「春2冠 → 3冠目を前に戦線離脱」した馬たちをまとめてみた【競馬の歴史を学ぶ】

【はじめに】
この記事では、春に2冠を達成するも、3冠目を故障などで断念した中央競馬の二冠馬について振り返っていきたいと思います。

二冠馬(にかんば)とは、競馬におけるクラシック競走三冠競走)のうち、2競走に優勝した競走馬のことである。

二冠馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
created by Rinker
¥1,200 (2024/12/14 05:41:05時点 楽天市場調べ-詳細)

牡馬二冠馬の3戦目を故障断念

まずは、ウィキペディアの表を加工して、菊花賞に出走が叶わなかった8頭をリストアップしました。

二冠馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

幻の馬・トキノミノルやトウカイテイオーは有名ですが、単純平均では10年に1頭ぐらいになり、直近の四半世紀ではドゥラメンテ1頭という結果となりました。個別にみていきましょう。

created by Rinker
¥2,200 (2024/12/13 07:33:28時点 楽天市場調べ-詳細)
  1. 1951年【トキノミノル
    無敗の二冠馬、破傷風により菊花賞施行前に死亡。
  2. 1952年【クリノハナ
    秋5戦目の中山記念7着の後、三冠馬を目指し菊花賞に向けての調整中、脚を傷め、出走を断念。時間を掛ければ立て直しは可能であったが、馬主の栗林は引退を選択し、これを以て競走馬を引退した。
  3. 1971年【ヒカルイマイ
    ダービーのあとは3か月の休養を取り、秋に復帰したが、緒戦を3着、菊花賞トライアルの京都新聞杯では9着に敗れる。その後は菊花賞を目標に調整されていたが、競走前に屈腱炎を発症し、長期休養に入った。
  4. 1975年【カブラヤオー
    三冠を目指して無事に夏を越したカブラヤオーであったが、9月下旬に蹄鉄を取り替える際、左脚の爪を深く切りすぎたのが原因で、屈腱炎を発症。菊花賞を断念せざるをえなくなり、ダービーで見せつけた強さを考えれば三冠は濃厚であっただけに、その戦線離脱は惜しまれた。
  5. 1981年【カツトップエース
    帰厩後は、史上3頭目の三冠達成を目指して調整が行われていたが、秋を前に屈腱炎を発症。当初は軽症と見られていたが、秋を迎えて悪化し、菊花賞の断念を余儀なくされた。その後再起を図って、温泉治療などを施されたが患部は快復せず、1982年8月に競走生活から退いた。
  6. 1991年【トウカイテイオー
    競走後には親子二代の無敗のクラシック三冠達成への期待が大きく高まった。しかしテイオーは、表彰式を終えて競馬場内の出張馬房に戻る時点で歩様に異常を来しており、診療所でレントゲン撮影が行われた。レントゲンの結果、左後脚の骨折が判明。3日後には公式に「左第3足根骨骨折・全治6か月」と発表され、年内の休養と最後の一冠・菊花賞の断念を余儀なくされた。
  7. 1997年【サニーブライアン
    しかしその後、ダービーのレース後の放牧中に骨折が判明。全治に6ヶ月ほどかかることから、サニーブライアンは菊花賞を断念せざるを得なくなり、三冠馬になる夢は潰えた。
  8. 2015年【ドゥラメンテ
    ノーザンファーム早来へ放牧されていた際に両橈骨遠位端骨折が発見された。堀調教師のコメントによればドゥラメンテの両脚の関節内へ米粒程度の軟骨片が遊離している状態であり症状としては軽度とされるも、今後について関係者間で協議して手術を行い骨片を摘出することに踏み切ったという。手術によりドゥラメンテの競走能力へ影響が及ぶ懸念は無いと堀調教師はコメントしているが、もとより手術やリハビリ期間だけでも6か月を要し、さらに復帰時期が厳寒期にさしかかるため、より慎重なリハビリメニューをドゥラメンテに施し再起を図った。

以上の8頭が「春2冠」を達成していながら菊花賞を前に故障を発生した馬達です。【トキノミノル】の非業の死は伝説となっていますが、その他の馬たちも、三冠への期待が高い中での離脱となったために大きなショックがあったことは想像にかたくありません。

一方、菊花賞への出走には漕ぎ着けたものの、三冠を達成できなかった例も古くはありました。

  • 1960年【コダマ】 菊花賞5着
    菊花賞を目標としたが、脚部の不安のため調教が順調に進まず、オープン競走に出走するもフランケルの2着と敗れ、デビュー以来の連勝を7で止めた。11月13日の菊花賞は、……コダマは1番人気に支持されたが、キタノオーザの5着と敗れ、三冠は成らなかった。
  • 1970年【タニノムーティエ】 菊花賞11着
    同年秋には史上3頭目の三冠達成への期待を掛けられるも、夏の休養中、競走能力へ大きな影響を及ばす呼吸疾患の喘鳴症を発症し、三冠最終戦・菊花賞では大敗を喫して引退した。
タニノムーティエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

特に、【タニノムーティエ】が、秋には喘鳴症が極めて重くなり、まともに走れる状態ではないものの期待ばかりが募り、菊花賞に出走するも11着と大敗。現役を引退することとなっています。

牝馬二冠馬の3戦目を故障断念

牝馬では、上記の基準で行くと、同様の展開を辿った馬はテスコガビーの1頭のみという結果でした。

二冠馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  1. 1975年【テスコガビー
    オークスから4ヶ月後の9月17日早朝、ゲート練習中に右前球節挫創で9針も縫う重傷を負った。その後は順調でビクトリアカップを目標に乗り始めた10月29日の調教中、今度は右後脚を捻挫。1年の休養を余儀なくされ、(後略)

桜花賞を大差、オークスを8馬身差で圧勝し、戦後初の「牝馬3冠」を期待されたテスコガビーも、秋に捻挫を発症し休養。【デアリングタクト】に関する話題でも私は時々話題にあげますが、牝馬2冠馬への期待が大きすぎて現役続行を余儀なくされ、その結果として「安楽死」処分となった前例があるので、どうか無事に現役を全うできることを期待して已みません。

  • 1964年【カネケヤキ】 菊花賞5着
    秋は、クイーンステークスから始動したが、脚部不安から調子を崩し、同じ4歳牝馬のフラワーウツドに4馬身差の2着と完敗。続く、セントライト記念も勝ったウメノチカラから3馬身離された3着に終わった。この後、京都に遠征。オープン戦を5着として、菊花賞に臨んだ。カネケヤキは近走の不調から、12頭立ての9番人気と言う低評価だった。……レースでは、他馬を大きく引き離しての大逃げをうつという奇策に出た。4コーナーまで粘り、レースを大きく盛り上げた。直線で失速したものの、脚部不安のなか牡馬に伍しての5着と健闘した。
  • 1993年【ベガ】 エリザベス女王杯3着
    オークスの競走終了後、厩舎に戻る時点でベガは歩様に乱れを生じた。そのまま千葉県富里町の社台ファーム千葉へ放牧に出されたが、ここで右肩に筋肉痛の症状が出たことで、ヴェルメイユ賞出走の計画は撤回された。…………その後社台ファーム早来へ移動したが、牧場の装蹄師が蹄鉄を打つ際に、人間の深爪にあたる「釘傷(ちょうしょう)」を生じさせてしまい、牝馬三冠最終戦・エリザベス女王杯への出走が危ぶまれる事態となった。
  • 2009年【ブエナビスタ】 秋華賞3着
    (札幌記念の……)敗因追及のために牧場で馬体を検査したところ、右前脚に蟻洞の発症が確認された。早期発見だったために症状が軽く、患部を除去して大事には至らず、休むことなく調教を消化した。

以上のように、秋を順調に迎えられず、出走は果たすも、牝馬三冠を達成できなかった馬もいました。

(参考)三冠馬の夏越え

しかし、「三冠」を達成した馬たちも、決して全てが順調という馬ばかりではありませんでした。

created by Rinker
¥3,980 (2024/12/14 05:41:06時点 楽天市場調べ-詳細)
  • 1964年【シンザン
    夏場の避暑のために北海道などへ移送することをせず、京都競馬場で調整することにした。しかしこの年の夏は40年ぶりの猛暑となり、シンザンは7月の下旬に重度の夏負けにかかった。
    夏負けの影響から、シンザンは10月に入るまで本格的な調教を行うことができず、武田はシンザンをレースに使いつつ鍛える方針を立てた。まずオープン競走に出走(結果は2着)したが競走後も調子は上がらず、京都杯ではバリモスニセイの2着に敗れた。
    11月に入りようやく体調は上向き、菊花賞直前の調教ではかつてない好内容の走りを見せた。しかし競馬ファンの間には体調に関する懸念が残り、菊花賞での人気はウメノチカラに次ぐ2番人気であった。
  • 1983年【ミスターシービー
    夏場を休養に充てた。放牧には出されず、美浦に留まっての休養であったが、この最中に挫石を起こしてを痛め、さらに夏の暑さと痛みのストレスから夏風邪に罹った。これを受け、秋緒戦に予定されていたセントライト記念を断念、前哨戦は関西に移動しての京都新聞杯に切り替えられた。
  • 1984年【シンボリルドルフ
    ルドルフが右前脚に故障を発症したことと検疫条件が整わなかったことが重なり、7月に海外遠征の中止が発表された。秋緒戦、故障した右肩も回復し、すっかりリフレッシュしたシンボリルドルフはセントライト記念をレコードタイムで優勝。
  • 1994年【ナリタブライアン
    北海道に滞在中、ナリタブライアンは大久保が「一時は菊花賞を回避することも考えた」と振り返るほど体調を崩し、調整に大幅な遅れが生じた。……レース(京都新聞杯)では最後の直線で一時先頭に立つも内から伸びてきたスターマンに競り負けて2着に敗れ、懸念が的中する形となった。

このように20世紀の三冠馬は、いずれも夏越えに半ば失敗していたのです。それでも前哨戦か遅くとも本番・菊花賞までに何とか立て直し、三冠の栄誉に輝いたのです。こうした蓄積・経験則などが21世紀の「三冠馬たちが夏を順調に越える」改善につながっていたのだと思います。

  • 1986年【メジロラモーヌ
    しかし夏負けのために函館入りから1週間で美浦に帰り、全身に笹針治療を施すことになった。また調教中に挫石が原因と見られる歩行異常を来たし、復帰予定は遅れた。10月に函館から直接関西に入り、疲れが残ってないか半信半疑の状態のなか、ローズステークスで復帰。レースでは先行集団に入り、直線で抜け出しを図るも、先行したポットテスコレディとの競り合いになる。ゴール寸前でクビ差交わして勝利を収めたが、苦しい勝利とも評された。

メジロラモーヌに関しても、復帰予定のレースを回避する秋緒戦だったことを思うと、春2冠後の故障が必ずしも「三冠の赤信号」とは言い切れないことも歴史が物語っています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました