【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返る「競馬歳時記」。今回は「宝塚記念」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。
宝塚記念(たからづかきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。
競走名の「宝塚」は宝塚市を指す。阪神競馬場の所在地で、兵庫県の南東部に位置する。
宝塚記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
明治~昭和前半:「宝塚記念」前史
「宝塚記念」について調べようと、日本語版ウィキペディアを調べてみたら、『阪神競馬場』の歴史が纏められていました。こんな感じです(↓)。
恐らく、阪神競馬場を代表する重賞競走ということで、「宝塚記念」創設に至るまでの前史(阪神競馬場史の前半の約半分)が纏められたのだと思います。簡単に振り返っていましょう。
- 1907年
明治40「鳴尾競馬場」建設※関西で初めての本格的な競馬場として創設
- 1910年
明治43「帝室御賞典」が創設春秋と開催。鳴尾では1937年春まで開催
- 1924年
大正13「連合二哩」が創設関西連合として1937年秋まで開催
- 1930年代馬券売上で全国上位にランクイン
1位:1934・36、2位:1930~32・35
- 1936年
昭和11各地の競馬倶楽部が「日本競馬会」に統合重賞競走などの再編が各地で進められる
- 1938年
昭和13春の「帝室御賞典」、秋の「オークス」が創設名実ともに日本を代表する競馬場に
- 1943年
昭和18鳴尾競馬場が日本海軍に接収一周2500mという東洋一の競馬場の夢は幻に
戦後は進駐軍のゴルフ場に変わって接収が続く - 1949年
昭和24宝塚に仮設競馬場を建設し、新たな地で復活阪神3歳S、桜花賞の他、多くの重賞を誕生させるも、工場の残骸が競馬場の中央に放置、スタンドが木造で仮設、地盤の悪さなどで人気が低迷
- 1959年
昭和34新スタンドが建設セントウル像が設置された1960年に「第1回宝塚記念」が創設
「鳴尾競馬場」時代に隆盛を極めた事は「鳴尾記念」の記事でも書いたとおりですが、1940・50年代の暗黒時代を乗り越えて、阪神競馬場が復活の狼煙を上げる原動力となったのが、この「宝塚記念」の創設でした。
ちなみに「宝塚」を冠したレースには、1956年に廃止された「阪神記念」に代わって創設された「宝塚杯」というものがあり、これは1960年から「阪急杯」と名称を変更しています。こちらの競走については、今回別のものとしたいと思います。
昭和後半:春競馬の総決算としてGIへ
1960年代:関西の春の総決算として創設
昭和30年代に入って「有馬記念」という新たな形の重賞が創設され、古馬にとっての目標が出来たことを受け、関西地区にも同じファン投票で出走馬を決める重賞が創設されます。それが「宝塚記念」で、1960年のことでした。
- 有馬記念と同様に、ファン投票で出走馬を決め、こちらは上半期の締めくくりを飾る競走として関西地区の競馬を華やかに盛り上げようとの趣旨で企画され、1960年に創設された。
当初から変更した点としては、開催時期が「5~6月か6~7月か」、「現・3歳馬」が出走可能か、距離が2200mかそれ未満かといった所です。しかし、コンセプト的には「上半期の締めくくり」として「阪神競馬場」の「中距離」で開催されるところは当初から一貫していました。
第1回は9頭が出走して、春の天皇賞で2着だった【ホマレーヒロ】が優勝。第2回は2頭が取消して4頭立てとなりましたが1番人気の【シーザー】が前年王者を下して優勝。その後も関西の名馬が次々と勝ち馬に名を連ねています。
特に、第3回で【コダマ】が復活優勝を成し遂げた事は、関西競馬の盛り上がりを示した結果でした。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創設当初から関西陣営が「宝塚記念」に好意的で、1961年のシーザーから1965年のシンザンまで5年連続でファン投票1位が出走し4勝しています。但し一方で、この当時から「頭数が揃わ」ないという弱点は傾向が垣間見えると共に、まだ「関西圏」が中心で『全国区』には至っていませんでした。
1970年代:関東馬も制する全国的な初夏のレースに
昭和40年代に入ると、関東馬が優勝しはじめ、1970年代になると寧ろ関東馬が優勢となります。例えば、1970年のスピードシンボリや1974年のハイセイコー、1977年のトウショウボーイなどは、有馬記念にも出走する全国区のスターホースでした。
1968年から開催時期が1か月ほど繰り上がり、5月下旬から6月上旬となると、「天皇賞(春)」から約1か月の間隔となり、関東馬を含め「古馬」の中長距離路線馬の春の最後の目標レースとなります。
また、長距離3200mの天皇賞(秋)に比べて距離が短いため、【ハイセイコー】や【ナオキ】のような八大競走(特に2400m以上のレース)に縁遠かった馬たちが実力を遺憾なく発揮していました。
一方で、1966年から1978年まで「ファン投票1位」の馬が、不出走の年が4年連続を含む8頭、出走した5頭に関しても2着4回ながら優勝できないという時期が続いていました。これは関西の人気馬が名を連ねたり、あるいはステイヤータイプの馬が天皇賞(春)を使った後のレースを回避するといった具合が続いていたことによるものでしょう。当時はまだ「八大競走」に準ずる格付けだったためです。
恐らくこの辺りから、今で言う「スーパーG2」から「G1」に近い位置づけになっていったのだと思いますが、グレード制が導入される前の「位置づけ」というのは人によって体感や判断が分かれるところでしょう。
1980年代:「GI」に格付け
1984年にグレード制が導入されると正式に「GI」に格付けされ、『天皇賞(春)』と並んで春競馬古馬の二大競走となります。
た出走馬はほとんどが重賞級の馬ではあるのですが、やはりファン投票1位の馬の不出走の年も多く、旧・八大競走(当時新設の「ジャパンC」を含む)に比べると、層の薄さが若干目立ちました。
昭和の終わりには6月中旬の開催となり、1988年【タマモクロス】、1989年【イナリワン】と天皇賞から連勝でこのレースを制するようになると、その後の時代(平成年間)の盛り上がりに繋がります。
平成・令和:国内春の総決算から国際化の交差点に
1990年代:名実ともに「春のグランプリ」に
1990年代に入ると、ファン投票は1位が10万票クラスの全国的な行事として定着。ファン投票1位を下の表で纏められていますが、完走すれば3着以内という充実ぶりを見せます。
一方で、オグリキャップやメジロマックイーン、スペシャルウィークが2着と惜敗したり、ライスシャワーが予後不良となるなど、敗戦のドラマも語り継がれる「夢の舞台」となっていきました。
ダビスタ世代の競馬ファンからすると、この時代の「宝塚記念」の印象しかないかも知れませんが、上で見てきたとおり、この10年ほど前はやや層の薄い時代があったことを思うと、6月中旬から7月前半にかけて開催するようになった時期の改革は大きな意味があったと言えるでしょう。
春の古馬路線は、マイル以下が整備され、中長距離路線が引き続き充実している一方で、中距離路線は相対的に整備が遅れ、この「宝塚記念」が唯一無二の目標レースとなっていました。こうした時代に、【サイレンススズカ】がギリギリ2200mを耐えきったことは強く印象に残りました。
「大阪杯」がGIに昇格するまでは、中距離馬にとっての唯一の大目標とも言うべきレースだったこともここで合わせて書いておきたいと思います。
2000年代:6月下旬の開催で定着
7月上旬開催から若干繰り上がり、2000年からは6月下旬(春競馬の最終週)に開催されることとなった「宝塚記念」。1981年以降、稍重以上で開催されるように、実は、「梅雨の中休み」といった時期に開催されてきているのは抑えておきたいポイントかも知れません。
1974年から2002年まで29年間、【メジロパーマー(9番人気)】の1回を除いて3番人気以内が優勝するというゴリゴリの本命サイド決着だった宝塚記念。しかし、2003年に“ミラクルおじさん”報道で話題にもなった【ヒシミラクル(6番人気)】の勝利から流れが徐々に変わってきます。
38.5倍、11番人気の【スイープトウショウ】が勝利してからは、1番人気で優勝したのは年度代表馬級の馬たちのみ(ディープインパクト、オルフェーヴル、ゴールドシップ、クロノジェネシス)のみであり、実力馬であるとはいえ人気が混戦となる中でオッズが高くなっている馬たちが優勝することが増えました。
また、2000年代後半に入ると、【ディープインパクト】がこのレースを制して凱旋門賞に挑戦したり、逆にその翌年には春に遠征をしていた【アドマイヤムーン】が国内復帰して宝塚記念に間に合ったりと徐々に『海外遠征の交差点』としての意味合いが強まっていきます。
2010年代:凱旋門賞2着のステップレースに
2010年代前半には、俄にこのレースの注目度が高まります。2010年の【ナカヤマフェスタ】、そして2012年の【オルフェーヴル】と、凱旋門賞2着に好走する馬を輩出するからです。
ナカヤマフェスタは前走オープン特別(メトロポリタンS)を勝って迎える8番人気、オルフェーヴルは年明け2戦で想定外の敗戦を喫したとは言え前年の三冠馬で1番人気という点は違いますが、あのエルコンドルパサー以来となる「凱旋門賞2着」を続けて達成します。「春の終わり」というだけでなく、「秋に向けての飛躍」の起点という意味も併せ持つようになりました。
※もちろん、凱旋門賞に直結するという意味ではなく、欧州の芝を苦にしない馬が「宝塚記念」を好走したという程度の意味合いしかないことは誤解なきよう書き添えておきます。
そして、純粋なファン投票として多くの票を集める馬の成績が必ずしも振るわない(あるいはそもそも不出走)という中で、(宝塚記念という舞台設定への)忖度がなく「ファン投票」1位が選ばれ、果敢に出走するも大敗することが2010年代後半になると目立ちました。
寧ろこの「阪神2200m」という舞台設定だったり「レース間隔」だったり「暑さへの適性」だったり、『宝塚記念』という舞台だからこそ激走する馬が、混戦になりやすい宝塚記念で上位に来る印象です。
2020年代:令和に入って牝馬が連覇
令和に入ると、再び2番人気以上が優勝する年が続きます。しかもそれが「強い牝馬」だという点が、この令和時代の特徴かも知れません。牡馬を一蹴したリスグラシューと、グランプリ3連覇を果たしたクロノジェネシスは、どちらも人気・実力の両面から歴史の転換点の注目に値する名牝でしょう。
ここで、ここ最近のレースレーティングを振り返ることにしたいと思います。
年 | レースR | 勝ち馬 | 備考 |
---|---|---|---|
2016 | 120.50 | マリアライト | 国内2位、世界15位タイ |
2017 | 118.25 | サトノクラウン | |
2018 | 117.00 | ミッキーロケット | |
2019 | 122.25 | リスグラシュー | 国内1位、世界5位 |
2020 | 118.00 | クロノジェネシス | |
2021 | 120.00 | クロノジェネシス | 世界20位タイ |
2022 |
国際的なGIの目安が「115ポンド」とされていることを思うと、少なくとも2016年以降の全ての年で、このハードルを大きく上回っています。まさに「春競馬の総決算」にふさわしいレースといえますね。
そうした中で特に注目すべきは、120ポンドを上回る年が3度もあることです。これは世界でも上位20位以内に入るほどの高レートですから、「宝塚記念」を世界的基準でみると極めて高評価なようです。
例えば、2016年は牝馬マリアライトが勝ちましたが、2着ドゥラメンテ、3着キタサンブラック、4着ラブリーデイと一線級の牡馬を下していますし、2019年に至っては、次走で豪州「コックスプレート」を制覇した【リスグラシュー】が3馬身差の快勝をしたことなどが評価に反映されています。
2022年には、エフフォーリアとタイトルホルダーというファン投票1・2位が揃って出走するだけでなく、初春に海外で実績をあげた馬たちが国内復帰戦として出走しますし、3冠牝馬や大阪杯の覇者などフルゲート18頭の豪華なメンバーが揃いました。
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