【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「京都大賞典」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。
昭和時代
1960年代:「ハリウッドターフクラブ賞」として創設
「ハリウッドターフクラブ賞」……実はこれが京都大賞典の前身の名称です。初回のみ3200mで開催をされていましたが、第2回(1967年)からは今と同じ10月京都2400mの重賞となっていました。
1966年に「ハリウッドターフクラブ賞」の名称で創設された、4歳(現3歳)以上の馬による重賞競走。創設時は京都競馬場の芝3200mで行われたが、1967年より芝2400mに短縮され現在に至る。
京都大賞典
「ハリウッドターフクラブ賞」の名称は第1回開催が行われた前年の1965年にアメリカのハリウッドパーク競馬場で「日本中央競馬会賞競走」が創設された返礼として行われたもので、日本中央競馬会と外国の競馬施行団体がレース交換を行う初の事例となった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本馬が「ワシントンDC国際」に挑戦したり、アメリカジョッキークラブカップが創設されるなどと、アメリカ競馬との交流が目立った1960年代。関西に「ハリウッドターフクラブ賞」が創設。タイミング的に、菊花賞や天皇賞(秋)の前哨戦という位置づけとなっていました。
初回(1966年)は、牝馬による初の宝塚記念制覇をレコード勝ちで果たした【エイトクラウン】が1番人気に支持されるもブービー6着(もともと長距離は全て2桁着順と苦手だった)。いきなり最低人気の【キヨウエイヒカリ】が優勝して幕を開けました。(なお、菊花賞でも12番人気と人気薄で6着)
そして、第2回は3歳馬なのにダービー3着馬ということもあってか58kgを背負わされていた【シバフジ】がレコード勝ちを収め、第3回も58kgで皐月賞馬の【マーチス】が優勝。これで結果的には、創設から現3歳馬が3連勝としますが、なかなか本番の菊花賞に結びつきませんでした。
1970年代:タニノチカラが連覇、テンポイント8馬身差
1969年に【フイニイ】が古馬で初めて制すると、これ以降は現3歳馬限定の重賞も充実していったこともあってか、基本的に優勝するのは古馬となっていきます。今のところ、現3歳馬の1番人気での勝利は上に書いた【マーチス】が唯一の事例です。
昭和時代を通じて1番人気は5勝とかなり苦戦していたのですが、この1970年代の勝ち馬の名前をみても、かなりの実力馬が多いことが分かります。一つには、春競馬の後半以降に活躍した馬が60kg以上を背負うことが珍しくなかったこともあって、50kg台と斤量に恵まれた馬が1着になることが多かったとも言えそうです。例えば、
これらは1頭ほかの馬よりも5kg重たい斤量を背負い惜敗しています。特に中距離が主戦場である【ハイセイコー】にとって62kgを背負っての2400mは非常に苦しかったと思いますが4着に粘ってます。
そして、1973・74年と史上初の連覇を達成した【タニノチカラ】のように、中距離よりも長距離王道路線を戦う馬が強さを見せる舞台といった印象が強まっていきます。
この「京都大賞典」史上最も強いレースを見せたと思えるのが恐らく、1977年の【テンポイント】ではないでしょうか。
宝塚記念出走後、テンポイントはアメリカで行われるワシントンD.C.インターナショナルへの招待を受けたが陣営はトウショウボーイを倒して日本一の競走馬になるべく、招待を辞退して年末の有馬記念を目標とした。小川と鹿戸は調教時に鞍に5kgの鉛をつけ、それまでよりも強い負荷のかかる方法で鍛錬を行うようになった。この期間は時に80kgを背負って調教を行っていたこともあり、厩務員の山田によるとこれが功を奏し、9月に入ってテンポイントの馬体重は20kg以上増え、500kg近い筋骨隆々の馬体になった。
夏期休養後の京都大賞典では63kgの馬体で斤量を背負いながら2着に8馬身の差をつけて逃げきり勝ちを収めた。馬主の高田は、後にこの京都大賞典での勝ちっぷりを見て以前からの夢だった海外遠征を実行するときが来たと判断したという。
テンポイント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上にみたように60kg以上での出走もまだ珍しくなかった1970年代とはいえ、63kgを背負っての優勝は簡単ではなかったですし、なおかつその2着に付けた差が8馬身差というのは衝撃的でした。
春に3連勝で天皇賞(春)を制するも、有馬記念に続きグランプリの宝塚記念でトウショウボーイの2着と敗れたテンポイントが、ライバルを有馬記念の舞台で下すべく挑んだ秋緒戦でのこの鮮やかさには誰しもが期待をしたことでしょう。(但しここで63kgを背負って楽勝をしたがために、翌年の「日本経済新春杯」で63.5kgを背負うこととなったことも事実ではありますが)
1980年代:G2昇格、牝馬が初優勝から8年で5勝
阪神代替開催ということもあったのかも知れませんが、第15回(1980年)にして、初めて牝馬が優勝を果たします。ニチドウアラシやカツラノハイセイコといった牡馬を相手の接戦の中、紅一点の【シルクスキー】が2分32秒5も掛かる重馬場を大外一気で決めました。
そこから、2分26秒2で駆け抜けた現3歳のメジロカーラを経て、牝馬・ヤマノシラギクと牡馬・スズカコバンが交互に優勝を収め、1987年にはオークス馬【トウカイローマン】が3年ぶりの重賞制覇を果たしています。
1984年にグレード制が施行されると、この「京都大賞典」はG2に昇格。1981年にジャパンCが創設され、天皇賞(秋)が前倒しになると、「京都大賞典」も1週間早まって10月前半の開催となります。
平成・令和時代
平成前半:秋三冠の有力な前哨戦として名馬が次々優勝
昭和時代は1番人気が苦しかった「京都大賞典」ですが、平成に入ると状況が一変。2003年(平成15年)までの15回のうち1番人気が10勝し、最低でも4番人気までしか優勝できない非常に堅いレースとなっていきました。勝ち馬の一覧がこちらです。
第24回 | 1989年10月8日 | スーパークリーク | 牡4 | 2:25.0 |
第25回 | 1990年10月7日 | スーパークリーク | 牡5 | 2:26.9 |
第26回 | 1991年10月6日 | メジロマックイーン | 牡4 | 2:26.5 |
第27回 | 1992年10月11日 | オースミロッチ | 牡5 | 2:24.6 |
第28回 | 1993年10月10日 | メジロマックイーン | 牡6 | 2:22.7 |
第29回 | 1994年10月9日 | マーベラスクラウン | 騸4 | 2:31.0 |
第30回 | 1995年10月8日 | ヒシアマゾン | 牝4 | 2:25.3 |
第31回 | 1996年10月6日 | マーベラスサンデー | 牡4 | 2:25.1 |
第32回 | 1997年10月5日 | シルクジャスティス | 牡3 | 2:26.2 |
第33回 | 1998年10月11日 | セイウンスカイ | 牡3 | 2:25.6 |
第34回 | 1999年10月10日 | ツルマルツヨシ | 牡4 | 2:24.3 |
第35回 | 2000年10月8日 | テイエムオペラオー | 牡4 | 2:26.0 |
第36回 | 2001年10月7日 | テイエムオペラオー | 牡5 | 2:25.0 |
第37回 | 2002年10月6日 | ナリタトップロード | 牡6 | 2:23.6 |
第38回 | 2003年10月12日 | タップダンスシチー | 牡6 | 2:26.6 |
スーパークリーク、メジロマックイーン、テイエムオペラオーが2勝しており、京都に強かったオースミロッチや上がり馬のツルマルツヨシを除けば、名を連ねているのはG1馬ばかりです。
斤量としては現3歳で55kgだった【シルクジャスティス】を除いて57kg以上でした。59kgでの勝利も目立ちますが、昭和と異なり60kg以上という斤量を背負う別定ではなくなったため、この斤量ならば十分に戦えるという超一流馬が順当に勝っていった時代だったのでしょう。
そして、現代と異なり、秋三冠に皆勤するのも珍しくなかった平成前半の陣営にとっては、毎日王冠の1800mなどよりも京都大賞典の2400mは魅力的に映っていたことも言えるでしょう。秋三冠のうち、ジャパンCや有馬記念に近い距離である京都大賞典の方が、1800mよりも関連性が高そうですものね。
平成後半:再び人気馬が苦戦する時代に
徐々に秋三冠でも「天皇賞(秋)」の2000mの重要性が高まり、香港国際競走への挑戦も珍しくなくなった平成後半になると、再び人気馬が苦戦するようになります。
2004年(平成16年)からの15回で1番人気は4勝にとどまり、2013年のヒットザターゲットや令和に入ってのドレットノータスは11番人気での優勝でした。依然として人気の一角が勝つことは多いものの、平成前半のような華やかさはかなり削がれてしまってきている印象です。
年によって様々ですが、2400mでも戦える牝馬が好走したり、人気を背負うも秋緒戦は敗れていたり、それぞれの年で古馬秋三冠路線の本格的な高まりを感じさせるレースとして一定の存在感は維持していると言ってよいのかも知れません。
但し、これまでの時代との違いとして、「京都大賞典→天皇賞(秋)→ジャパンC→有馬記念」だけでなく、ローテーションが多様化したことが挙げられます。クラシックディスタンスが得意な馬は中2週の天皇賞を避けたり、天皇賞を目指す馬は毎日王冠を叩いたりぶっつけだったり、京都大賞典の次走がジャパンCと香港ヴァーズで分かれたりと様々です。
レース間隔が空いて、出走するレース数が単純に減った結果、かつてなら京都大賞典に出走していそうな陣営も前哨戦を使うのを省略することが珍しくなくなってきています。そうした意味で、安閑とはしていていられないのかも知れません。
令和時代:8歳馬マカヒキの復活劇
2020年はグローリーヴェイズが香港ヴァーズ以来の優勝を果たし、その時の2着は菊花賞馬【キセキ】でした。翌年には、そのキセキを交えて非常に熱い戦いの舞台ともなりました。
アリストテレス、マカヒキ、キセキと久々の優勝を目指した馬たちの三つ巴の直線。最後に制したのは年長8歳の日本ダービー馬【マカヒキ】でした。G1で結果が出にくくなり9番人気に甘んじていましたが、最後は1番人気で4歳年下の【アリストテレス】をハナ差退け、実に「ニエル賞」以来5年ぶりの優勝を果たす劇的な結果となったのです。
年 | レースR | 勝ち馬 |
---|---|---|
2016 | 118.75 | キタサンブラック |
2017 | 116.50 | スマートレイアー |
2018 | 115.75 | サトノダイヤモンド |
2019 | 110.75 | ドレッドノータス |
2020 | 115.50 | グローリーヴェイズ |
2021 | 113.50 | マカヒキ |
2022 |
ここ6年のレースレーティングを上にお示ししましたが、広い視点でみれば「G2の目安:110ポンド」は当然のごとく超え続け、「G1の目安:115ポンド」ですら過半の年で超えてはいます。
1998年にエルコンドルパサーが勝った「毎日王冠」の週に、セイウンスカイが勝った「京都大賞典」が行われた時が10月開幕週のある種のピークだったのかも知れませんが、どちらも一応は「スーパーG2」という括りで今も語られています。
もちろん年によっては上にみたようにG1級のハイレベルになることもあるのですが、ここ数年のトレンドとしてややレーティングも下落傾向にあることは気がかりです。
歴史と伝統の秋競馬の本格スタートを西に告げるG2「京都大賞典」は、久々優勝や人気馬敗戦も含めて様々なドラマを生んできました。今年は果たして、どういった結果が待ち受け、それがその後のG1戦線に繋がっていくのでしょうか。今から楽しみです。
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