ウィキペディアで学ぶ「南方熊楠」(№463)

【はじめに】
この記事では、日本語版ウィキペディアで戦前の著名人「南方熊楠」について学んでいきましょう。

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南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) – 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者、生物学者、民俗学者。

生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。

民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。

フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。

柳田國男から「日本人の可能性の極限」と称され、現代では「知の巨人」との評価もある。

南方熊楠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下略 )

概要

現在の和歌山県和歌山市に生まれ、東京での学生生活の後に渡米。さらにイギリスに渡って大英博物館で研究を進めた。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。

熊楠の学問は博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学など様々な分野に及んでおり、その学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、書斎や那智山中に籠っていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。

生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっている。

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帰国後は、和歌山県田辺町に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また自宅の柿の木では新しい属となった粘菌を発見した。民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。

来歴

南方家は、海南市にある藤白神社を信仰していた。藤白神社には熊野神が籠るといわれる子守楠神社があり、藤白の「藤」と熊野の「熊」そして、この大楠の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習がある。南方家の子どもたちは、全て藤白神社から名を授けてもらっているが、熊楠は特に体が弱かったため、「熊」と「楠」の二文字を授かった。

生家には商品の鍋や釜を包むための反古紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字を貪り読んで成長した。学問に興味を持ったのも幼年期からで父親の前妻の兄が学文好きだったので、その残した書籍を読んでおり、学校に入る前から大抵の漢字の音訓を諳んじていた。父弥兵衛は熊楠の様子を見て「この子だけは学問をさせようということで、随分学問を奨励して呉れた」と熊楠は語っている。そのため熊楠は就学前に寺子屋に通わせてもらっていた。他にも漢学塾、心学塾にも通っている。

父からあまり書籍を買ってもらえなかったため、岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶しながらの筆写を始める。この他12歳迄に『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等をも筆写も本格的に行う。これにより熊楠の生涯にわたり筆写で行なう学問スタイルが培われた。

上京

1883年(明治16年)、和歌山中学校を卒業し上京。神田共立学校(現・開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門(のちの東京大学)入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バークレイが菌類6,000点を集めたと知り、それを超える7,000点の採集を志し、標本・図譜を作ろうと思い立った。またこの頃、手紙の控えなどから成る備忘録をつけている。

1884年(明治17年)9月、大学予備門に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之寺石正路芳賀矢一山田美妙本多光太郎などがいた。学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。

学問

このように、広範囲の分野に多くの研究を行っており、その残されたものから判断すると、熊楠が高度な専門家であったことは間違いない。しかしながら、熊楠はこれらの分野において、ほとんど論文を発表していない。これは、出版された論文をもって正式な業績と見なす科学の世界では致命的である。
たとえば粘菌の分野では、熊楠は数度にわたって目録を発表しており、熊楠以前には日本から36種しか記録されていなかった日本の粘菌相に178種を追加した。これだけでも熊楠は変形菌研究の歴史に大きな名を残している。
しかし、例えば熊楠は「新種」を記載してはおらず、熊楠の手になる新種は、全て他の研究者によって発表されたものである。これはキノコの分野でも同じであり、そういった観点からは、熊楠に対しては「優れた観察者およびコレクター」(萩原(1999),p.245)という評価しかできない。

熊楠の手による論文はきちんとした起承転結が無く、結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。更に猥談が挟み込まれることも多く、柳田國男はそうした熊楠の論文に度々苦言を呈した。しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、一つ一つの論理に散漫なところはまったくなく、こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を落ち着かせるために重要だったためと分析している。

南方マンダラ

1903年7月18日に土宜法龍との書簡の中で記されたマンダラ。書簡の中で図で記されている。この図において熊楠は多くの線を使って、この世界は因果関係が交錯し、更にそれがお互いに連鎖して世界の現象になって現れると説明した。

概要は、わたしたちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「物不思議」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「心不思議」、そして両者が交わるところである「事不思議」という領域、更に推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「理不思議」で成り立ってる。そして、これらは人智を超えて、もはや知ることが不可能な「大日如来の大不思議」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」である。この図の中心に当たる部分(イ)を熊楠は「萃点(すいてん)」と名付けている。それは様々な因果が交錯する一点である熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという。

熊楠の考えるマンダラとは「森羅万象」を指すのである。それは決して観念的なものではない。今ここにありのままに実体として展開している世界そのものにある。

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