【はじめに】
この記事では、私の「Rxヒット指標」に基づき歌手/アーティストのヒット曲を振り返っていきます。今回取り上げるのは「美空ひばり」さんです。
美空 ひばり(みそら ひばり、1937年〈昭和12年〉5月29日 – 1989年〈平成元年〉6月24日)は、日本の歌手・女優・実業家。神奈川県横浜市磯子区滝頭出身。
9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は「お嬢(おじょう)」。
美空ひばり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Rxヒット指標にみる「美空ひばり」の代表曲
私(Rx)の独自指標「Rxヒット指標」で150万ptを突破している「美空ひばり」さんの大ヒット曲を、表にして纏めました。一部「売上」などに推計値を含んでいますが、おおよその目安と捉えて下さい。
まず、①売上については、日本語版ウィキペディアにも記載されていた「日本コロムビア」が平成の最後に発表した出荷枚数を採用しました(↓)。また、③再生回数は、YouTubeの動画の上位3本を昭和60年代のものは「÷50万」、昭和40年代以前は「÷10万」で換算しています。④カバーについては、J-WID(JASRACのデータベース)に登録されているカバーアーティスト組数です。
11位:150万pt(1952年)お祭りマンボ
1952年8月15日発売。東京市日本橋区日本橋馬喰町出身の原六朗がその当時流行していたマンボのリズムに乗せ、お祭り好きな江戸っ子気質をテーマに自ら作詞作曲し、編曲まで担当した。全体的にアップテンポだが、ラストの部分ではスローに変わる。祭りの大混乱の最中「家を焼かれたおじさん」「ヘソクリ盗られたおばさん」の悲哀を描きつつも、最後は「(いくら泣いても)あとの祭りよ」のオチで締め括っている。2019年時点ではひばりのシングル売上で歴代17位にランクインされている(日本コロムビア調べ)
お祭りマンボ
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10位:160万pt(1949年)悲しき口笛
「悲しき口笛」(かなしきくちぶえ)は、1949年9月10日に発売された美空ひばりのシングルである。前作『河童ブギウギ』はB面の収録だったため、本楽曲がひばりにとってA面デビュー曲となった。同年10月に公開され、当時12歳にしてひばりが自身初の主演を務めた映画『悲しき口笛』の主題歌である。
当時、45万枚程を売り上げ、ひばりにとって初めてのヒット曲となった。本楽曲はひばりにとって出世作となり、ひばりは本楽曲のヒットにより一躍有名になった。また、本楽曲の売り上げ枚数は美空ひばりの全シングル売り上げランキングの第10位となっている。1998年時点でのシングル(アナログ盤とCDの合計)売上は日本コロムビア調べで90万枚(概数)。2019年に日本コロムビアが公表した累計売上枚数は110万枚で、ひばりの楽曲の中で累計売上枚数第9位である。
悲しき口笛
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9位:170万pt(1950年)東京キッド
1950年9月に公開され、当時13歳だったひばりが主演し、ひばりが「師匠」と慕っていた川田晴久との共演も果たした松竹映画『東京キッド』の主題歌として製作された。
明るく楽しいリズムの本楽曲と映画が共に大ヒットし、戦後混乱期の日本人に夢と希望を与えたと言われている。
「キッド」とは「子供、若者」という意味であり、本楽曲のタイトルは「東京の街の子」という意味がある。「チューインガム」、「フランス香水」、「チョコレート」など舶来のものが歌詞に多く含まれており、戦後間もない当時としては斬新なものであった。
当時「天才少女歌手」と呼ばれた美空ひばりの初期の代表曲として知られており、本楽曲は美空ひばりの全シングルの売り上げランキング第9位となっている
東京キッド
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8位:190万pt(1957年)港町十三番地
ひばりが生前好んで歌ったマドロス曲の一つであり、ひばりの故郷である横浜市と隣の川崎市が舞台になっている。
本楽曲のタイトルにある「港町」とは、美空ひばりが所属のレコード会社日本コロムビアの本社及び工場があった川崎市川崎区港町からとられている。日本コロムビア工場は2007年に閉鎖されている。但しその番地は九番地であり、十三番地ではないが、歌詞では作詞の石本美由起が語呂の良さから十三番地にした。
港町十三番地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
個人的には、『ひばりのマドロスさん』などと並び、海を歌った曲の中ではかなり好きな部類ですね。
7位:220万pt(1987年)みだれ髪
福島県いわき市平薄磯地区に建つ、塩屋埼灯台を舞台にしたご当地ソングの楽曲であり、塩屋埼にはひばりの記念石碑が建っている。
1987年夏、特発性大腿骨頭壊死症を理由に長期入院を余儀なくされていたひばりが退院して、病からの復帰第一作としてレコーディングした楽曲である。このレコーディングはオーケストラ含め、伴奏は一発録りで行われた。
みだれ髪 (美空ひばりの曲)
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6位:220万pt(1986年)愛燦燦
発売された1986年当時の売上は振るわなかったが、その後ロングヒットとなり、2019年時点ではひばりのシングル売上で歴代12位にランクインされている(日本コロムビア調べ)。ひばりの遺作になった『川の流れのように』と並んでテレビ・ラジオなどで多く取り上げられており、数多くの歌手によってカバーされていることもあって、ひばりの死後も代表曲のひとつとして全世代に親しまれている。
愛燦燦 (美空ひばりの曲)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『愛燦燦』の売上は100万ptで換算しています。なお小椋佳さんのカバーVer.は、オリコンでもかなりの再生回数を稼いでいます。
5位:250万pt(1967年)真赤な太陽
「真赤な太陽」(まっかなたいよう)は、1967年(昭和42年)5月25日に発売された、美空ひばりとジャッキー吉川とブルー・コメッツの楽曲。
グループ・サウンズ全盛期であったこの頃、美空ひばりが「ブルー・シャトウ」の大ヒットを飛ばしたジャッキー吉川とブルー・コメッツの5人を従えて歌った楽曲。元は美空ひばり芸能生活20周年記念アルバム『歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念』に収録する為に制作された曲で、シングル盤を発売する際にひばりのスタッフの中で評判が高く、ひばりの母・加藤喜美枝もシングル化を推したことから、アルバムからのシングル・カットとして発売されることになったという話が残る。
本楽曲はグループ・サウンズの雰囲気を強調しており、歌番組などでは当時30歳だったひばりが初めてミニスカートを着用し、ゴーゴーダンスを踊りながら歌うなど、それまでのひばりのイメージとは大きく異なる楽曲であり、ひばりの新境地が垣間見えた楽曲であった。
真赤な太陽 (美空ひばりの曲)
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4位:250万pt(1967年)リンゴ追分
元々は、1952年4月にラジオ東京(現TBSラジオ)の開局を記念して放送されたラジオドラマ『リンゴ園の少女』の挿入歌として製作され、同年11月に『リンゴ園の少女』が当時15歳だったひばりの主演によって映画化された際にも、本楽曲が主題歌として使用された。
リンゴ追分
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2022年2月19日放送の「子ども博士が選ぶ『昭和の泣ける名曲』」では何と1位に輝きました。昭和後半の楽曲が多いランキングにおいて、昭和27年の楽曲が首位なのは、楽曲の強さを物語っています。
3位:270万pt(1966年)悲しい酒
美空ひばりの代表曲の一つであり、石本美由起作詞、古賀政男作曲による。 メロディーは「影を慕いて」と同様に「美しき天然」から流用している。145万枚を売り上げるミリオンセラーとなり、美空ひばりの全シングル売上では第3位となっている。また、1966年の『第17回NHK紅白歌合戦』では紅組のトリとして本曲が歌唱された。
悲しい酒
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2位:340万pt(1964年)柔
美空ひばりは表題曲で1965年の「第7回日本レコード大賞」を受賞した。またひばりは、『NHK紅白歌合戦』に1964年の『第15回NHK紅白歌合戦』、翌1965年の『第16回NHK紅白歌合戦』と2年続けて表題曲で出場し、どちらも紅組トリを務めた(第16回は大トリ)。なお、これに関し各マスコミから「2年連続同じ歌を歌うとは非常識だ」とのバッシングもあった。
表題曲が発売された1964年に開催され、初めて柔道が正式競技に採用された東京オリンピックともあいまって、翌1965年にかけて爆発的にヒットした。発売から半年足らずで180万枚以上を売り上げる大ヒットとなったが、これはひばりの全シングルの中で最高売り上げ記録となっていた。2019年現在は195万枚を売り上げ、シングル売上では1989年に発売された「川の流れのように」に次ぐヒットとなっている。「テレビ主題歌が演歌では当たらない」というジンクスを破り、大ヒットとなった。
柔 (美空ひばりの曲)
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1位:420~590万pt(1989年)川の流れのように
「川の流れのように」は、1989年1月11日に発売された、日本の歌手、美空ひばりの生前最後に発表されたシングル作品である。日本の歌百選に選定されている。
1989年(平成元年)1月11日に日本コロムビアより発売されたが、同年6月24日、ひばりは52歳で死去し、結果的に本楽曲は遺作となった。没後にシングル盤は売上を伸ばし、150万枚を売り上げるミリオンセラー(オリコンによる集計では41.8万枚)となり、1964年の「柔」に次ぐヒット曲となった。その後も売り上げを伸ばし、2019年時点では205万枚を売り上げ、「柔」を上回り自身最大売上のシングルとなっている。
川の流れのように
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再生回数の調整率をどうするかで得点は前後しますが、いずれにしても「美空ひばり」の全楽曲の中で最も高得点なのが『川の流れのように』であり、累計得点は400~600万ptに達します。これは、1980年代後半の楽曲の中では断然トップであると共に、日本音楽史上でも屈指の高得点です。実に160以上ものアーティストにカバーされ、平成・令和における国民的愛唱歌となっています。
ちなみに「美空ひばり」さんは、「NHKのど自慢」などの音楽番組でも定番ですので、まだご存知ない曲がある方はぜひこの機会に聴いてみて下さい!
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