【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「関屋記念」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。
関屋記念(せきやきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が新潟競馬場の芝1600メートルで施行する中央競馬の重賞競走(GIII)である。競走名の「関屋」は、1964年までの旧新潟競馬場の所在地(新潟県新潟市関屋字青山下百問割)に由来している。
関屋記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昭和中盤:新潟市「関屋」地区で地方競馬のみ開催
「関屋記念」の『関屋』は地名です。東京オリンピックや新潟国体が開催された1964年まで、いわゆる新潟競馬場として開催されてきた旧旧・競馬場のあった地名なのです。
1901年(明治34年)9月7日 – 同月9日まで新潟市内の関屋地区(現在の信濃町・浜浦町・文京町付近)に(直線のみの)競馬場が開かれる。
新潟競馬場
1937年(昭和12年) – 日本競馬会(中央競馬の前身)の競馬場となる。同年9月4日から9日まで日本競馬会による第1回の新潟競馬が開催される。
1943年(昭和18年) – 戦争の激化に伴い開催を廃止。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦前から「新潟特別」などの特別競走は開催されていたようですが、帝室御賞典などのビッグレースが開催された実績はあまりなかったようで、戦争が激化してから約20年、中央開催はありませんでした。
1949年(昭和24年)7月 – 新潟県(後に新潟県競馬組合)が、当時の所有者である国から競馬場の施設を借り新潟県競馬(以下、県競馬)の開催が始まる。当時の馬場は四角形であった。
( 同上 )
1964年(昭和39年) – 信濃川の関屋分水路を開削する工事を始めるに当たり、その代替地捻出のため関屋競馬場を廃止(12月)。
跡地はその後、工事に伴う代替住宅地として再開発された。現在の新潟競馬場で行われる中央競馬の重賞競走「関屋記念」はこの旧・新潟競馬場が在った関屋地区にちなむものである。
確かに当時の競馬場の航空写真を見ると、『当時の馬場は四角形だった』というのが良く分かります。(↓)
戦後の新潟県では公営競馬として新潟競馬場・三条競馬場において新潟県・新潟市・長岡市・三条市(当初は南蒲原郡大島村)の4自治体が単独で競馬を開催していた。
新潟県競馬組合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦後十数年間は、「県競馬」(今で言う地方競馬)が開催されるのみで中央開催はありませんでした。これが高度経済成長期の1960年代の中盤、中央競馬を開催する新競馬場の創設する流れとなりまして、競馬場の所在地がこれまでの「関屋」から、現在の「豊栄」方面に移ることとなったのです。
昭和後半:移転翌年に新潟競馬最古の重賞として創設
1965年(昭和40年)5月 – 郊外の北蒲原郡豊栄町笹山(現在地/ 現住所: 新潟市北区笹山)に移転。15日に完工式が行われた。競馬場及び厩舎等の敷地全体は新潟市にもまたがっていたため移転に伴い新たに豊栄町(のちの豊栄市)が競馬場所在市区町村として開催権を得たが、新潟市の競馬場所在市町村としての開催権も存続した。同時に中央競馬主催による開催が復活。県競馬の開催もスケジュールを調整し、引き続き行われることとなった。7月10日には移転後初の競馬が開催された。
新潟競馬場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1965年、今とは異なり右回りの小さな競馬場としてスタートした「旧・新潟競馬場」で、『新潟記念』に続いて重賞として開催されたのが『関屋記念』でした。
例えば、『目黒記念』や『鳴尾記念』(↑)のように、旧競馬場の地名を冠した重賞が開催されてきましたが、この『関屋記念』も同じネーミングの由来だったことが分かります。そしてどちらも重賞としては当時GIIに近い格式を持っていたことを思うと、新潟競馬としては大きな期待が託されていたのではないかと想像できます。
第1回(1966年)は8頭が出走し、2000mのハンデ戦として開催されました。1番人気はこの年のNHK杯を制し、皐月賞5着、日本ダービー4着とダイコーター・キーストンが争った年に春2冠で人気薄での好走を果たした【ナスノコトブキ】。しかし、現3歳夏なのに古馬よりも重い57kgを背負わされて5着と敗戦。
勝ったのは、前年の「新潟競馬再開記念」や第1回「新潟記念」にも出走していた【セエチョウ】号。古馬ながら54kgという斤量も味方して2番人気に応えての優勝でした。
開催時期は昭和40年代を通じて安定せず、初夏か10月を行ったり来たりしていて、1974年には5月に開催されました。ちなみにこの第9回を制したのは【ノボルトウコウ】。68戦13勝という成績を残した同馬が重賞3勝目(小倉大賞典からの連勝)を果たしたレースでもありました。
1975年(第10回)からは8月前半の夏競馬本番の開催で定着。開催距離についても当初4回は2000mで、1970年代前半は1800mでしたが、この1975年からはマイル戦に短縮され『新潟記念』との差別化が図られました。例えば、その翌年(1976年)は早速マイル重賞らしい結果となっています。
平成前半:H元年・2桁人気がダービー1番人気を下す!
平成年間に入って最初の『関屋記念』は、これまで少頭数ばかりだった同レースにとって初めて、18頭という多頭数が揃ったレースとなりました。どういったレース結果になったかというと、
初めて2桁人気の人気薄が優勝して、1番人気の【マティリアル】がクビ差2着と敗れる結果でした。
平成年間において、2桁人気が優勝する例は以下の3つがありました。いずれも単勝50倍以上ですね。
いずれも7~8歳と高齢でしたが、若い頃からオープン・重賞路線で全線を繰り返してきたタイプの馬だったことは抑えておいて良いでしょう。
そして複数回優勝馬が何頭か誕生したのもこの時期でした。3頭とも重賞路線での活躍が印象的です。
平成後半~令和:古豪復活、マイル付近適正馬が優勢
2001年に全面リニューアルして左回りとなった新潟競馬場。この『関屋記念』も、外回りの直線の長いマイル戦となって以降は従来に比べて大荒れの機会が減ってきたようにも感じます。
平成中盤までは勝ち馬を含め2桁人気の馬が複勝圏内に入る「紐荒れ」の傾向が強かったですが、特に2007年に後の天皇賞馬【カンパニー】が1番人気で優勝したあたりからレースの水準が少し上がったような印象を受けていて、2011年からの10年間は2桁人気馬が複勝圏内に入れていません。元来人気薄が好走しやすかったレースですが、こうしたトレンドの変化は抑えておいて損はないでしょう。
特に平成中盤に入っては、2歳時などに活躍した馬が久々の重賞優勝という復活を果たす場としての印象が強まります。オースミコスモ、ブルーイレヴン、カンファーベスト、マルカシェンク、スマイルジャック、レッツゴーキリシマ、レインボーペガサスなど古豪復活の印象が強かった時期です。
また2012年には牝馬【ドナウブルー】が1分31秒5のレコード勝ちを1番人気で収めるなど、マイル付近のスペシャリストが活躍する展開となっていきます。例えば、翌2013年には7歳馬【レッドスパーダ】が世界一の評価を受けることとなる【ジャスタウェイ】を下していました。
年 | レースR | 勝ち馬 |
---|---|---|
2016 | 109.25 | ヤングマンパワー |
2017 | 110.25 | マルターズアポジー |
2018 | 108.50 | プリモシーン |
2019 | 109.25 | ミッキーグローリー |
2020 | 108.50 | サトノアーサー |
2021 | 111.25 | ロータスランド |
2022 |
ここ最近のレースレーティングを上の表に纏めましたが、「GIIIの目安:105ポンド」どころか、「GIIの目安:110ポンド」を上回る年もあり平均して109ポンド台を維持しています。
別定戦ということも多分に影響しているのでしょうが、夏競馬のマイルGIIIとしてはトップクラスであるどころか、年間を通じても「マイルGIII」の中では数本の指に入るハイアベレージとなっています。
例えば、レースレーティング111.25となった2021年は、1着がロータスランド、2着がカラテ、3着には3歳だったソングライン、4着が古豪マイスタイルで、更に7着シャドウディーヴァ、8着アンドラステなど牝馬を中心に(後を含む)重賞馬が多く名を連ねています。
ここまで毎年豪華とは限りませんが、ここ最近は夏競馬の中では比較的豪華で、秋競馬が楽しみになるようなレースが続いています。ぜひその観点から楽しんで頂けたらという風に思いますね。
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