ウィキペディア小旅行「唐(王朝)」

【はじめに】
皆さん「Wikipediaで小旅行」へようこそ、ツアーコンダクターのRxです。今回の目的地は中国王朝の「唐王朝」です。素敵な旅をお過ごし下さい。

概要

(とう、拼音: Táng、618年 – 907年)は、中国王朝である。李淵を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア北東アジア諸国(朝鮮半島渤海日本など)に、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国である。

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日本では遣唐使の派遣が有名で、894年(寛平6年)に菅原道真の意見によって遣唐使を中止するまでは積極的な交流をしていた。首都は長安に置かれた。

690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。

日本では唐の滅亡後も唐土の語はそれ以降の王朝、さらには外国全般を漠然と指す語として用いられた。しかし、天竺同様昔の呼称のため、正確に対応するわけではない。詳しくは中国を参照のこと。

国号

国号の「唐」は山西省を中心とする地域の古い呼び名で、この地域には古代にはが建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があったとされる。

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また、の時代には周公旦(武王の弟)が討伐して、滅ぼした武王の子・唐叔虞が立てたの別称としての唐とは別に、春秋時代に今の湖北省の一部にを国号とする小国があったことが知られ、と盟約を結ぶも、紀元前505年によって滅ぼされた(『春秋左氏伝』)。

歴史

唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史をさらに初唐盛唐中唐晩唐の4期に細分して通観する。

初唐

7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき、煬帝のいとこであり、太原留守であった李淵義寧元年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城を陥落させると、煬帝を太上皇帝に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌隋義寧2年、唐武徳元年に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位、を建国した。

建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを李淵の次子李世民が討ち滅ぼしていった。勲功を立てた李世民は、626年クーデターを起こすと李淵の長男で皇太子李建成を殺害し実権を握った。李淵はその後退位して、李世民が第2代の皇帝となる。

李世民は北方の強国突厥を降してモンゴル高原羈縻支配下に置き、北族から天可汗テングリカガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては三省六部宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮でまで帝王学の教科書として多く読まれた。

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唐の基礎を据えた李世民の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により国号をと改めた。

中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招いた。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、神龍元年、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に即き、周は1代15年で滅亡した。

しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼ぶ。

盛唐(8世紀初頭 – )

712年先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され即位した(玄宗)。翌年、太平公主を処刑した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となる。この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及んだが、751年トランスオクシアナの支配権を巡ってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。

玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていた安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称した。

都の長安を占領され玄宗はに逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(太子の葉護ら)によって、763年に乱を平定した。9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。以降、唐は次第に傾いていく。

軍事力増強のために藩鎮を増やした結果、内地の節度使も増加した。各地に節度使が置かれた状態は、後の五代十国時代まで続いた。

中唐(8世紀半ば – )

安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。

これに対し、中興の祖と謳われた憲宗は、中央の禁軍を強化することで中央の命令に服さない節度使を討伐し、朝威を回復させた。しかしその後不老長寿の薬といわれた丹砂(水銀)をはじめ怪しげな仙薬を常用するようになると、精神に不安定をきたして宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺された。
孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」と呼ばれる策略を練ったが失敗し、かえって宦官の専横を招いた。 また、文学においてはそれまで順調な発展を遂げていた唐詩にブレーキがかかる時代でもある。特に安史の乱以後に徐々にその兆しが表れ始める。

晩唐(9世紀半ば – 10世紀初頭)

文宗の弟の武宗廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図った。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれる。

この頃から、859年裘甫の乱868年龐勛の乱に代表される、行政の改善を要求する武装闘争が各地で起きた。874年頃から黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及、黄巣は長安を陥落させると中国語版)を建て、皇帝就位を宣言した。しかし黄巣軍の構成員は多くが貧民出で政務を執行できず、略奪を繰り返して憎悪を買った挙句に長安を去った。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から全忠の名前を賜り、以後朱全忠と名乗る。この頃になると唐朝の支配地域は主に首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小し、藩鎮からの税収も多くが滞っていった。

河南地方の藩師となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して、唐の権威を借りて勢力を拡大した。907年天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力を持たず、中国は五代十国の分裂時代に入る。

唐の滅亡により、中国は東アジア文明をリードする力を失い、契丹日本など、唐の文化の影響を受けた周辺の諸国は独自の発展をしていくこととなった。

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