競馬歳時記【5月4週】「優駿牝馬/オークス」(Yushun Himba(Japanese Oaks))

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返る「競馬歳時記」。今回は「優駿牝馬/オークス」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

優駿牝馬(ゆうしゅんひんば)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬重賞競走GI)である。1965年から(オークス)の副称が付けられており、競馬番組表での名称は「優駿牝馬(オークス)」、回次を含める表記では「優駿牝馬(第○回オークス)」と表記している。

優駿牝馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和10年代:秋・阪神開催で創設

「オーク(Oak)」は、を意味する英語。「ダービーステークス」創設者の第12代ダービー卿エドワード・スミス・スタンレーは樫の森が茂る「オークス」と呼ばれる土地を所有しており、1779年にエリザベス・ハミルトンと結婚した際、記念に競馬を開催することを発案。
その中に夫人の希望を入れて3歳牝馬のレースを行い、これが「オークスステークス」と名づけられたのが由来とされている。日本では本競走の優勝馬を「樫の女王」という通称で呼ぶこともある。

( 同上 )

昭和10年代に入ると、全国の競馬倶楽部が統合されて「日本競馬会」が発足。安田理事長が理事長に就任した昭和13年になると、イギリスのクラシック5大競走を範として、「日本ダービー」以外の4つのレースが創設されていきます。

1938年にイギリスオークスステークスを範として、4歳(現3歳)牝馬限定の「阪神優駿牝馬(はんしんゆうしゅんひんば)」を阪神競馬場(旧鳴尾競馬場)に創設。
横浜農林省賞典四歳呼馬(現: 皐月賞)東京優駿(日本ダービー)京都農林省賞典四歳呼馬(現: 菊花賞)中山四歳牝馬特別(現: 桜花賞)とともに日本のクラシック競走のひとつとされる。
桜花賞は最もスピードのある繁殖牝馬の検定競走とされたのに対し、本競走はスピードとスタミナを兼ね備えた繁殖牝馬を選定するためのレースとされている。

( 同上 )

当時の最大の謎として、『イギリスや現代の日本では初夏に開催されるオークスが、なぜ昭和の前半は秋開催だったのか』という疑問があります。これについての私の妄想を書き添えておきます。

  • 「5大競走」の整備を発表したのが、日本ダービー開催後(1938年6月15日)だったため、ダービー前に開催するレースは翌年を待たなければならずスピード感に欠けてしまうため、秋開催のレースを年内にスタートさせたかったのではないか。
  • 「5大競走」を当時のメインの5つの競馬場すべてに割り振った(中山・東京・横浜・京都・阪神)配慮が垣間見える中で、「春4、秋1」というイギリスの形態ではバランスが悪く感じたのではないか。
  • また、現在のような牝馬3冠目(秋華賞など)がない時代、牝馬限定競走(桜花賞、オークス)が春に集中させてしまうよりも、春と秋に1つずつ置いた方が盛り上がると考えたのではないか(輸送の負担も大きかったと思われる)
  • 実質的な前身である「牝馬連合(二哩)」が春と秋に開催されていて、昭和13年には休止となっていることから、秋開催分の牝馬連合の実質的な後継として設けたという印象が強かったのではないか。

当時の事情を色々想像するにせよ、第1回は11月23日(新嘗祭)に開催され、第2回からは10月頃に開催されることとなりました。また今と異なり、関西(鳴尾の阪神競馬場)での開催でもありました。

第1回は、阪神2700mという中途半端に感じる距離で開催され、第3代日本ダービー馬に輝いたフレーモアの全妹である【アステリモア】が日本ダービー3着惜敗から初の特別戦優勝を果たしました。なお娘のヒデヒカリは戦後、今でいう皐月賞を牝馬ながら制覇していて、母娘でのクラシック制覇を果たしています。

そして、第2回には、2か月弱繰り下がった10月1日に開催されます。ちなみに、日本語版ウィキペディアの「歴代優勝馬」の表では距離が間違っていますが、この回までは2700m戦だったようです。

ヒサヨシ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この第2回では、「ヒサヨシ事件」と呼ばれる騒動がありました。顛末は上述のウィキペディアに詳しく載っていますが、大差勝ちを収めたはずの【ヒサヨシ】から興奮剤(アルコール)が検出され失格処分となったのです。東大が考案した検査法そのものの信憑性を疑い、競馬会(+軍部)に対し武田文吾氏らホースマンたちが真っ向から対立することに発展しました。

戦後最後の開催となった第6回(1943年)は、戦争の激化等によって京都競馬場での代替開催となり、この年から初めて「2400m」での開催となりました。このレースで桜花賞馬・ミスセフトに10馬身もの大差をつけたのが、いわずと知れた戦中の名牝【クリフジ】でした。

昭和20年代:東京開催、そして春開催へ

1944・1945年と開催されなかった「オークス」、そして中央競馬。終戦から1年経った昭和21年の秋から正式に開催が認可されることとなります。戦後初回の大きな変化は関東(東京)開催となったことです。なぜ唐突に関東での開催に変わったのかと思えば、

  • 昭和21年秋に開催できたのは、関東は東京、関西は京都の2会場。
  • 戦前の慣例では、「菊花賞」も「オークス」も関西で開催してきたが、そうすると、「帝室御賞典(秋)」を開催できない中、関東にビッグレースがなくなってしまう。
  • 関東(東京)に「オークス」を移す事で、東西でクラシックレースを分け合うという形を取り、ここでもバランスを取ったのではないか。

と想像できます。これが結果的に、現在の東京2400m戦につながっていくのだから不思議なものです。

戦後初(第7回)は、3戦中2戦が大差勝ちだった【ミツマサ】が8馬身差の完勝。続く第8回(昭和22年)は、皐月賞を牝馬で初めて優勝し、日本ダービーもアタマ差2着だった【トキツカゼ】が大差での勝利を収めて変則2冠を達成。後に顕彰馬となっています。

秋開催の最後となった昭和27年は、史上初の牝馬2冠馬となる【スウヰイスー】が、タカハタやクインナルビーといった強豪を相手に3/4馬身差で勝利しています。

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昭和28年、やや唐突に、これまで「秋」開催だったところから、「東京優駿(日本ダービー)」の直前に開催されることとなります。ダービーと同じ「東京2400m」戦という条件に戦後をかけて慣れてきた中での大幅な開催時期の変更は混乱を招いたのではないかと感じます。

昭和29・30年に限っては、ダービーの前日(土曜日)に開催されていたこともあり、流石に2日続けての出走を目論むことは物理的に不可能でしたが、それ以外は基本的に1週間前の日曜日に開催される事となり、当時としてもキツいレース間隔ではあったものの「連闘でダービー挑戦」が可能なレース日程となっていました。

春開催に変わったばかりの頃のオークス
  • 1953年
    ジツホマレ

    母は第五バツカナムビユーチー(ビューチフルドリーマー一族)、父は戦前のダービー馬のミナミホマレという血統。桜花賞2着からの巻き返し。

  • 1954年
    ヤマイチ

    父・トシシロの母が【月城】(現役名・クレオパトラトマス)、母は先程も登場した【年藤】(現役名・クリフジ)という良血馬。桜花賞も制し牝馬2冠馬に。

昭和30年代:ダービーへの連闘は無謀という風潮に

昭和31年になると再び「ダービーの前週」開催となり、理論上可能となったことで「オークス」からの連闘での「ダービー」に果敢挑戦する牝馬が登場してきます。

第17回(昭和31年)には、オークス馬【フエアマンナ】が6着、14戦して4着以下なしだった【トサモアー】が完走最下位に沈むなど1桁人気に応えることはできませんでした。

そして第18回(昭和32年)には、デアリングタクトの前に史上初の「無敗での牝馬2冠」を達成した【ミスオンワード】がおり、日本ダービー参戦が大きく注目されました。

本番のオークスも他馬を寄せ付けず快勝し、デビューから無傷の8連勝を飾った。無敗での桜花賞・オークスの牝馬二冠達成は史上初となる。

この強さにファンのみならず競馬関係者の間にも「ダービーに挑戦しては」という機運が高まり、オーナーの樫山も調教師である武田に意見を求めた。これに対して武田は難色を示したが、結局世論に押し切られる形で、オークスから連闘でのダービー出走が決まった。

太平洋戦争以前の活躍馬であるクレオパトラトマス以来の無敗牝馬の出走に、レース当日は牡馬の一線級に混じっての3番人気に支持されたが、レコードタイムで優勝したヒカルメイジの17着に敗れる。しかしこの挑戦にファンは惜しみない拍手を送った。

ミスオンワード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『惜しみない拍手を送った』という美談になっていますが、8戦全勝の牝馬2冠馬【ミスオンワード】ですら大敗を喫したという現実から、翌年の【ホウシユウクイン】を除くと牝馬のダービー挑戦(特に連闘)は激減します。

  • 1960年:スターロツチ
    桜花賞3着から9番人気でオークスを制覇。年末には有馬記念を同じく9番人気で制し、史上初の現3歳牝馬によるグランプリ制覇に。
  • 1961年:チトセホープ
    桜花賞2着からオークスでは1番人気に応えて3馬身半差の快勝。翌週の日本ダービーにも2番人気で出走し、大健闘の3着。
  • 1964年:カネケヤキ
    桜花賞からの3連勝で牝馬2冠を達成。秋・菊花賞ではシンザンと牡牝2冠馬の直接対決。逃げを打つも失速し5着。戦後初の牝馬3冠とはならず。

昭和40年代:1番人気1勝のみ、嶋田功騎手3連覇

昭和40年代に入ると、芝2400mという距離だったり、3度「不良」馬場での開催となったこともあってか、1965~74年の10年間で1番人気は【ヤマピット】の1勝のみとなります。

しかも、上位総崩れという年も目立つようになります。特に印象的だった具体例を挙げますと、

  • 第31回(1970年)
    1着:12番人気・ジュピック
    2着:10番人気・ケイサンタ
    3着:3番人気・プリーズターフ
    単勝2,310円、枠連8,210円(4-4)
  • 第32回(1971年)
    1着:10番人気・カネヒムロ
    2着:6番人気・サニーワールド
    3着:5番人気・バンブーキヤツチヤ
    単勝1,780円、枠連2,910円
  • 第35回(1974年)
    1着:9番人気・トウコウエルザ
    2着:15番人気・スピードシンザン
    3着:11番人気・メジロフクシマ
    単勝1,440円、枠連7,850円(5-5)

1970年代からは20頭以上出走するのが当たり前となり、こうして人気薄が上位を独占する年も珍しくなくなりました。2400mが牙をむくと、時にこういったレースになることもあることは忘れてはなりません。

昭和50年代:テスコガビー8馬身差での2冠

1970年に牝馬限定戦での3冠目が創設され、いわゆる「牝馬3冠」路線が確立され、桜花賞がマイル、その他の2レースは2400m戦という構図の時代が約四半世紀続きます。そんな時代の流れを汲んでいた昭和50年代において、印象的なオークスを2つ取り上げます。

昭和50年(1975年)に、久々の大差圧勝を決めたのが【テスコガビー】です。桜花賞を『後ろからは何にも来ない』の大差勝ちをした同馬が距離不安も囁かれる中、なんと8馬身差の圧勝でした。

牝馬同士で初めての負けを喫し、距離延長と体調不良も相まって、1番人気に支持されたものの不安を抱えてのオークスに挑むことになった。単勝も2.3倍と桜花賞からは大きく落としていたが、しかし本番では何も心配はいらなかった。

菅原が軽く先頭を奪うと、レースをスローペースに持ち込み、2着のソシアルトウショウ(トウショウボーイの半姉)に8馬身差をつけて牝馬二冠を達成。この8馬身差は日本中央競馬会施行のオークス史上最大着差で、それ以前を含めても戦時中のクリフジ(10馬身)、終戦直後のトキツカゼ(大差)に次ぐ記録であった。

スポーツライターの阿部は「勝ちタイムは平凡」としながらも、「スタートから逃げて影も踏ませず、2着に8馬身差を付けた内容は、やはり時代の制約を超えた強さと言えるだろう」と評している。

テスコガビー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

グレード制が導入される直前の昭和58年、オークス史上に残る大接戦が実現します。今やエアグルーヴの母としても知られる【ダイナカール】です。

ダイナカール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

桜花賞馬シャダイソフィアが東京優駿(日本ダービー)に出走して不在となっていたこのレースでは単枠指定を受けダスゲニーに次ぐ2番人気に支持された。5頭が横一線となり、そのままゴール。長い写真判定の末、2着をハナ差抑えてダイナカールが勝利。1着から5着までの走破タイムは同じの接戦で、長い写真判定を経て、着差はハナ・アタマ・ハナ・アタマであった。これが馬主としての社台レースホースの八大競走初勝利となった。

( 同上 )

1番人気のダスゲニーが23着と大敗する中、2分30秒9で5頭が並ぶ大接戦。20番人気のタイアオバをハナ差制した【ダイナカール】の激戦は、八大競走に視野を広げても稀な僅差でした。

昭和60年代:ラモーヌ3冠、ノアノハコブネ21番人気で勝利

1986年には【メジロラモーヌ】が牝馬3冠を達成して、1987年には【マックスビューティ】が優勝。2年連続で1番人気が制しました。しかし、その前後は2桁人気の馬が勝利しています。

その中でも衝撃的なのは、大外から捉えきった【ノアノハコブネ】の激走でしょう。400万下条件戦を勝ったばかりの伏兵で、単勝人気は史上最多28頭立てとはいえ、「21番人気」というのはオークス史上最低人気での勝利です。

単勝オッズも6,270円と現代の感覚からするとそこまで高く見えないかも知れませんが、他の2桁人気のレースでも2~3千円台の単勝が多かった昭和時代においては破格のオッズでした。

1990年代:名馬が続々と制覇

優駿牝馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1990年代の勝ち馬の名前をみても、2400mを活躍するに相応しい名馬が揃っています。エピソードもドラマチックなものが多かった印象です。

500万円という安値、抽せん馬からの成り上がるというシンデレラストーリーに、靴を履かずに敗れた桜花賞から「裸足のシンデレラ」。それから靴を履いて優駿牝馬の栄冠に輝いたことから「京都で忘れた靴を東京でとりもどしたシンデレラ娘」と呼ばれた。

イソノルーブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この頃には2分30秒を着るのが当たり前になっていましたが、それでもスピードだけではなくスタミナも要求される2400m戦ということで、マイラー基調よりも中長距離路線の馬が活躍し、単なる桜花賞馬では人気を裏切ることが傾向として顕著となったのもこの辺りから如実になっていったと思います。

この時代も、1990~99年の10年間で1番人気が勝ったのは、ベガとエアグルーヴの2勝のみ。1999年にはトゥザヴィクトリーをウメノファイバーがハナ差制するなど、1番人気が案外苦戦するという傾向は2015年頃まで続きました。

2000年代:外国産馬も出走可、シーザリオ日米オークス制覇

( 同上 )

2003年に外国産馬も出走可能となったオークス。その年にはスティルインラブが21世紀初の牝馬3冠を達成しました。

そして、2004年のダイワエルシエーロ、2005年のシーザリオと、福永祐一騎手が連覇を達成すると、その【シーザリオ】は海を渡り、アメリカンオークスも制覇。Japanese Superstarのシーザリオが、日米オークスを制するという偉業を成し遂げたことも新時代を予感させる活躍でした。

2010年代:史上初の同着、3冠牝馬の圧勝など

2010年代に入ると、レースの安定感が増す結果となっていきます。その幕開けは、衝撃的な「同着」での決着となりました。サンテミリオンと、三冠牝馬を達成するアパパネです。

( 同上 )

更に、2012年には、【ジェンティルドンナ】が今から思うと不思議にも思える3番人気で出走をして、従来のレースレコードを1秒7も更新し日本ダービーにも迫る2分23秒6、5馬身差の圧勝を遂げるなど派手なレースが増えるようになりました。

母のドナブリーニが現役時代短距離を中心に活躍していた馬であること、加えてジェンティルドンナは一貫して1600メートル戦を使われており、さらにいくらか首が高い走法だったことで2400メートルという距離への不安があったほか、乗り替わり、初の長距離輸送、パドックやゲート裏での落ち着きの無さが懸念材料とされた。

レースでは前半1000mが59秒1という速い流れの中で川田が後方待機策を選択、第4コーナーでは後方から4番手という位置から一気に仕掛け、上がり3ハロン34秒2という鋭い脚で追い込み、先頭に立つと2着ヴィルシーナに5馬身差をつけ、ローブデコルテによる従来のレースレコードを1.7秒更新する2分23秒6のタイムで2冠目を獲得した。同競走においてこれに匹敵する着差は、1980年のケイキロク以来のものであった。

ヴィルシーナの鞍上内田博幸は「呆れるほどに強い」と勝ち馬を称えた。

ジェンティルドンナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2016年からは、2020年に史上初の無敗での牝馬3冠を達成する【デアリングタクト】誕生まで、5年連続で1番人気がこのレースを制しています。

これは、1941年から戦時中の休止を挟んで6回連続で1番人気が制した以来の出来事であり、戦後ではテスコガビーから3年連続が最長だったことを思うと、稀にみる安定感だったといえます。また、2014年から3番人気以内が優勝を収め続けている事も、2桁人気の馬がたまに激走してきたオークスの歴史をみると極めて平穏な時期が続いているともいえましょう。

レースR勝ち馬備考
2016114.25シンハライト
2017116.00ソウルスターリング4着ディアドラ
5着リスグラシュー
2018116.75アーモンドアイ3着ラッキーライラック
2019117.00ラヴズオンリーユー2着カレンブーケドール
3着クロノジェネシス
2020116.25デアリングタクト2着ウインマリリン
2021115.75ユーバーレーベン2着アカイトリノムスメ
8着ソダシ
2022
牝馬限定戦のアローワンス「+4ポンド」を加算して表示。実際のレーティングは表の値から「▲4ポンド」していただければと思います。GIの目安は表にあわせれば115ポンドです。

レースレーティングでみると、2017年以降は、3歳春ながら「レーティングが116前後」で推移しています。これは牝馬限定戦の4ポンドを加えた後の値となりますが、こうした調整を行うと、「皐月賞」などと近いレーティングで推移していることが明らかで、牝馬限定戦ながら牡馬に混じっても十分戦えるだけのレベル感であることが分かります。

2017年以降は、2着以下にも活躍馬が複数いることが多く、【アーモンドアイ】が勝った2018年は「116.75」であり、更に翌2019年は、当時のダービーレコードをも上回る2分22秒8というレコード決着となり、レースレーティングは「117.00」にも達しています。3歳牝馬限定戦としては世界トップクラスのレーティングを受けることも珍しくなくなっています。

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