競馬歳時記【11月1週】「アルゼンチン共和国杯」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「アルゼンチン共和国杯」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

アルゼンチン共和国杯西Copa Republica Argentina)(アルゼンチンきょうわこくはい)は、日本中央競馬会 (JRA) が東京競馬場で施行する中央競馬重賞競走 (GII) である。

アルゼンチン共和国杯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和時代:秋の目黒記念と事実上統合へ

  • 1963年 – 4歳以上の馬による重賞競走として「アルゼンチンジョッキークラブカップ」の名称で創設、東京競馬場の芝2300mで施行。
  • 1964年 – 出走条件を「5歳以上」に変更。
  • 1972年 – 混合競走に指定され、外国産馬が出走可能になる(1983年まで)。
  • 1975年 – 名称を「アルゼンチン共和国杯」に変更。
  • 1984年 – グレード制導入に伴い、GIIに格付け。

1960年代:「アルゼンチンJCC」として創設

日本とアルゼンチンの友好と親善の一環として、1963年にアルゼンチンジョッキークラブから優勝カップの寄贈を受け「アルゼンチンジョッキークラブカップ」の名称で創設された重賞競走。……第1回は5月に東京競馬場の芝2300m、別定重量の条件で行われたが、その後距離や競走条件は幾度かの変遷を経て、

( 同上 )

1960年に「アメリカJCC」が、当初は八大競走に次ぐ高額賞金競走として創設されます。それから3年後の1963年、今度は南米の「アルゼンチン」を冠した「アルゼンチンJCC」が創設されました。

第1回1963年5月19日2300mエムローン牡52:23.9
第2回1964年5月17日2300mトースト牝52:22.0
第3回1965年5月16日2300mトサイサミ牡42:24.5
第4回1966年5月15日3200mコレヒデ牡43:24.8
第5回1967年5月5日3200mリコウ牡53:23.0
第6回1968年10月13日3200mスピードシンボリ牡53:23.6
第7回1969年5月11日2600mメジロタイヨウ牡52:43.7

第1回は、オークス当日(1963/5/19)の春に開催されました。メインの2つ前(第7競走)で開催されると、6頭中有力馬2頭(オンスロートは脚部不安のため、後に引退)が取り消し4頭立てとなりますが、前年秋に重賞を勝っていた現4歳馬がアタマ差の接戦を演じていました。

開催条件は毎年のように変わりましたが、八大競走勝ち馬が毎年のように連対するなどレースの勝ち馬は一定水準を保っており、第7回で条件が戻されると、それが1970年代にも継続されます。

1970年代:「アルゼンチン共和国杯」に改称

その後、1974年にアルゼンチンの競馬がジョッキークラブから国の管轄へ移管されたことに伴い、1975年から現名称となった。日本における国際交換競走としては最古のもので、一方のアルゼンチン側ではパレルモ競馬場(アルヘンティノ競馬場)において「クラシコハポン (Clasico Japon)」という交換競走が行われている。

( 同上 )

アルゼンチン国内の動乱に伴って、日本で開催されるレース名も「アルゼンチン共和国杯」に改称されますが、レースは引き続き開催。中山2500mなどを経て、東京2400mに落ち着いていきます。

1970年5月5日中山2500mマツセダン牡42:34.8
1971年5月9日中山2500mメジロアサマ牡52:38.0
1972年6月11日東京2400mゼンマツ牡42:27.0
1973年5月13日東京2400mクリイワイ牡42:27.4
1974年5月12日東京2400mトーヨーアサヒ牡52:28.2
1975年5月11日東京2400mキクノオー牡42:27.6
1976年5月16日東京2400mアイフル牡52:27.7
1977年5月15日東京2400mアイフル牡62:34.4
1978年5月14日東京2400mカネミノブ牡42:27.8
1979年5月13日東京2400mカネミカサ牡52:28.1

第8回はスピードシンボリをハナ差で7番人気のマツセダンが下していますが、その後はしばらく人気サイドが勝利。翌1971年は天皇賞馬【メジロアサマ】がレース史上唯一60kgで優勝。その後は、59kgで史上初の連覇を達成した【アイフル】を除き、60kg近い斤量で出走する馬自体が少なくなり、中堅どころの重賞となっていきます。

1980年代:目黒記念(秋)の廃止に伴う後継競走に

1980年5月11日東京2400mブルーマックス牡52:29.8
1981年3月29日中山2500mウエスタンジェット牡42:35.2
1982年4月4日中山2500mミナガワマンナ牡42:35.4
1983年4月3日中山2500mミナガワマンナ牡52:36.9
1984年11月18日東京2500mメジロシートン牡32:35.8
1985年11月17日東京2500mイナノラバージョン牡82:36.4
1986年11月16日東京2500mサクラサニーオー牡42:35.9
1987年11月22日東京2500mカシマウイング牡42:32.8
1988年11月20日東京2500mレジェンドテイオー牡52:38.1
1989年11月19日東京2500mクリロータリー牝52:33.5

シンザン産駒の菊花賞馬【ミナガワマンナ】が、1つ年上の有馬記念馬【アンバーシャダイ】に勝利した1982年、その翌年の再戦は斤量差2kgでハナ・ハナ差での激闘となり史上2頭目の連覇を達成しています。

1984年(昭和59年)のグレード制導入とそれに伴う重賞格付け全面見直しの際、それまで年2回施行されていた目黒記念の秋の競走が廃止される代替として施行時期を目黒記念(秋)が行われていた11月に繰り下げ、4歳(現3歳)以上の馬によるハンデキャップ競走として東京競馬場の芝2500mで施行されるようになった。

また、格付けは目黒記念と同じGII、1着賞金も目黒記念と同額に設定された。

( 同上 )

私、今回調べるまで知らなかったのですが、「目黒記念(秋)」の条件を継承する形で1984年に条件変更が行われ、開催されることとなったのだそうです。なお、1981年からの3年間は中山開催となっていましたが、1984年に東京開催に戻され現在に至っています。

開催時期としては天皇賞(秋)とジャパンCのちょうど中間に当たり、レース距離的にも「有馬記念」のステップレースといった位置づけとなっていきます。要するに、ジャパンCには届かず、ハンデ戦も厭わない程度の斤量の馬が出走する傾向が顕著となっていったのです。

ちなみに、1985年にこのレースを制した【イナノラバージョン】は、当時の9歳(現8歳)馬であり、これは“当時のJRA重賞最高齢勝利記録を更新”するものでした。

平成・令和時代:繰り上がってジャパンCの前哨戦に

1990年代:2桁人気が4勝という大波乱に

第28回1990年11月18日メジロモントレー牝42:32.9
第29回1991年11月17日ヤマニングローバル牡42:32.6
第30回1992年11月22日ミナミノアカリ牡42:33.5
第31回1993年11月20日ムッシュシェクル牡52:32.6
第32回1994年11月19日マチカネアレグロ牡32:31.3
第33回1995年11月18日ゴーゴーゼット牡42:31.3
第34回1996年11月16日エルウェーウィン牡62:31.8
第35回1997年11月1日タイキエルドラド牡32:32.2
第36回1998年11月7日ユーセイトップラン牡52:32.9
第37回1999年11月6日マーベラスタイマー牡52:32.0

1990年代に入ると、いきなり9番人気のメジロモントレーが優勝、そして、1992年からは2年連続で10番人気の馬が勝ち、1996年は14番人気、1998年は12番人気と、数年のうちに2桁人気馬が4勝するという大波乱となります。

1997年にはジャパンCの前哨戦とも見做せる11月上旬開催(中2週)となり、天皇賞(秋)に出走しないクラシックディスタンス畑の馬がより出走しやすくなります。そんな中、このレースに1番人気に支持されるも6着と敗れたのが現3歳時の【グラスワンダー】でした。

その後は国際招待競走・ジャパンカップを視野に、アルゼンチン共和国杯へ出走。毎日王冠から700m延びる2500mと、初めての長距離競走への出走となったが、格下とみられた相手関係もあり、当日は1番人気の支持を受けた。レースでは3番手追走から、最後の直線で余裕をもっての抜け出しにかかった。しかしそこから失速し、6着に敗れた。

的場は「最後はバテたが、距離は長いとは思わなかった。まだ本当の状態じゃない」と述べるにとどめたが、尾形は「もしかして早熟馬だったのか」と大きなショックを受けたという。

この結果、ジャパンカップは回避が決定し、目標は年末の有馬記念に切り替えられた。

グラスワンダー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2000年代:スクリーンヒーローがJC制覇!

2002年には5歳となっていたタップダンスシチーが3着と入り、年末の有馬記念でブービー人気から2着に健闘します。一方で、1年ぶりのレースとなった菊花賞馬・デルタブルースが59kgで出走するも、5着と敗れる2005年など、斤量差が大きくなりやすいレースでは実績馬が苦戦し、軽量の馬が初重賞制覇を果たすことが増えていきます。

それが最も成功した例となったのが、2008年の【スクリーンヒーロー】でしょう。準オープンのオクトーバーSでジャガーメイルのハナ差2着と敗れていた同馬が53kgで格上挑戦をし、3kg上のジャガーメイルに逆転勝利を収めたこのレース。

条件馬がハンデG2を53kgで制したという実績だったため、本番のジャパンCも9番人気と人気薄でしたが、デムーロ騎手騎乗でディープスカイ、ウオッカを抑えてのG1初制覇を果たしています。これもこのアルゼンチン共和国杯がなければ起こり得なかったドラマと言えるでしょう。

2010年代:後のG1馬を続々輩出

2010年代ともなると、2500mという距離にも一般性が乏しくなり、この距離のレースだから出走してくる馬が殆どとなっていきます。歴代の勝ち馬を見ても、非常に豪華で、むしろハンデ重賞に出ていたことが若干不思議に思えるほどのメンツです。

ただこれは当時はまだG1に出走するほどの実績を伴っておらず、このハンデG2での優勝が、その後の飛躍に繋がったという分岐点でもあったのです。

第48回2010年11月7日トーセンジョーダン牡42:30.0
第49回2011年11月6日トレイルブレイザー牡42:31.5
第50回2012年11月4日ルルーシュ牡42:29.9
第51回2013年11月3日アスカクリチャン牡62:30.9
第52回2014年11月9日フェイムゲーム牡42:30.5
第53回2015年11月8日ゴールドアクター牡42:34.0
第54回2016年11月6日シュヴァルグラン牡42:33.4
第55回2017年11月5日スワーヴリチャード牡32:30.0
第56回2018年11月4日パフォーマプロミス牡62:33.7
第57回2019年11月3日ムイトオブリガード牡52:31.5

天皇賞馬・トーセンジョーダンや国内外で活躍したトレイルブレイザーに始まり、7番人気で勝ったアスカクリチャンを除けば、2010年代以降は人気サイドでの決着となっていきます。(2009年のミヤビランベリが2桁人気での優勝の直近例)

そして2015年のゴールドアクターは次走の有馬記念でグランプリホースに輝きますし、2016年のシュヴァルグラン、2017年のスワーヴリチャードは秋の王道路線を後に制することとなります。

やはり、ジャパンCとは距離が100mしか違わず、有馬記念は距離が同じということもあって、力がつき充実していけば王道路線にも直結しうるレースといえるでしょう。

2020年代:オーソリティ、38年ぶり3頭目の連覇

2020年代に入り、3歳だったオーソリティが54kgでこのレースを制すると、57.5kgとなった4歳時にもここを制して、ミナガワマンナ以来史上3頭目の連覇を達成。そして、ジャパンCではコントレイルの2着に入るまで成長を遂げます。

開催日レースR勝ち馬馬齢
2016年11月6日112.00シュヴァルグラン牡4
2017年11月5日111.25スワーヴリチャード牡3
2018年11月4日104.75パフォーマプロミス牡6
2019年11月3日108.00ムイトオブリガード牡5
2020年11月8日110.75オーソリティ牡3
2021年11月7日110.25オーソリティ牡4

2016年以降のレースレーティングを見ても、基本的には何とか「GIIの目安:110ポンド」を超えていますが、例えば2018年は「GIIIの目安:105ポンド」をも下回る水準に落ち込んでいます。

ジャパンC、香港国際競走、有馬記念と本当は直結していきたいのですが、年内にレーティングを上げる機会が限られることに加え、そういったG1にあと一歩届かない実力だからこそハンデG2に出走している面もあります。将来性のある勝ち馬が出るレースである一方、令和に入って時期などを見直す時期に差し掛かっているのかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました