競馬歳時記【9月4週】「オールカマー」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は、「オールカマー」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

オールカマーは、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬重賞競走GII)である。競馬番組表での名称は「産経賞オールカマー(さんけいしょうオールカマー)」と表記される。

寄贈賞を提供する産業経済新聞社は、東京と大阪に本社を置く新聞社。正賞は産経新聞社賞。

オールカマー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

概要:「オールカマー」は英熟語的なもの

オールカマーは競馬の競走。
サラブレッドアングロアラブなどの品種や所属を問わず、
 出走馬に広く門戸を開けた競走。
日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する重賞
 「産経賞オールカマー」。本項にて詳述。

オールカマー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そもそも「オールカマー」のウィキペディアの冒頭に上のような曖昧さ回避があるとおり、「オール」と「カマー(ニューカマーなどのComer)」をあわせた『All comers = 来る人全部、挑戦者全員』といった意味を持つ熟語です。なので本競走に限らず地方競馬などでも「(地名)オールカマー」という名称のレースは各地に設けられています。

大正時代:横浜競馬での「オールカマーH」

本項は、内国産。さん及び弐段逆噴射」さんの『名馬百科のページにある情報をかき集めて、全体像の復元を試みたものです。【注】

実は、戦前の横浜競馬では、少なくとも大正・昭和時代において「オールカマーH」という名物競走が行われていたことが、多くの記録に残されています。西洋人が番組表の編成に多く関わっていたため、日本人には馴染みの薄いネーミングですが、数少ない洋名レースとして定着していたことが窺えます。

開催日距離勝ち馬勝ちタイム備考
1919/05/16T2000ペツトレル2:10.202着:ロードフエヤーフアツクス
1919/11/07T2000ペツトレル2:12.202着:ノラ
1920/10/29T2000ペツトレル2:10.202着:レツドウヰング
1921/05/13T2000クヰンマリー3着:ホーンビーム(140ポンド)
1921/10/28T2000ペツトレル2:11.602着:ナニワ
1924/11/01T1800ラレード1:56.42着:オーキツド
1925/11/07T1800ラレードR1:55.22着:チヤペル
1926/11/06T1800クモカゼ2着:ラレード
1927/11/05T2000コクホウ2着:ナスノ
1928/05/12T2000ナスノ2:18.82着:コウエイ
1928/11/03T2000プリモス2着:ナスノ(69kg)
1929/11/02T2000ブレツシング2着:ハクシヨウ、10着:ナスノ
上記ページより、掲載分を抜粋。欠落が多いことはご承知おきください。恐らく原文となる古い書籍データを当たっていただければ、補完可能かと思いますので興味のある方は各自でお調べ下さい。

判明分を纏めただけですが、少なくとも、1910年代から1920年代にかけて、毎年の春・秋競馬で開催されています。そして注目すべき点として、『帝室御賞典(日曜日)』の前日(土曜日)に開催されることが多く、『帝室御賞典』と違い、過去の優勝馬も(斤量が重たくなるとはいえ)出走可能だった点が当時としては重要だったことが窺えます。他競馬場における「特ハン(特殊ハンデキャップ競走)」と似た要素のレースだったと思われますが、詳細はお詳しい方にお尋ね下さいますようお願いします。

出身国や抽籤馬・呼馬、馬齢(新馬・古馬)、牡・牝馬など様々な出走条件のレースが行われてきた日本競馬において、出走条件が極力少なく、ハンデによって調整するレースは寧ろ貴重で価値のあるものだったことが窺えます。

昭和時代

現在の重賞に繋がる「オールカマー」が創設されたのは、1955年(昭和30年)のことです。当時から中山競馬(関東主場)での開催であると共に、当初は「ハンデ戦」でした。こうした意味からすると、恐らく当時はまだご存命だった「横浜競馬を知る古参の方々」の影響を受けた創設だったのではないかと窺えます。

戦前に繁栄した根岸競馬の「オールカマーH」。根岸競馬が戦後復活が難しい中で、同じ名前のレースを復活させようという思いが、当時の競馬開催側にゼロだったとも言いづらいと思います。あくまでも妄想の域を脱しませんが、さもありなんといった所ではないでしょうか?

1950年代:外国産馬、アラブ馬も挑戦する門戸開放レースとして創設

出走馬に広く門戸を開けたレースとして、1955年に創設。当初は4歳(現3歳)以上の馬によるハンデ戦で、中山競馬場の芝2000mで行われた

オールカマー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

創設からしばらくは10月中旬に開催されていて、「菊花賞」や「天皇賞(秋)」の1ヶ月前というタイミングからして実質的にトライアルという位置づけでの開催でした。

昭和30年代のレーシングカレンダーを見ると、「オールカマー」が10月中旬の中山競馬に開催されていましたが、これより前に「毎日王冠」が開催されており、今とは逆のスケジュールとなっていました。

1950年代の主な「オールカマー」
  • 1955年
    メイヂヒカリ(58kg)

    春に故障してクラシック競走に出れなかったメイヂヒカリは、秋に復帰すると、皐月賞馬ケゴンや牝馬2冠のヤマイチを下して久々の重賞制覇。
    菊花賞を10馬身差で圧勝すると、翌年には天皇賞(春)、そして第1回「中山グランプリ(現・有馬記念)」を制し、平成に入って顕彰馬に選出。

  • 1956年
    トヨタニ(58kg)

    連覇を目指したメイヂヒカリは62kgで2着。4着ミツドフアーム(豪)、5着ヤサカ(新)、7着ブレツシング(米)と、当時は出走が限られていた外国産馬も挙って出走するが及ばず。
    メンバーを見ると半数近くが外国産馬であり、本当に戦前の根岸競馬の復活のような国際色豊かなメンバー(いわば今のジャパンC的なお祭り競走だった可能性)

  • 1957年
    キタノオー(64kg)

    ハクチカラ(65kg)との同級生対決を半馬身差制する。4着にはアラブ馬ながら57kgを背負っての参戦となった顕彰馬【セイユウ】。翌年は56kgで7着。

当初は出走が制限されていた「外国産馬」や「アラブ馬」が出走するなどして話題性がありましたが、既に昭和30年代の段階でその特徴は弱まってしまう傾向にありました。

1960年代:秋競馬前半のハンデ重賞の一つに

1960年代に入ると一線級の挑戦は減り、むしろハンデ戦に勝機を見出す陣営を中心とした重賞となっていきます。

そんな中で、大井競馬の「秋の鞍(現・東京大賞典)」などを制した【サキミドリ】が、1962年に挑戦(当時は中央競馬に挑戦中なので厳密には地方馬ではなかったか)するも、8着=最下位でした。

  • 1965年
    1着:ミハルカス   (59kg)
    3着:ヤマトキヨウダイ(58.5kg)
    10着:ウメノチカラ  (62.5kg)
  • 1966年
    1着:ヒシマサヒデ (60kg)
    6着:グレートヨルカ(60kg)
    8着:コレヒデ   (62kg)

もちろん一線級が挑戦する年もあったのですが、ハンデ差の大きな「オールカマー」で必ずしも好成績を挙げられなかったため、60kg超級のハンデとなる一線級は出走に消極的となっていきました。

1970年代:外国産馬が再び出走可能に

少しずつ当初と異なり、ハンデ戦としての意味合いが濃くなっていった1970年代。時代の潮流の影響を受けたものの一つに、「外国産馬」の出走緩和がありました。

1976~77年に圧倒的な強さを誇るも、出走できるレースが限られていた持込馬【マルゼンスキー】によって「外国産馬/持込馬」の出走条件緩和が一部で進み、マルゼンスキーが引退した翌年の1978年ではありますが、「オールカマー」も外国産馬の出走が認められることとなりました

なお、昭和40年代には、東京競馬場で開催されることもあった「オールカマー」ですが、昭和50年代に入ると「中山競馬場」での開催に再び定着します。

1980年代:G3格付け、別定・馬齢戦に。地方競馬交流競走に指定

実は、創設期を除いて、出走条件が我々のイメージするほど「開放的」ではなく、むしろ中央競馬の中で条件クラスの馬にも開放している程度だった「オールカマー」。昭和50年代に入って急速にその条件に変化が訪れることとなります。

まず、1981年から開催時期が9月下旬に3週間ほど繰り上がりました。これによって、「ジャパンC」の創設に伴うレーシングカレンダーの整理に伴うもので、秋競馬の緒戦に選ぶ馬が多くなりました。

また一つには、グレード制の導入による「G3」への格付けです。上に見てきたとおり、今と比べて出走メンバーの層が薄かったこともあり、格付けは当初「G3」でした。6月中旬から9月一杯までは「G3」しかないなど夏競馬から秋競馬の序盤が冷遇されていたことが、この判定からも窺えます。

そして、グレード制導入の1984年からは「2200m」に200m距離が延長され、いわゆる非根幹距離となった結果、毎日王冠などでなく、中山競馬2200mに適性のある馬が選ぶことが増えていきます。

しかし、メンバーが極めて低調だった1980年代前半に危機感を覚えたこともあってか、1986年に大胆な改革が行われます。それこそが「地方競馬交流競走」への指定です。

  • 1着:(愛知)ジュサブロー【8連勝で中央重賞制覇 → JC7着】
  • 2着:(中央)ラウンドボウル
  • 3着:(大井)テツノカチドキ
  • 4着:(大井)ガルダン
  • 7着:(大井)カウンテスアップ
  • 11着:(荒尾)カンテツオー

地方競馬交流競走となった1986年は、上のとおり11頭中約半数の5頭が地方馬であり、愛知のジユサブローが地方からの連勝をつなげて8連勝で重賞制覇を果たします。他に7着のカウンテスアップは、岩手・愛知・大井競馬を、11着のカンテツオーは、紀三井寺・荒尾・中津競馬を渡り歩いた地方の雄。

芝コースとの適性により結果に差は出たものの、前年のジャパンCで「ロツキータイガー」が11番人気で2着となったことを受けての改革は、創設当初の『オールカマー』というネーミングの意味を思い起こすような改革であり、唯一無二の存在としてにわかに注目を集めるようになりました。

  • 1着:(中央)ダイナフェアリー
  • 2着:(大井)ガルダン
  • 3着:(中央)ウイルドラゴン
  • 7着:(大井)テツノカチドキ
  • 8着:(大井)サラノオー【元・栃木競馬】
  • 12着:(笠松)ボールドピューマ
  • 14着:(岩手)ヒカリピアー

交流第2回の1987年(↑)は、中央の牝馬・ダイナフェアリーが優勝。新潟代替開催となった1988年は、地方馬5頭が出走するも4着が最高となり、後ろ3頭が地方馬となるなど芝での苦戦が目立つ様になりました。

平成・令和時代

1989年:オグリキャップが中央所属でレコード勝ち

平成元年の「オールカマー」は、笠松から中央に移った【オグリキャップ】が、中山2200mのレコードで優勝。有馬記念優勝以来の9ヶ月ぶりのレースを全く問題なしで勝ち切りました。

このレースに出走した地方馬5頭のうち4頭は2桁着順に惨敗したのですが、唯一掲示板確保の5着と善戦をみせた地方馬というのが、現3歳牝馬ながら南関2冠を達成していた川崎の名牝【ロジータ】。南関東の牡馬三冠競走を達成する名馬でも中央の壁は厚く、ジャパンカップにも出走しますが最下位に沈んでいます。

1990年代:ジョージモナークが地方馬優勝も→中央中心のG2へ

1990年代前半は、昭和60年代からの流れを汲んで、地方馬が積極的に参戦していました。この時期に活躍(1990年2着、1991年優勝)を果たしたのが、大井競馬の【ジョージモナーク】です。

左回りに苦戦したため、ジャパンカップでの好走は叶わなかったものの、地方の古豪でありながら右回りの芝コースに適性をみせ、「地方交流競走」時代後半に気を吐く活躍をみせました。

  • 1995年
    • GIIに格上げ。
    • 指定交流競走に変更し招待制度を廃止。また地方競馬所属馬の出走枠が2頭までになる。これにより同競走には地方競馬所属馬の出走がない場合も多くなり、見た目には他のJRAの重賞とほぼ変わりがなくなっている。
    • 国際競走に変更、外国調教馬が5頭まで出走可能になる。

1990年代中盤には「交流元年」など、地方競馬と中央競馬の交流やダート重賞の充実が進んだこともあり、芝で行われるオールカマーで地方招待制度を維持する必要性が弱まったことから、1995年をもって『普通の芝重賞』となり現在に至っています。しかし上記の流れからレース価値が高まった事もあり、秋競馬最初の「別定G2」という位置づけとなりました。

1989年9月17日オグリキャップ牡4
1990年9月16日ラケットボール牡5
1991年9月15日ジョージモナーク牡6
1992年9月20日イクノディクタス牝5
1993年9月19日ツインターボ牡5
1994年9月18日ビワハヤヒデ牡4
1995年9月18日ヒシアマゾン牝4
1996年9月15日サクラローレル牡5
1997年9月14日メジロドーベル牝3
1998年9月20日ダイワテキサス牡5
1999年9月19日ホッカイルソー牡7

この時期の勝ち馬をみても非常に個性的なメンバーが揃っていて、逃亡者【ツインターボ】が覚醒して七夕賞からの連勝を大逃げで決めたり、イクノディクタス、ヒシアマゾン、メジロドーベルといった名牝が牡馬を相手に優勝したり、ビワハヤヒデ、サクラローレルといった年度代表馬が優勝したりしています。

2000年代:マツリダゴッホが3連覇

しかし地方交流時代の貯金も2000年代には使い切り、再び昭和50年代までのような地味なG2となってしまいました。例えば、2006年には【コスモバルク】がホッカイドウ競馬から挑戦してバランスオブゲームの2着となりますが、出走メンバーのバラエティは中央競馬一辺倒に戻ってしまっています。

そうした中で、中山競馬(2200m)に適性のある馬が、同レース史上初の連覇、そして3連覇を達成します。有馬記念ホースのマツリダゴッホです。2009年に至っては59kgの【ドリームジャーニー】を下しての3連覇であり、やはり特殊な距離・コースを狙っての出走が21世紀は増えてきています。

2010~20年代:年によって「スーパーG2」、三冠牝馬も参戦

2010年代の後半にかけて、やはり出走頭数の少ない年が目立つものの、一線級が年によって出走することとなり、秋競馬の序盤の『スーパーG2』と喧伝される年も出てきています。

レースR勝ち馬
2016113.00ゴールドアクター
2017114.00ルージュバック
2018116.25レイデオロ
2019113.25スティッフェリオ
2020115.25センテリュオ
2021119.00ウインマリリン
2022

2016年以降のレースレーティングをみた時に、「G2の目安:110ポンド」どころか「G1の目安:115ポンド」をも上回っています。

2020年は、センテュリオがカレンブーケドールをハナ差制し、3着にはステイフーリッシュ。レース・レーティングは115.25ポンドと評価されました。

そして2021年には、青嶋アナウンサーが『ウインウインだ!』と実況した通り、牝馬のウインマリリンとウインキートスがワンツー。そして3着にグローリーヴェイズ、4着にレイパパレ、5着にステイフーリッシュと入ったことで、年末にかけてレースレーティングが跳ね上がり、G2とは思えない高レートの119ポンドとなりました。

この119ポンドという値は、2021年における「皐月賞」や「天皇賞(春)」をも上回っており、まさに『スーパーG2』の名をほしいままにした2021年の「オールカマー」に相応しい数値となっています。

さらに2022年には、三冠牝馬【デアリングタクト】が出走したことで注目を集めましたが6着と敗れ、改めてこのレースの難しさを痛感する結果となりました。

但し、『オールカマー』というレースは時期によってレースレベルが大きくブレますので、このまま『スーパーG2』を保っていくかは未知数な点にはご注意いただき、秋競馬の本格的な訪れを楽しんで頂ければと思います。

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