【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「ラジオNIKKEI賞」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。
ラジオNIKKEI賞(ラジオニッケイしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が福島競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GIII)である。
競走名は、寄贈賞を提供している日経ラジオ社が運営している短波放送局の愛称「ラジオNIKKEI」に由来している。
ラジオNIKKEI賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昭和中盤:【残念ダービー】中山4歳S → 日本短波賞
「ラジオNIKKEI賞」は、何度か名称変更の変遷を辿っていますが、既に1959年には「日本短波賞」という名称だったことからも分かるとおり、結びつきが長いレースです。
それに加えて、前身時代から昭和・平成を通じて「残念ダービー」というあだ名が付けられてきましたが、この由来も極めて古いようなので、合わせてタイムワープして振り返っていきましょう。
前身である第1回「中山4歳S」が開催されたのは、1952年のことでした。まだ、JRAが発足する前の国営競馬の時代で、重賞戦線も大きく今とは様相が違いました。
八大競走以外の現3歳限定重賞は以上のとおりで、発足とその翌年は「皐月賞」の前哨戦としての位置づけでした。初回はアサトモ、2回目は牝馬チエリオが制して、どちらも皐月賞に出走しています。
それが、第3回(1954年)には、日本ダービーの1ヶ月後の6月下旬開催となり、ほぼ昭和の終わり位までこの時期での開催が続くことになります。そして、この時期移動初回を制したのがなんと、同年の日本ダービー馬である【ゴールデンウエーブ】だったのです。
史上初にして唯一のダービー馬優勝に終わった第3回の翌年から、他のレースにはまず見られない出走条件がこの「中山4歳S」に課されることになります。それこそが、
- 1955年:出走資格に「除東京優駿競走の勝馬」の条項が追加される。
ピンポイントで1頭の出走を除外するというものです。戦後10年、同年の日本ダービー馬以外のみが出走可能なレースが成立しました。その結果、オークス馬の【フエアマンナ】が勝ったり、春の牡馬2冠で好走できなかった【ヒデホマレ】や【オンワードゼア】がこのレースで重賞勝利を飾っています。
昭和30年代頃から「残念ダービー」という渾名が呼ばれ始め、平成の時代にまで伝わっているのです。
出走資格は1955年から1967年まで「除東京優駿競走の勝馬」と記され、東京優駿(日本ダービー)の優勝馬は出走できなかった。そのため敗者復活戦的な性格を帯び、規定が廃されてからも「残念ダービー」の俗称が残った。
ラジオNIKKEI賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
これと同時にレース名にも1950年代終わりには変化が訪れます。前述した「日本短波賞」の付記です。
- 1959年 – 名称を「日本短波賞 中山4歳ステークス」に変更。
- 1961年 – 名称を「日本短波賞」に変更。
時代背景を抑えるために、今度は「ラジオNIKKEI」のウィキペディアを読んでおきましょう。
1954年8月27日 – 3.925Mc (JOZ)と6.055Mc (JOZ2)の2波で開局。午前6時半より放送開始。株式市況もこの日より放送開始。
1956年5月5日 – 日本初の連日『プロ野球ナイトゲーム中継』放送開始( – 1961年まで)
日経ラジオ社
当時から中波放送局にもプロ野球中継番組は存在したが、現在のような連日放送ではなかった。このため、日本短波放送のナイトゲーム中継を受信しようと野球ファンは短波放送受信機を自作したり、中波ラジオに受信周波数帯域を短波に変換する装置「NSBチューナー」を接続したりして番組を受信した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
短波放送という特殊な環境下にあって聴取者を得るため、放送初日から始まった株式市況の他、1956年にスポーツ中継の本格化を果たします。「中央競馬実況中継」に先駆けること約半年、『野球中継』の連日放送が好評を博したため、それを競馬中継に当てたという経緯があったようです。
今や経済と競馬の2本柱な「ラジオNIKKEI」ですが、この競馬中継が定着していく過程の中で昭和30年に「日本短波賞」という名称に変わっていくこととなったのでしょう。
昭和後半:マルゼンスキーが優勝 → 「ラジオたんぱ賞」に
昭和の後半になると、少しずつレースの形態が変わっていきます。具体的に言うと、
以上の点でしょうか。1968年に出走資格の条項が削除されたため、ルール上は日本ダービー馬が出走することも可能となった訳なのですが……すっかり「残念ダービー」としての印象が強くなってしまった(格下感のある)レースに臨むインセンティブも低くなっていたため、ダービー馬が敢えて出走することはありませんでした。
そして、1978年までは関東(中山か代替で東京)開催でしたが、1979年には福島競馬場に移設され、まさに夏競馬の現3歳重賞としての地位が確立されることになります。
- 1965年ベロナ
前年に続く牝馬優勝。当時、大蔵大臣だった田中角栄(名義は妻)の持ち馬で、優駿牝馬(オークス)を制した翌月に勝利。後に予後不良に。
- 1968年アサカオー
東京競馬場改装のためこの年だけ4月開催。後の皐月賞馬・マーチスに勝利。春2冠はともに3着も、秋には菊花賞を制し、同年の年度代表馬に。
- 1969年ハクエイホウ
ダービーで27番枠からダイシンボルガードの3着。日本短波賞とクモハタ記念を制して「最良スプリンター」選出。
- 1972年スガノホマレ
生涯で5度のレコード勝ち(1100~1800m)。ダービーでは23着大敗も、距離短縮の日本短波賞で後の菊花賞馬・イシノヒカルに勝利。
- 1973年イチフジイサミ
現2歳時は10戦未勝利。ダービーでは、デビュー戦でも戦ったタケホープの2着と12番人気で激走し、初黒星のハイセイコーを3着に下す。
- 1974年スルガスンプジョウ
条件戦ぼたん賞で3馬身半差勝利し、日本ダービーでは5番人気6着。単勝1.1倍に応える横綱競馬で日本短波賞を勝利。
この様に日本ダービーに敗れるも、見どころがあったり適性距離だったりといった馬が活躍をしたことから、出走資格が日本ダービー馬に開放されて以降も「残念ダービー」の名が残りました。
そして、1977年(第26回)、最も『残念』の名にふさわしい王者が誕生します。それが、22年ぶりに58kgで優勝することとなった【マルゼンスキー】です。
外国産馬も1972年 – 1983年、1992年 – 2000年、および2005年以降は混合競走として出走資格が与えられているが、左記以外の期間は外国産馬が出走できなかった。
ラジオNIKKEI賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウマ娘などでも語り継がれている同馬ですが、当時は持込馬がクラシックなどに出走できず、膝の怪我がなくても「日本ダービー」に出走することは出自的に叶いませんでした。そうした意味で、残念ダービーという渾名を冠したレースで、単勝1.0倍の断然1番人気に応え、後の菊花賞馬プレストウコウに、距離が違うとはいえ7馬身差の圧勝を果たしたことのインパクトは計り知れませんでした。
このように時代が移ろうに連れ、「残念ダービー」という渾名が、意味を変えながらファンの脳に定着していった訳だと思うのですが、1979年に福島開催となるとジワジワ一線級の挑戦が減っていきます。
1980年に皐月賞馬のハワイアンイメージが、1986年にもダイナコスモスが58kgで優勝し、1981年は菊花賞馬となるミナガワマンナが2着と善戦していますが、クラシックホースの挑戦は皆無となって、グレード制の導入当初からGIIIとして格付けされ、ローカル重賞として現在に至ります。
平成・令和時代:ラジオNIKKEI賞・3歳のハンデ戦に
平成に入ると1991年【ツインターボ】、1992年【シンコウラブリイ】などが勝利しますが、57kg以上の馬が勝つことはなくなり、この舞台で重賞初勝利という馬が目立つようになりました。
また、1979年から四半世紀あまり続いていた「ラジオたんぱ賞」という名称が、2006年から「ラジオNIKKEI賞」に変わり、そのタイミングで斤量が別定からハンデ競走に変わります。当時としては3歳馬のハンデ戦(しかもレースの格的に重賞クラスの馬が挑戦しづらい中で)というのは画期的でした。
その2007年には、ニュージランド生産の【ロックドゥカンブ】が52kgで制して話題となりました(結局、セントライト記念まで無傷の4連勝とし、菊花賞は1番人気に支持され3着)。
年 | レースR | 勝ち馬 | 備 考 |
---|---|---|---|
2016 | 105.00 | ゼーヴィント | |
2017 | 104.00 | セダブリランテス | |
2018 | 108.25 | メイショウテッコン | 2着フィエールマン |
2019 | 103.50 | ブレイキングドーン | 9着ヒシイグアス |
2020 | 106.25 | バビット | 2着パンサラッサ |
2021 | 101.50 | ヴァイスメテオール | 12着アサマノイタズラ |
2022 |
一般に、GIIIの目安が105ポンドとされていますが、ハンデ戦ということを加味しても、その目安に達さない年が多いということで、中山で開催されていた「残念ダービー」の頃とはそのレースの立ち位置が大きく変わってしまったように感じます。
ただその一方で、近年だと、2018年のフィエールマン、2020年のパンサラッサの様に、国内外で活躍する馬が実はこのレースに出走していたというパターンもあるため、3歳秋以降の上がり馬を探す意味では極めて面白いレースかも知れません。
ハンデ戦ではあるものの、極端なハンデ差がつくほどの実績がある馬は少ないため、まるで別定戦ぐらいの斤量差となる年も珍しくありません。そうした意味では、「夏競馬」としてイメージするハンデ戦とは一線を画しています。ぜひそういった特徴を踏まえてレースを観戦して頂ければと思いますね。
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