「皐月賞」に挑戦した牝馬について振り返ってみた

【はじめに】
この記事では、現在の「皐月賞」に当たるレースに牝馬が出走した事例を纏めました。2024年、牝馬・レガレイラが出走するとして大きく注目されることから、今一度振り返っていこうと思います。

昭和時代:戦後直後に2頭が優勝

昭和10年代(戦前):第1回の3着は牝馬だった

イギリスを模範に日本でクラシック路線が整備されたのが1930年代のこと。牡馬三冠路線では1932年の東京優駿(日本ダービー)、1938年の菊花賞に続き、1939年に現在の「皐月賞」の前身となる競走の第1回が開催されました。

しかし、第1回が行われた1939年は、欧州で第二次世界大戦が勃発し、日本でも軍事資源保護方が施行され従来の地方競馬が廃止となるといった時代。クラシック競走の開催日程も現在とは異なりました。

  • 4月9日:中山T1800 中山4歳牝馬特別(現・桜花賞)
  • 4月29日:横浜T1850 横浜農林省賞典4歳呼馬(現・皐月賞)
  • 5月28日:東京T2400 東京優駿競走(日本ダービー)
  • 10月1日:阪神砂2700 阪神優駿牝馬(現・オークス)
  • 10月29日:京都T3000 京都農林省賞典4歳呼馬(現・菊花賞)

皐月賞は当時の天長節(現在の昭和の日)に開催されると共に、中山競馬ではなく、横浜・根岸競馬場お馴染みの1850mという(中途半端な)距離で開催されました。注目すべきは、当時あった大都市圏の5大競馬場で一つずつ分け合ってて、今は阪神で行われる桜花賞が「中山」開催だった点でしょう。
※つまり、戦後と異なり、当初は関東で牡馬・牝馬の第1冠が開催されていたのです。

今で言う2歳戦がなく、現3歳春にデビューする当時のスケジュール感では、桜花賞も皐月賞もかなり早いタイミングでの開催で、イメージ的には2歳G1ぐらいの感覚だったのかも知れません。連戦も当然ありうるスケジュールだったため、春3冠に出走する馬は多くいました。

馬名4月9日
桜花賞
4月29日
皐月賞
5月28日
東京優駿
ソールレデイ1着5着14着
ハレルヤ2着3着5着
ホシホマレ×7着15着

初回の皐月賞には3頭が出走しました。ソールレデイは桜花賞を勝ちましたが牡馬混合戦では大敗。ホシホマレは秋にオークスを勝ちますが、春は力を発揮できませんでした。そうした中であまり注目されませんが、抜群の安定感を誇っていたのが【ハレルヤ】号です。

【ハレルヤ】:伝わるデータとしては、社台牧場への持ち込み馬であり、通算成績は8戦4勝(ですから上記クラシック以外を5戦4勝)。繁殖名:カムフオーコウホートとしてステーツマンを多く付けられ、孫にラプソデーやミハルカスがいます。

戦前は、開催日程的にも最も牝馬が挑戦しやすかったと見られ、成績のみを挙げますが、

  • 第1回(1939年):8頭立て/3・5・7着
  • 第2回(1940年):7頭立て/6・7着
  • 第3回(1941年):8頭立て/6・7着
  • 第5回(1943年):7頭立て/6着 ※東京2000m開催
  • 第6回(1944年):10頭立て/9着 ※東京2000m開催

といった具合に、2回目以降は少頭数な中でも5着以内に入れず、牝馬が苦しめられました。

昭和20年代(戦後):牝馬が2連勝するも、時代は桜花賞へ

太平洋戦争を経て、1946年秋に再開され、1947年の春競馬に春のレースが再開します。1946年の暮れから現2歳戦が始まりますが、これは出走馬が少なくレースや開催を成立させるための策といった面が強かったと聞きます。

年次桜花賞皐月賞優駿牝馬東京優駿
1947年05/04
京都1600
05/11
東京2000
10/19
東京2400
06/08
東京2400
1948年05/09
京都1600
05/16
東京2000
11/14
東京2400
06/06
東京2400
1949年05/01
阪神1600
05/03
中山1950
11/13
東京2400
06/05
東京2400
1950年05/03
阪神1600
05/05
中山2000
11/19
東京2400
06/11
東京2400
1951年04/2205/1311/1806/03
1952年04/1304/2710/0505/25
1953年04/1904/2605/1705/24
1954年04/3004/1805/2205/23

※レース名は「農林省賞典」 → 1949年から「皐月賞」に改名

1940年代をみると、優駿牝馬が「秋」に開催されて牝馬三冠は実質「桜花賞→ダービー→オークス」となっていたほか、1947・48年は桜花賞が京都、皐月賞が東京開催でした。開催場が今と同じになったのは1949年であり、オークスがダービー前に開催されるようになったのは50年代になってからです。

ちなみによく知られた話しですが、「皐月賞」が農林省賞典からこの名前に改名されたのは1949年のこと。中山開催に移るタイミングに合わせてのものでした。
戦後始まって5回はちゃんと5月に開催していたのですが、1952年からは原則4月開催となってしまいましたが、レース名は変えずそのまま現代に至っています。

閑話休題。桜花賞が関西で開催されていたものの、戦後の状況を考えるとダービーまで半月あまりしかないタイミングで関東の牝馬が関西に遠征することは現実的ではありませんでした。関西の牝馬は桜花賞に出走するのに対し、関東の牝馬は牡馬混合ながら皐月賞しか実質的に選択肢がなかったのです。

  • 第7回(1947年):14頭立て/1着
  • 第8回(1948年):7頭立て/・4・5着 ※ミハルオー3着に敗れる
  • 第9回(1949年):11頭立て/5・9着
  • 第10回(1950年):10頭立て/6着
  • 第12回(1952年):14頭立て/・6・14着
  • 第13回(1953年):17頭立て/6着

牡馬相手重賞していたチエリオが皐月賞に1番人気で出走して6着だった1953年から、オークスが春の開催となり、この年をもって牝馬は「桜花賞 → 優駿牝馬」という春二冠を目指すことが一般的となります。反対にそれまでは、毎年のように牝馬が出走し、2勝2着1回という抜群の成績を残していたのです。入着を果たした馬を中心に見ていきます。

第7回(1947年)優勝:トキツカゼ(JRA顕彰馬)

現代でも「JRA顕彰馬」としてその名が残る【トキツカゼ】は、戦後初の「皐月賞」を牝馬として初めて制したことでも記録に残っています。

トキツカゼ1944年3月10日 – 1966年6月19日)は日本競走馬繁殖牝馬1940年代後半に活躍した牝馬皐月賞優駿牝馬の優勝馬。戦後期の日本競馬を代表する名牝で1984年顕彰馬に選出された。

トキツカゼ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

デビュー戦は2着だったもののそこかれ連勝を重ねて牡馬を相手に1番人気で迎えた「皐月賞」では、後にダービーで惜敗をする牡馬・マツミドリに6馬身差の圧勝をつけ、『牝馬の年』を印象づける牡馬相手の激走を見せました。

第8回(1948年)優勝:ヒデヒカリ(最後の牝馬優勝)

対して【ヒデヒカリ】に関しては、JRA顕彰馬どころか「ウィキペディア」に記事がないほどの存在感しかなく、正直、現代にあっては「ヒデヒカリ以来○○年ぶりの皐月賞牝馬制覇なるか」といった文脈でしか取り上げられない存在となっています。

【ヒデヒカリ】:母は初代オークス馬であるアステリモア(その兄にダービー馬・フレーモアがいる血統)で、母娘でのクラシック制覇となった。

現2歳時は5戦2勝、3歳になってもB級を2勝しただけでA級では惜敗が続いていたため、「皐月賞」では7頭立てのブービー6番人気。

しかし、レースになると牝馬・ヤシマヒメや、7連勝中で後にダービー馬となるミハルオーを相手に混戦を制して優勝。秋にはオークス2着となるなど変則2冠一歩手前の活躍だった。

現4歳時には特ハンでレコード勝ちを収め、その年の年末に行われた中山記念(秋)T3200を優勝、目黒記念(秋)で2着となるなど牡馬を相手に戦い続ける骨っぽい存在だったことが伝わっています。

第9回(1949年)5着:シラオキ

その翌年は牝馬の優勝こそなかったものの、フロリースカツプからスペシャルウィークウオッカなどにつながる「シラオキ」が出走して5着となっていたことも注目に値します。

シラオキは、11頭立ての10番人気でしたが後に顕彰馬となるトサミドリに4馬身ほどでの5着、そして日本ダービーでは23頭立ての12番人気でしたが19番人気のタチカゼに半馬身差まで詰め寄っての2着となり、大波乱を演出しました。

シラオキの直の産駒では、コダマが1960年、シンツバメが1961年に皐月賞を2年連続で制するなど、20世紀の後半から21世紀にかけての競馬史に繋がっていたこともドラマです。

第12回(1952年)2着:タカハタ

最後に好走したのは、1952年(第12回)の【タカハタ】です。オークスが秋開催だった最後の年であると共に、実は優勝馬が2年連続で出た時期が東京開催だったことを考えると、中山開催の「皐月賞」での最先着はこのタカハタの2着ということになります。

(参考)クリノハナ
クリフジなどを所有した栗林友二生産所有馬。3歳時に関東の名門・尾形藤吉厩舎に入ったが、競走馬としてのデビューは遅く、初戦は4歳に入っての1952年3月であった。ここを2番人気で優勝すると、以後1ヶ月余りのうちに3連勝、4月27日には早くも皐月賞に出走した。ここでは4番人気に支持され、レースでは後方待機策から最後の直線で追い込み、同厩舎に所属する牝馬・タカハタとの競り合いをクビ差制して優勝。重賞初制覇をクラシックで果たした。

クリノハナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平成・令和時代:38年ぶり・23年ぶりの挑戦、そして

前述のとおり、牡馬相手に重賞2勝していた関東馬・チエリオが6着と敗れた1953年からオークスが春の東京開催となり、昭和30年代に入ると、オークス → ダービーと連戦する馬は皆無となります。結果として、牝馬は「桜花賞 → オークス」という春二冠を目標とする路線が確立され、牝馬が「皐月賞」に挑戦をすることは全くなくなります。

1953年の次の例はというと調べた限り、昭和後半は1例もなく、1991年(平成3年)まで飛びます。

第51回(1991年)5着:ダンスダンスダンス

トウカイテイオーが優勝し、16番人気のシャコーグレイドが2着となった「皐月賞」。18頭立ての中で果敢牝馬として挑戦したのが【ダンスダンスダンス】号です。

勝ち鞍としては新馬戦・500万下のくすのき賞の2勝ながら、クイーンCとフラワーCで複勝圏内に入ったほか、中山競馬場で3戦して連対率100%だったことから皐月賞に挑み、16番人気という低評価ながら5着と掲示板入りを果たします。テレビ・ラジオの実況では直線の攻防の中でもダンスダンスダンスの名が呼ばれ、当時を知る方には印象深いかと思います。

何より、中山で比較的期待を持たれる馬であったり重賞・オープン好走を果たす馬であったとはいえ、実に40年弱ぶりの牝馬の挑戦によって牡馬を相手に一定の結果を残したことは大きな衝撃でした。日本ダービーへの牝馬挑戦がウオッカまでなかなか実を結ばなかったこととは対照的です。

第74回(2014年)11着:バウンスシャッセ

しかしそこからまた23年のスパンが空いてしまいます。この間にウオッカが日本ダービー制覇を果たしているのですが、皐月賞への挑戦は2014年のバウンスシャッセまで待たなければなりませんでした。

父は有馬記念でレコードを叩き出したゼンノロブロイ。3歳になって500万下、フラワーCと中山競馬場で連勝し、21世紀では初となる牝馬による皐月賞挑戦が実現します。

イスラボニータ、トゥザワールド、ウインフルブルーム、ワンアンドオンリー、ステファノス、アジアエクスプレスといった面々が上位を占め、やはり牡馬を相手に好走は叶わず着順としては11着同着に終わりますが、17着のタガノグランパまで勝ち馬から1.7秒という混戦。
バウンスシャッセは勝ち馬から0.7秒差だったことを思うと、この11着というのも数字ほどの大敗ではなかったことが窺えます

それに、皐月賞11着を経て迎えたオークスでは牝馬の中で力を発揮し、ヌーヴォレコルト、ハープスターとクビ・クビでの3着となったほか、古馬になってから中山牝馬Sなど重賞2勝するなど、その実力を示したことに、この皐月賞が活きたのかも知れません。

第77回(2017年)7着:ファンディーナ(1番人気)

バウンスシャッセから3年後、平成3例目が最後の事例となります:【ファンディーナ】です。

デビュー以来3連勝、しかもいずれも1倍台の1番人気。フラワーCを制して3戦3勝で迎えたのが「皐月賞」でした。単なる3連勝ではなく、新馬戦は9馬身差、フラワーCも5馬身差という圧勝だったことから人気が集中。2番人気のスワーヴリチャードが7.0倍だったのに対し、ファンディーナの単勝オッズは2.4倍と断然の1番人気に支持されることとなりました。

桜花賞は中2週となるため回避し中3週で牡馬相手の皐月賞(GI)に出走することが決まった。
皐月賞へのクラシック登録がなかったため、追加登録料200万円を払っての出走となったが、ヒデヒカリ以来69年ぶりの牝馬による皐月賞制覇が期待され、単勝2.4倍の1番人気に支持された。しかし直線で失速し7着に敗れた。

ファンディーナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

4角から直線半ばまでは実況も盛り上げ、雰囲気よく快走していましたが、上述のとおり結果は7着。素質は評価されながらも順調にレースで力を発揮することが夏以降できなくなり、3連勝 → 4連敗で現役を退くこととなりました。

ファンディーナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

年次馬名戦績前 走
1991年ダンスダンスダンス5戦2勝フラワーC 2着
2014年バウンスシャッセ5戦3勝フラワーC 1着
2017年ファンディーナ3戦3勝フラワーC 1着
2024年レガレイラ3戦2勝ホープフルS 1着

第84回(2024年)?着:レガレイラ

To Be Continued…

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