たすのです。
メイセイオペラ(欧字名:Meisei Opera、1994年6月6日 – 2016年7月1日)は、日本の競走馬、種牡馬。
1999年、日本競馬史上唯一、地方競馬所属にして中央競馬のGI競走・フェブラリーステークスを優勝。同年のNARグランプリ年度代表馬に選出された。その他の勝ち鞍に、1998年の帝王賞(GI)、マーキュリーカップ(GIII)、1999年のマイルチャンピオンシップ南部杯(GI)。
メイセイオペラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なおこの記事のタイトルでもある「1番人気でのG1制覇」としては、1999年の帝王賞が該当します。ウィキペディアの冒頭の記載は1998年となっていますが【誤り】でしょう。
オリオンザサンクス:1999年・ジャパンダートダービー
そのメイセイオペラの帝王賞の翌月に訪れたのが、第1回「ジャパンダートダービー」(G1)。この初代優勝馬となったのが大井の【オリオンザサンクス】でした。
オリオンザサンクス(欧字名:Orion the Thanks、1996年4月10日 – 2023年3月3日)は、日本の競走馬、種牡馬。主な勝ち鞍に1999年のジャパンダートダービー(GI)など。同年のNARグランプリサラブレッド系最優秀4歳馬に選出された。
オリオンザサンクス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
まだ全く組織立っていなかったところからようやく整備が始まった現3歳のダート路線。東京王冠賞こそ3着と敗れたものの、それ以外は地方限定戦で強さを誇ってきたオリオンザサンクスが、初代JDダービー馬に輝いたことは新時代を予感させるものとなりました。
2000年になってインテリパワー(川崎記念)、2001年にマキバスナイパー(帝王賞)などがG1馬となっていますが、やはり中央勢の層は厚く、2000年代に入ると徐々に差が広がっていってしまいます。
トーシンブリザード:2001年・ジャパンダートダービー
G2だった全日本3歳優駿を制し、年明けになっても連勝を伸ばした【トーシンブリザード】は、中央との対戦を含むようになった「南関三冠」を史上初めて達成します。
いかに強いとはいえ単勝1.0倍(複勝は結果1.1倍という逆転現象)は過剰人気にも思えましたが、それだけの信頼感があったことは事実でしょう。
2000年9月11日、船橋競馬場でのJRA認定競走新馬戦でデビューし、1着。2戦目の山茶花特別も勝ち、全日本3歳優駿も7番人気ながら制して3戦3勝とし、2000年のNARグランプリサラブレッド3歳最優秀馬に選ばれた。
馬齢表記変更で3歳となった2001年も、初戦の京浜盃を勝って連勝を継続し、南関東三冠路線でも羽田盃と東京王冠賞で連続してフレアリングマズルを下して二冠を奪取し、東京ダービーでゴッドラヴァーを下して1989年のロジータ以来の南関東三冠を達成。無敗での達成は史上初となった。続く統一GIジャパンダートダービーも勝って無敗の四冠馬となったが、直後に骨折して休養に入り、12月の東京大賞典で復帰してトーホウエンペラーの3着に入った。3歳時は6戦5勝、2001年のNARグランプリサラブレッド3歳最優秀馬に選ばれた。
トーシンブリザード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2001年の年末・東京大賞典は岩手のトーホウエンペラーが制し、2003年には地方へと移籍したネームヴァリューが牝馬ながら帝王賞を制覇。そして、2002年には、元ホッカイドウ競馬のアローキャリーが桜花賞を、元盛岡のトウカイポイントがマイルCSを制覇するなど、中央の芝G1で人気薄ながら(地)馬が久々にタイトルを奪取する事態ともなりました。
個人的には、中央競馬に果敢に挑戦し続けたホッカイドウ競馬の雄・コスモバルクの存在も忘れられません。期待が高まりすぎたことへの反省がないこともないですが、遥かシンガポールでG1を制したことは地方競馬に新たな可能性をもたらしたものと今でも信じています。
アジュディミツオー:2006年・かしわ記念
そして、「かしわ記念」で短距離ダートで本格化したブルーコンコルドを制したアジュディミツオーが1番人気でのG1制覇を成し遂げています。
アジュディミツオー(Adjudi Mitsuo)とは、日本の競走馬である。
2004年、2005年の東京大賞典を連覇し、地方競馬所属馬として初めてドバイワールドカップに出走した。また、南関東公営競馬の古馬GIを完全制覇している。主戦騎手は内田博幸。
アジュディミツオー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この翌年には、フジノウェーブがJBCスプリントを制するなど、交流元年の直後ほどではないにせよ、地方馬が地元の利を活かすなどしてG1→Jpn1制覇を成し遂げる事例がありました。
平成時代(後期)
フリオーソ :2008年・帝王賞、2011年・川崎記念
船橋所属で、中央では勝ち星をあげられなかったものの、生涯を通じて南関の総大将的な存在感を示してきた「フリオーソ」。2年半を経て1番人気でのJpn1制覇(しかも単勝1.0倍)したのは快挙です。
フリオーソは日本の船橋競馬場に所属した元競走馬である。2006年の全日本2歳優駿、2007年のジャパンダートダービー、2008年・2010年の帝王賞、2011年の川崎記念、かしわ記念を制した。……2007年・2008年・2010年・2011年NARグランプリ年度代表馬。
2008年:地方競馬の上半期を締め括る大一番帝王賞に出走。好スタートからハナを切ると、終始先頭を譲らずそのままゴールまで押し切り、JpnI (GI) 競走3勝目を達成した。
2011年:2011年の初戦は4年連続川崎記念となった。スマートファルコンやエスポワールシチー、トランセンドといった中央の有力馬が相次いで回避し、出走を予定していたテスタマッタも出走取消となって単勝1.0倍の1番人気に推される。レースでは早めに先頭に立ち、直線で他馬を突き放して2着に5馬身差をつけて圧勝し、4度目の挑戦で川崎記念初制覇となった。
フリオーソ (2004年生)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この頃には何頭か地方所属でJpn1を制する馬は出てきましたが、例えば【ラブミーチャン】の全日本2歳優駿制覇もこの時期(2009年)です。この時は、北海道2歳優駿を制したビッグバンが1番人気で、地方勢が人気でワンツーを占めていましたが、終わってみれば笠松のラブミーチャンの逃げが見事に決まりました。5戦5勝でのJpn1制覇となり、NAR年度代表馬にも輝きましたね。
ハッピースプリント:2013年・全日本2歳優駿
それでも、全日本2歳優駿を1番人気で制する地方馬はなかなか現れず、2013年の【ハッピースプリント】まで待たねばなりませんでした。
ハッピースプリントは、日本の競走馬である。主な勝ち鞍は2013年の全日本2歳優駿、北海道2歳優駿、2014年の羽田盃、東京ダービー、2015年の浦和記念。
12月18日、川崎競馬場で行われた2歳ダート王決定戦・全日本2歳優駿に出走。このレースでも2.5倍の1番人気に推された。道中は3番手につけたが、4コーナーで逃げるスザクに並びかけて同馬との一騎討ちになったが、これを制して1馬身半差をつけてJpnI制覇を果たした。
調教師の田中淳司は「北海道の2歳は強いと言われながらもなかなかJpnIを勝てなかったので、これ以上にないくらい感激しています」と語った。2歳馬ながら、この年のNARグランプリ年度代表馬に選出された(2歳最優秀牡馬も受賞)。
ハッピースプリント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
このまま6連勝で羽田盃、東京ダービーまで制し、ジャパンダートダービーでは2着と惜敗したものの南関準三冠馬として注目の的となりました。
令和時代
令和に入って、カジノフォンテンやミューチャリーなど地方馬が古馬Jpn1を伍して制することも目立つようになってきた印象を受けます。そして、そうした実力差の縮小を受け、地方競馬改革は大胆なものとなっていくことが発表されました。
その中でも、羽田盃および東京ダービーの交流重賞化は衝撃的で、70回近い歴史の中でも最大級の改革であったと思います。合わせて、2024年度から「3歳ダート三冠」として生まれ変わり、新たに秋に「ジャパンダートクラシック」に改称新設されることとなったあおりを受けて、「ジャパンダートダービー」が廃止されることとなったのも驚きでした。
ミックファイア :2023年・ジャパンダートダービー
既に現行の「南関3冠」路線の廃止が決定事項となり、「ジャパンダートダービー」としての開催が最後となった2023年は、全国各地の地方競馬で強豪の3歳馬が例年以上に輩出されていました。国内外で3歳馬が活躍する中、その大本命となったのが大井の【ミックファイア】でした。
ミックファイア(欧字名:Mick Fire、2020年4月5日 – )は、日本の競走馬。主な勝ち鞍は2023年のジャパンダートダービー、羽田盃、東京ダービー。
2023年に、史上2頭目となる無敗での南関東クラシック三冠を達成した。
ミックファイア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
羽田盃・東京ダービーと2冠でレコードを塗り替え、現行制度最後の年に1番人気に支持されたミックファイアは、ユティタム、ミトノオー、オマツリオトコ、キリンジといった中央勢を相手に、格の違いを見せつけるような直線の走りを見せ完勝しました。
To Be Continued…
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