競馬歳時記【6月1週】「安田記念」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返る「競馬歳時記」。今回は「安田記念」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

競走名の「安田」は明治大正昭和にわたって競馬に携わり、競馬法制定や東京優駿(日本ダービー)の創設などに尽力、日本中央競馬会の初代理事長も務めた安田伊左衛門に由来。東京競馬場には、安田の功績を称え胸像が建立されている。

安田記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

戦前の日本競馬の歴史 = 「安田伊左衛門」氏 奔走の歴史

日本競馬をみてもそこまで多くない「人名+記念」というネーミングの重賞競走。馬名を冠したレースが増えつつあるのは、馬を主役として考えた時に分かりますが、敢えて「人名」を冠して記念するほどの人物。「安田伊左衛門」とはどんな方なのかから簡単にご紹介していきます。

安田 伊左衛門(やすだ いざえもん、安田 伊左衞門、1872年8月31日明治5年7月28日[1]) – 1958年昭和33年)5月18日)は、日本の陸軍軍人政治家。軍人としての最終階級は陸軍騎兵大尉衆議院議員ののち貴族院議員。他に日本競馬会理事長、日本中央競馬会理事長を務める。位階勲等正五位勲三等旭日中綬章

安田伊左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

明治初頭から昭和の中頃まで、この時代としては長寿な86歳まで天寿を全うされた安田さん。読めば、戦前の大エリートなキャリアだったことが分かります。だからといって、軍部時代の権威やキャリアをひけらかして創設されたレースでなく、日本競馬界に与えた影響の大きさを記念した物だったのです。

  • 1872年(明治5年)7月28日 – 岐阜県海津郡東江村(現海津市)に生まれる。2歳のころから馬を見て育ち、9歳で乗馬をはじめた。14歳のときに桑名の祭礼競馬で落馬し腕と足に大怪我をする。
  • 1893年(明治26年) – 帝国大学農科大学卒業。在学中の講師は酒匂常明(後の農商務局長)。大学時代から陸軍乗馬学校に通っていた。卒業して実家に帰ったときの土産は馬3頭。
  • 1893年(明治26年) – 陸軍騎兵第三連隊に志願。師団長桂太郎中将と知己になる。
  • 1905年(明治38年) – 中央馬廠戸山厩舎長に任命。上司は大蔵平三陸軍中将軍馬補充部長)。
  • 1905年(明治38年) – 大蔵平三陸軍中将より東京競馬会設立に加わるよう依頼を受ける。
  • 1906年(明治39年) – 社団法人東京競馬会設立。理事に就任。
  • 1910年(明治43年) – 東京競馬倶楽部設立。理事に就任。
  • 1912年(明治45年) – 衆議院議員に当選。
  • 1913年(大正2年) – 東京競馬倶楽部副会長に就任。
  • 1914年(大正3年) – 病のため東京競馬倶楽部理事を辞任。
  • 1915年(大正4年) – 衆議院議員に当選。競馬法案成立に尽力
  • 1915年(大正4年) – 東京競馬倶楽部常務理事に就任。
  • 1921年(大正10年) – 社団法人帝国競馬協会設立。理事長に就任。
  • 1926年(大正15年) – 東京競馬倶楽部会長兼常務理事に就任。帝国競馬協会理事長辞任。
  • 1930年(昭和5年) – 東京競馬倶楽部名誉会長に推薦。

明治時代:馬券発売廃止と「連合二哩」創設

明治の前半、幼少期から馬と触れ合い、祭礼競馬で騎乗するなどの経験があった安田氏は、帝国大学を卒業して陸軍に入り、後の総理大臣・桂太郎を知り合います。

ターニングポイントとなるのが1904~05年の「日露戦争」での日本軍馬の苦い経験で、上記の年表と下の記事を併せて考えれば、明治終盤の課題と流れがお分かり頂けるかと思います。

明治後期に盛んになった競馬には「軍馬改良」という大義名分があった。1899年(明治32年)の北清事変で日本馬が西洋列強のウマに著しく劣ることが明らかになり、1894年(明治27年)の日清戦争、1904年(明治37年)の日露戦争でもそれが改善されていないことが問題となった。そのため1906年(明治39年)に明治天皇勅令を発し、内閣馬政局を設けて馬産を推進することになった。

この1906年(明治39年)の秋に東京競馬会が東京競馬場(池上競馬場)で開催した競馬が大成功すると、すぐに日本各地に同様の競馬倶楽部が「雨後の筍のごとく」乱立し、その数は200箇所以上にのぼった。これらの中には運営に不正や不手際があったり営利主義に走るものが多く、あちこちで不正競馬に起因する騒動が起きて世間を騒がせることになった。

優勝内国産馬連合競走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

こうした中で、1908年には「馬券発売」が禁止される運びとなってしまいます。競馬場バブルからのバブル崩壊による不況といった流れです。

そもそも当時の法令では馬券の発売を許す根拠は無かった。馬券を最初に発売したのは幕末から外国人が治外法権下で行っていた横浜競馬場だが、明治政府は長い間、これを事実上黙認してきた。1906年(明治39年)に始まった各地の競馬も同様に「政府は馬券の発売を黙認する(黙許競馬)」ことで成り立っていた。国会でもしばしば馬券は違法であると指摘する議員がいたが、軍馬育成の大義名分の前に黙殺されてきた。

1908年(明治41年)、社会の風潮が馬券の取り締まりに向かう中で、当時の第1次西園寺内閣から黙許を得て競馬が行われたのだが、7月に内閣が総辞職し、第2次桂内閣に変わった。

この時入閣した岡部長職司法大臣は馬券反対派で、兵庫県で開催中の鳴尾競馬場へ官憲を派遣して馬券販売係を逮捕させた。ちょうどこの秋に実施される刑法大改定に合わせて、岡部司法大臣は競馬に対して強硬策をとり、陸軍を押し切って馬券の非合法として禁止することに成功した。軍や競馬界を背景にもつ議員には、馬券禁止は政府の不法行為だと論陣を敷いたものもあり、1909年(明治42年)には馬券を合法とする法案が衆議院で可決されたが、貴族院の特別委員会で廃案とされてしまった。この後、馬券が許可になるまでは長い年月がかかることになった。

( 同上 )

ここらへんの経緯は「天皇賞(春)」の前身でも触れていて、再掲となりますが、今回は「安田」氏という存在に注目してみていくことにしましょう。

馬券の発売が禁止されるとすぐに、各地の競馬倶楽部は開催中止を余儀なくされ、次々と経営難に陥った。……馬券がなければ賞金が出ず、賞金がでなければ馬主は出走させないし出走できる見込みがなければ馬が売れないので、各地の馬産地は深刻な不況に見舞われることになった。実際にこの時代には競走への出走する頭数が激減し、日本全体で1レースの平均出走頭数が2頭以下となった。つまり、ほとんどの競走では1頭しか馬が出走しないということになる。

競馬開催の大義名分が軍馬改良であったのに1頭だけでの競走(単走)では馬の選別改良が進まないため、軍部を後ろ盾とする馬政局は競馬に補助金を出すことになった。この補助金で1911年(明治44年)秋に創設されたのが優勝内国産馬連合競走である。

東京競馬場(目黒競馬場で新たに創設された特殊競走「優勝内国産馬連合競走」は1着賞金3000円、2着1500円、3着500円で、当時の日本の競馬の最高賞金の大賞だった。

( 同上 )

ここにある「馬政局からの補助金」であるとか「東京競馬場」であったこと等は決してこの時代の偶然ではなく、【安田伊左衛門】氏の存在が大きかったのです。下手をすれば、明治末期の「出走頭1頭」だけの“日本競馬”の時代が大正時代まで続いていたら、恐らく日本競馬は瓦解していたでしょう。

戦前の日本競馬の最大級の危機を、安田氏が救った1度目です。

大正時代:議員として馬券合法化に尽力

軍族から衆議院議員に明治45年に転身すると、大きな政治活動の一貫として「馬券販売合法化」による日本競馬の再興を目指す【競馬界の味方】となります(議員転身前からそうでしたが。)

1906年に開始された公認競馬には当初法的根拠がなく、「馬券に関する内閣決議書」という農商務陸軍内務司法の4大臣による合議書によって正当化されていた。そのため馬券の射幸性に対して批判的な風潮が強まると政府は1908年10月6日刑法(明治40年法律第45号)を根拠として馬券禁止の通牒を競馬主催者に発した。

しかしこれは良質な軍馬生産という観点で大きな支障を発生させる事となり第一次世界大戦後、軍隊の機動性向上の観点から軍馬生産を重視した陸軍は馬産奨励のため競馬に着目した。陸軍は競馬開催に法的根拠を与えるための法案制定を強力に後押しし1923年4月10日、旧競馬法が成立し同年7月1日に施行された。このとき馬券の発売も条件付きながら合法化された。

競馬法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウィキペディアには「陸軍は……着目した」とありますが、元陸軍族の安田氏は一貫して競馬に注目し続けてきました。「連合二哩」を各地で開催させたりといった振興も行いつつ、ついに「馬券発売」を認めた『新(現在では旧)競馬法』を1923年(大正12年)に成立させます。

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時代は、第一次世界大戦後の活況 → 不況を遂げ、「大正デモクラシー」の名残があった時期……というか、この1923年7月から新競馬法が施行された訳ですが、その僅か2か月後(1923年9月1日)に「関東大震災」が起き、帝都・東京は壊滅的な被害を受けることとなります。

昭和時代:ダービー&クラシック、倶楽部統合&日本競馬会を創設

大正時代には、各地の帝室御賞典と連合二哩が二大競走というレースカレンダーでした。各地に競馬倶楽部が点在している様は、今の地方競馬に近かったかも知れません。

それが終戦前の昭和前半には、連合二哩が「帝室御賞典(3200m)」に統合されるようにして最高栄誉となっていき、現3歳馬クラシック5大競走と共に日本競馬の柱となっていました。各地の競馬倶楽部を統合して中央組織「日本競馬会」が統括していて、今の日本中央競馬会(JRA)の前身です。

以上の大改革を先導して成し遂げたのが、何を隠そう「安田伊左衛門」理事長だったのです。再びウィキペディアを引用していきます。

  • 1927年(昭和2年) – 帝国競馬協会理事長に再選も後に辞任。同顧問に就任。東京競馬倶楽部会長辞任。同相談役に就任。
  • 1928年(昭和3年) – 東京競馬倶楽部名誉会員に推薦。競馬の功労に対し日本レースクラブより銀杯、帝国競馬協会より胸像が贈られる。
  • 1930年(昭和5年) – 東京競馬倶楽部名誉会長に推薦。
  • 1931年(昭和6年) – 帝国馬匹協会顧問に就任。
  • 1932年(昭和7年) – 東京優駿大競走(日本ダービー)を創設。
  • 1936年(昭和11年) – 日本競馬会設立に伴い、設立委員、副理事長に就任。
  • 1938年(昭和13年) – 日本競馬会理事長に就任。
  • 1943年(昭和18年) – 日本競馬会理事長に再選。

1936年競馬倶楽部統合、日本競馬会創設に関与。同会初代理事長松平頼寿の退任を受け、第2代理事長を勤めた。

在任中は、日本競馬のレベルアップを図るべくさまざまな改革に着手。イギリスを範としてレースの体系を整備し、日本ダービー(東京優駿大競走)をはじめとするクラシックレース五大競走の原形を作った。

安田伊左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

先週、我々が「日本ダービー」で馬券を買って一喜一憂しているのも、「皐月賞」組がやはり強いなどと言えるのも、その前の週の「オークス」の勝ち馬がダービーに出ていたらどうだろうと妄想したりできるのも、そもそも「安田伊左衛門」氏が昭和の初頭に行った大改革の恩恵に違いないのです。

日本競馬会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

皆さん、仮に、今の日本競馬を更に発展させるために、今のGI路線をゼロベースで組み替え直すとした時に……もちろん一競馬ファンの妄想でならいくらでも書けますが、各所への調整や法整備、財源など諸々を責任ある立場で主導していくことを考えたら悍ましくないでしょうか?(苦笑)

それを断行した安田伊左衛門氏は、戦前の日本競馬を「瓦解」させず戦後につなぎ続けた最大の功労者だったと言って間違いないのです。

敗戦後、日本競馬会では直ちに競馬の復活を目指して活動を開始し1946年10月17日に戦後初の主催競馬が再開されたが出走頭数は揃わなかった。それでも残された馬資源を整備してゆき、1947年には戦後初の東京優駿競走を開催する事が出来た。

しかしGHQ経済科学局公正取引課によって私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)に抵触すると判断された為、1948年6月、日本競馬会の解散が決定し同年9月7日、新たな競馬法(同年7月13日公布)の施行とともに日本の競馬は国営競馬、更に日本中央競馬会(JRA)へと移行した。

日本競馬会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中央競馬が、今と違って、厳密に国営だった時代が昭和20年代にありました。

国営競馬の開催時期は、他の公営競技が各地で開催されはじめた時期とも重なる。特に1948年に始まった競輪は大きな人気を獲得しつつあった。一方で戦争による馬資源の枯渇の影響はなお大きく、競走馬の確保に苦慮していた。

またこのころ、競馬の控除率が他の公営競技と比較して高かったことからファンの足はおのずと競馬場以外の公営競技へ向き競馬場の入場者・売り上げともに大きく減少した。そのため、地方競馬競馬場では競馬の開催を取り止め、競輪場に改装する所も出てきた。

危機感を抱いた農林省競馬部では、競馬の控除率を競輪並みに引き下げるよう交渉した結果、引き下げ自体は実現したものの、売り上げの回復は、鳴尾事件を始めとする騒乱事件により、競輪の開催が自粛されるまで待たなくてはならなかった。

1950年になると競馬の売り上げも上昇に転じたが国が興業的色彩の濃い競馬を主催する事による異論や批判が出始め、速やかに民間団体に運営を引き継ぐべきとの声が高まった。これを受けて政府では1954年に「日本中央競馬会法案」を国会に提出、5月2日に可決成立して7月1日に公布の運びとなった。

国営競馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和29年に「日本中央競馬会」が発足して、そこで傘寿を過ぎていた安田伊左衛門氏が初代理事長に就任するのです。

さて、話しが長くなりましたが、この「国営競馬」時代の1951年(昭和26年)に発足したのが、現在の安田記念の前身となる「安田賞」です。それではここから「安田記念」の歴史パートに移ります。

昭和中期:古馬唯一のマイル重賞として創設

1951年に安田の業績を称え、日本競馬史上初の古馬マイル重賞「安田賞」が誕生。1958年に安田が死去した後、同レースは安田記念と改称され、現在は春季の芝マイル部門チャンピオンホース決定戦として開催されている。なお、2022年は安田の生誕150年にあたることから、『安田伊左衛門生誕150周年記念』の副題を付して開催。

安田伊左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「安田賞」として創設された1951年当時、古馬が出走できる重賞はほぼ2400m付近に集中していました。2歳戦は短距離戦だったのですが、3歳馬の重賞はほぼ5大競走と日本競馬会時代に創設された馬名を冠した重賞ばかり。マイルでの重賞は「桜花賞」しかないという時代感だったのです。

そこで、初の古馬マイル重賞として創設されたのが「安田賞」でした。当時としては画期的だったかと思います。近年では「スプリンターズS」や「フェブラリーS」がGIに昇格するのと似ているかも?

第1回の段階で、東京競馬場の芝マイル、そして初夏(初回は1951年7月上旬)に開催されていて、ハンデ戦ではあったものの、ほぼ現在の「安田記念」と同じ条件で開催されてきたことが分かります。

初回の勝ち馬は古馬を含め他の馬を7kgものハンデ差がある中、3馬身差のレコード勝ちを収めます。
デビュー以来15戦連続連対、5度の敗戦も2着であった【イツセイ】(3歳夏に64kg)です。

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その5度の敗戦はいずれも幻の馬こと【トキノミノル】で、トキノミノル以外には負けたことがないという(本来【イツセイ】も凄い馬)強豪でした。ライバルが破傷風で帰らぬ馬となった翌月のレースで弔いの重賞勝利を挙げる格好となった訳です。

安田記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第2・3回は牝馬2冠馬の【スウヰイスー】、そして第7回あたりからは皐月賞馬が勝っています。1962年に1800mから再びマイルに短縮されると、約60年間マイル重賞として君臨し続けています。

一方で、ハンデ重賞だったということもあり、また今でもそうですが、東京マイルでの適性が重視されることもあってか、1番人気が勝てないことが多く、1960年代までの19回で1番人気は3勝しかしていませんでした。

昭和後半:マイルGIに昇格

中央競馬初の「マイル重賞」は、1984年のグレード制導入に合わせ、古馬「マイルGI」に昇格します。今でこそ「安田記念」がGIであることに疑う余地はありませんが、当時の春競馬には、「スプリンターズS」、「読売マイラーズC」や「京王杯スプリングH」、「スワンS」などの短距離~マイル重賞が複数あって、それらのどれがGIとなっていてもおかしくない状況だったかと思います。

1970年までは1桁頭数なことも多かったですが、1972年以降は2桁頭数の時期が続き、サクライワイニッポーキング など、短距離重賞路線が充実する前のスプリンター・マイラーが勝っていました。

( 同上 )

GI昇格に伴い「定量」戦となると、一気に「紛れ」の要素がなくなり、極めて固い結果となりました。

1990年代:オグリの32秒台と国際化の波

( 同上 )

1980年代中盤までは「1分35秒」台決着が多く、1988~89年にようやく1分34秒台が続いた時代。1990年の第40回は、【オグリキャップ】が「1分32秒4」という破格のタイムで駆け抜け、怪物ぶりをマイルCS以来半年ぶりの勝利で収める結果となりました。

その後も、ダイイチルビーヤマニンゼファーの連覇 → ノースフライト と、マイル路線の充実ぶりを表すように名馬が名を連ねます。そしてこの90年代中盤に「春の短距離~マイル路線」で国際化の波が押し寄せます。

1993年はアメリカの【ロータスプール】が5着、94年はイギリスの【ドルフィンストリート】が3着となり、そして1995年、UAE【ハートレイク】がサクラチトセオーをハナ差退け、海外勢初の安田記念制覇を果たしています。

そしてトロットサンダーが勝った1996年からは、6月上旬の開催に戻り、ほぼ現在の条件となります。

2000年代:香港馬が2勝、ウオッカが連覇

( 同上 )

2000年代に入ると、1分32秒台決着が当たり前となります。また、2000年には【フェアリーキングプローン】が、2006年に【ブリッシュラック】が安田記念を制するなど香港馬が2勝したのも特徴です。

そして、東京競馬場での桁違いの強さを見せたのが【ウオッカ】です。比較すべきかは微妙ですけど、第2・3回の【スウヰイスー】以来となる牝馬による連覇は、まさに離れ業といえるでしょう。

2010年代:世界的名馬が次々と優勝

2000年代に入って「ヴィクトリアマイル」が創設されると、ウオッカのような例外を除いて、基本的に牡馬が優勝するレースとなりました。下に令和時代までの勝ち馬を並べています。

( 同上 )
  • 2013年:ロードカナロア
  • 2014年:ジャスタウェイ
  • 2015年:モーリス

ここらへんはマイル界の日本総大将といった存在ですが、安田記念での着差は僅差で、層の厚さというか一流馬でも勝つのが容易ではないことを再認識させられます。

レースR勝ち馬備考
2016119.25ロゴタイプ2着:モーリス
2017116.75サトノアラジン
2018117.50モズアスコット3着:スワーヴリチャード
2019120.00インディチャンプ3着:アーモンドアイ
2020123.25グランアレグリア2着:アーモンドアイ
2021119.75ダノンキングリー2着:グランアレグリア
2022

「安田記念」は、中長距離に比べてレーティングが苦戦している短距離~マイル路線において、堂々とレーティング平均が120に近いレースであり、特に2020年には「123.25(牝馬の4ポンド調整後)」という極めてハイレートを獲得したレースでもあります。

(出典)The LONGINES World’s Top 100 Group/Grade 1 Races for 3yos and upwards – 2020

アーモンドアイの存在によって、世界のベスト10のうち4レースが日本のGIとなった2020年ですが、「M(マイル)」路線ではフランスの【ジャック・ル・マロワ賞】と並んで世界最高レーティングタイを獲得しています。123.25ポンドというのは世界的な値である事をこの「競馬歳時記」をご覧の皆さんであればご理解いただけるかと思います。

その一方でここ最近、圧倒的1番人気が惜敗することも増えてきています。備考に書いたとおりです。皆さんは今年の1番人気の取捨選択をどうしますか? 「安田伊左衛門」によって明治時代から途絶えず続く競馬、そして「人気」を語れるのも馬券発売が合法化されたるが故。ぜひこのことを記憶の片隅に置いて、安田氏の生誕150年を迎えた令和の時代の「安田記念」をお楽しみ下さいね!

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