Rxヒットアーティスト列伝「東海林太郎」

【はじめに】
この記事では、私の「Rxヒット指標」に基づき歌手/アーティストのヒット曲を振り返っていきます。今回取り上げるのは「東海林太郎(しょうじ・たろう)」さんです。

Rxヒット指標にみる「東海林太郎」さんの人気曲

まず、私(Rx)のヒット指標にみる「東海林太郎」さんの代表曲をみていきましょう。(↓)

発売累計pt
レコード

再生

カバー
曲名
1934/02100501040赤城の子守唄
1934/11 70201040国境の町
1935/04110401060旅笠道中
1935/10 904050野崎小唄
1938/12 602040麦と兵隊
1939/11 901080名月赤城山
集計方法や企画の主旨については、下の記事に纏めてありますので初見の方はぜひご覧ください(↓)

2位:100万pt(1934年)『赤城の子守唄』

日本ポリドール蓄音機株式会社(現:ユニバーサルミュージック (日本))で吹込んだ「赤城の子守唄」が1934年2月に新譜で発売され、空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし、東海林も歌手としての地位を確立した。

東海林太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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赤城の子守唄」(あかぎのこもりうた)は昭和9年(1934年)2月に日本ポリドール蓄音器株式会社(のちのポリドール)により発表された歌謡曲の題名。作詞は佐藤惣之助。作曲は竹岡信幸東海林太郎が歌った。

この曲は、幕末の侠客国定忠治を主題とした松竹制作の時代劇映画『浅太郎赤城の唄』(高田浩吉主演)の主題歌として作られた。哀愁ある旋律と歌詞は大ヒットし、東海林太郎の出世作となった。曲の人気さは物すごく、松竹も映画のタイトルを『赤城の子守唄』に変えた途端、大入りになったほどである。のち春日井梅鴬によって浪曲としても広まった。東海林にとっては思い入れの深い曲で、重要なレパートリーの一つとして生涯歌い続けた。

昭和8年(1933年)12月に作詞。昭和9年(1934年)1月に東海林がレコードに吹き込み、同年2月にレコード発売。その人気ぶりから、蓄音機の普及台数が100万台の時代にレコードが50万枚売れたともいわれる。

赤城の子守唄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1位:110万pt(1935年)『旅笠道中』

日本ポリドール蓄音機株式会社で吹込んだ「赤城の子守唄」が1934年2月に新譜で発売され、空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし、東海林も歌手としての地位を確立した。
その後ポリドール専属となり、澄んだバリトンを活かして「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「野崎小唄」「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡で東海林太郎時代を到来させた。

・「旅笠道中」1935年(昭和10年) – 40万枚を売り上げた

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3位:90万pt(1939年)『名月赤城山』

戦時下での最大ヒットで、レコード売上を含まない形で90万ptを達成。カバーアーティスト数では東海林太郎さん楽曲の中でトップクラスなことを考えると、『野崎小唄』等を上回りTop3相当という見方ができそうです。

もちろん、『国境の町』や『野崎小唄』、『麦と兵隊』の著名がまさる可能性もありますが、YouTubeの動画の再生回数などから見ても、多くの楽曲が大差ないぐらいに話題を集め、戦後も愛され続けてきたことが窺える結果となっています。

そして、何かのきっかけで順位が入れ替わる可能性もあるため、時々再集計していこうと思いますね。

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