競馬歳時記【9月3週】「セントライト記念」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「セントライト記念」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

セントライト記念(セントライトきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬重賞競走GII)である。

セントライト記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下省略 )

昭和時代

1940年代:初の馬名を冠した重賞として創設

戦前唯一、日本初の三冠馬として名高い「セントライト」ですが、恐らく「セントライト記念」という重賞がなければ、21世紀までその名が一般層まで伝わらなかったかも知れません。

競走名のセントライトは1941年に横浜農林省賞典四歳呼馬(現・皐月賞)、東京優駿、京都農林省賞典四歳呼馬(現・菊花賞)を制し、日本競馬史上初の三冠馬となった。種牡馬となってからもオーライト(第15回平和賞優勝)やオーエンス(第21回天皇賞優勝)などの活躍馬を輩出し、1984年にはその功績を称えて顕彰馬に選出された。

日本競馬史上初の三冠馬であるセントライトを記念して1947年に創設された、4歳(現3歳)馬限定の重賞競走。創設時は東京競馬場の芝2400mで別定戦として行われていた

( 同上 )

セントライトが現9歳だった1947年というのは、戦争を終えて初めて東京優駿(日本ダービー)が開催された年です。この年の春にはセントライトの産駒「オーライト」が平和賞(現・天皇賞春)を制し、戦後復興の競馬の企画の一つとして「セントライト記念」が創設されました。

ちなみにこの年に同じく(中山競馬と縁のあった)カブトヤマの名を冠した「カブトヤマ記念」も創設されています。カブトヤマは、産駒のマツミドリが戦後初のダービー馬となり、史上初めて「日本ダービー馬から日本ダービー馬」が実現したことが評価されたものといった印象です。

以下に、中央競馬で馬名を冠した重賞競走のざっくりとした表を作りました。(トキノミノルは共同通信杯の副題であるとか、シュンエイ記念はオープンに降格してるとか、タマツバキ・セイユウは地方で重賞として2007年まで開催とか細かい点のご指摘はご遠慮下さいませ💦)

馬名生年競走繁殖創設廃止
セントライト19381947現行
カブトヤマ193019472003
クモハタ193619511980
タマツバキ194519551995
トキノミノル19511969現行
セイユウ195419741995
シュンエイ195519741995
ディープインパクト20022020現行

弥生賞にディープインパクトの名が入ったのが没後翌年で、現役時代の活躍からは15年後。そうしてみるとセントライトの三冠達成6年後の重賞創設はその後と比較しても最速です。特に、戦後になって、その評価が高まっていた時期だったことも影響しているでしょう。

そして開催時期に関しては、創設当初は全くもって一貫性がありませんでした。秋に開催される重賞として「セントライト記念」と「カブトヤマ記念」が関東で設定。「菊花賞」は関西で開催されるレースでしたが、当時はまだ関東馬が関西遠征を容易にできる状況ではなかったため、関東と関西でそれぞれ目標となるレースが設けられている様な感じだったのかと思います。

レース名1947年1948年1949年
セントライト記念①10月12日②11月21日③11月20日
カブトヤマ記念③11月09日①11月03日①10月09日
菊花賞②10月19日③11月23日②11月09日

現3歳牡馬の秋は、関東馬はカブトヤマ記念やセントライト記念、関西馬は菊花賞を目標とするという並行的レーシングカレンダーだった時期です。菊花賞のトライアルとなっていくのは時代が下ります。

1940年代の「セントライト記念」
  • 1947年
    10/12
    イーストパレード

    重賞馬不在とやや寂しいメンバーでの開催。ダービー最下位から巻き返して連勝中だった5番人気のイーストパレードが優勝。翌月の「カブトヤマ記念」では、錚々たるメンバーの中でトキツカゼの2着と健闘。

    ※ちなみにこの年の「カブトヤマ記念」には、春のクラシック4冠を制した馬達が全て出走。関西から変則2冠牝馬のブラウニーも遠征するなど、秋の現3歳馬の頂点を決するレースとなっていました。

  • 1948年
    11/21
    キヨマサ

    1番人気が勝利。2日後の勤労感謝の日には「菊花賞」が行われており、前の週には東京競馬場で「優駿牝馬」が開催されたため、この年も寂しいメンバーに。

  • 1949年
    11/20
    トサミドリ

    5頭立て。他馬より斤量が4kg重かったものの、皐月賞・菊花賞の2冠を制していた【トサミドリ】にとって61kgでは楽勝。兄の名を冠したレースで、弟のトサミドリが7連勝目(その後、中央最長タイの11連勝まで伸びる)。

1950年代:10月・中山開催で菊花賞の前哨戦に

1950年代前半は開催時期が安定しませんでしたが、1956年からは10月上旬の開催が定着。そして、1957年からは東京から中山競馬場に主場が移ります。距離は2400mでしたが、基本的にはこの頃には「菊花賞」の関東での前哨戦という位置づけが強まったと見られます。

1955年までは菊花賞や優駿牝馬に出走しない関東馬による重賞という側面が強かったですが、1956年からは関東馬が秋前半に叩くレースとして見違えるようにレースレベルが上昇します。

1950年代の主な「セントライト記念」
  • 1950年
    10/22
    ウイザート

    春までに11連勝を果たすもクラシックに出走できなかったウイザート。菊花賞にも出走できなかったため、関西馬ながら秋は関東遠征。セントライト記念で生涯唯一、関東の重賞を制覇。

  • 1951年
    11/25
    ミツハタ

    史上最少頭数の3頭立て。しかし、トキノミノル以外には敗れず16戦連対だった【イツセイ】と、そのイツセイを毎日王冠で初めて破った【ミツハタ】という2頭が再び相まみえる実質的なマッチレースの様相。
    菊花賞で初めて連対を外し3着だったイツセイは、先月カブトヤマ記念で5馬身突き放したミツハタに3馬身差をつけられ2着。ミツハタが借りを返す結果に。

  • 1952年
    9/28
    マサムネ

    6戦5勝で3年連続の春2冠馬となった【クリノハナ】。しかし秋競馬では調子を欠き、セントライト記念でも5着と大敗。三冠馬を目指す調整に失敗し、出走を断念。クリノハナの三冠は叶わなかった。

  • 1956年
    10/7
    キタノオー

    オークス馬のフエアマンナ、ダービー馬のハクチカラを抑え、春2冠は共に2着だった【キタノオー】が優勝。本番・菊花賞も優勝し本競走初の菊花賞馬を輩出

  • 1957年
    10/6
    セイユウ(アングロアラブ馬)

    先ほどの馬名を冠した重賞競走にも登場したアングロアラブ馬【セイユウ】が、サラブレッドを相手に優勝。しかも下した相手が、2着に菊花賞馬のラプソデーやマサタカラ、セルローズ、キタノヒカリといった重賞級ばかりという離れ業。

  • 1958年
    10/5
    ヒシマサル

    数十年後のヒシマサルとは異なる初代のヒシマサル。クラシック級を相手に60kgとダービー馬に次ぐ斤量を背負いながらも重馬場でレコード勝ち。

  • 1959年
    10/4
    ハククラマ

    稍重馬場ながら前年のタイムを5秒近く縮めてのレコード勝ち。このレースでの1・2・4・5着馬はそのまま菊花賞でも同じ着順に。

ちなみに、1955年までは牡馬限定戦として開催されており、牝馬が出走できるようになったのは1956年の第10回からだったのだそうです。

1960年代:2200mに短縮、牝馬が初優勝

1960年代に入ると、1960年・キタノオーザ、1963年・グレートヨルカ、1968年・アサカオー、1969年・アカネテンリュウと4頭の菊花賞馬を勝ち馬から輩出。特に1969年の【アカネテンリュウ】は、20世紀における「夏の上がり馬」の代表格のように持て囃されていた時期がありましたが、その一因に夏の北海道で条件戦を連勝し、秋に重賞→八大競走を制したというサクセスストーリーの印象が強かったからと思われます。

グレートヨルカは結果的にメイズイの3冠が叶わなかった菊花賞を制していますし、その翌1964年にはシンザンが3冠を目指して菊花賞に臨んだ訳ですが、ライバルとなった関東馬のウメノチカラ(1着→菊花賞2着)や牝馬2冠馬のカネケヤキ(3着→菊花賞5着)もこのレースを叩いていました。

また、1965年には史上初めて牝馬として【キクノスズラン】が優勝。当時はまだ秋に牝馬限定のレースが設定されていなかったため、初の戴冠を目指して菊花賞に挑戦するも4着と惜敗しています。

1970~80年代:ルドルフが三冠馬に、G3→G2に昇格

1970年代は、秋関東の開幕開催が「東京」の年と「中山」の年で数年置きに変わっていたこともあり、中山2200mか東京2400mでの開催と定まらない時期が続いていました。

1980年代に入ると、中山2200mでの開催に実質固定され、代替開催時は新潟競馬場で2200m戦として開催されることとなりました。そして、昭和の終わり頃になると開催時期が1週間ほど繰り上がり9月下旬に固定されることとなり、ほぼ今の形態が確立されます。

昭和50年代には、イシノアラシプレストウコウサクラショウリモンテプリンスメジロティターンホスピタリテイなど話題性のある八大競走級の馬たちが勝ち馬に名を連ねており、その昭和50年代の最後(1984年)にはグレード制が導入されると「G3」に格付けされます。その年(1984年)に優勝したのが、史上初の無敗の三冠馬となる【シンボリルドルフ】でした。

グレード制導入後3回はG3でしたが、第41回(1987年)からG2に格上げされ、関東の菊花賞トライアルとしての位置づけが確立されました。

平成・令和時代

1990~2000年代:徐々に関西のG2などに流出

1991年はツインターボが、1992年にはライスシャワーが2着となるなど、ウマ娘でも語り継がれる馬が惜敗した「セントライト記念」。しかし、1990年代になると「京都新聞杯」、2000年代には「神戸新聞杯」を選択する関東馬が増え、距離差800mの壁もあって「菊花賞」のトライアルとしての存在感は薄まってしまいます。

1991年に菊花賞への優先出走権が3着まで与えられ、1995年に菊花賞トライアルに指定されたことと逆行する現象が起きてしまい、一線級が出走するレースから、夏の上がり馬がG1への飛躍を目指す舞台という印象に変わっていきました。

2000年代の勝ち馬には、2002年のバランスオブゲーム、2004年の北の雄・コスモバルク、2009年のナカヤマフェスタなどがいる一方で、2001年にはマンハッタンカフェが4着、2006年にはマツリダゴッホが落馬競走中止、2008年には14番人気でスクリーンヒーローが3着など、古馬にかけて活躍する馬もこの舞台を敗れていたりします。

人気薄での勝利や、菊花賞への出走権を持ちながらの回避や、本番・菊花賞での結果が出ないケースが目立つようになり、トライアルとしては関西のG2との差が目立ち始めたのがこの時期です。

2010~20年代:皐月賞馬も菊花賞馬も天皇賞馬も

2010年代に入ると、イスラボニータディーマジェスティなど皐月賞馬が秋緒戦にセントライト記念を選んでいます。

一方で、フェノーメノキタサンブラックのように、スタミナにも強みを持つ馬がこのレースを経由して、古馬ステイヤーの栄誉「天皇賞(春)」を制しています。キタサンブラックは菊花賞馬にも輝きましたよね。

レースR勝ち馬
2016111.75ディーマジェスティ
2017112.50ミッキースワロー
2018110.25ジェネラーレウーノ
2019110.50リオンリオン
2020111.00バビット
2021111.00アサマノイタズラ
2022

直近のレースレーティングをみると、「G2の目安:110ポンド」を超えてはいるものの、G2の平均値は下回っています。

近年はむしろ「菊花賞」を見据えた馬のトライアルだけではなく、中山2200mという舞台設定に魅力を感じる(神戸新聞杯や毎日王冠ではなく)3歳馬陣営が選んできているのかなという印象です。

古くは関東馬の目標であり、菊花賞の関東馬のトライアルとなり、今は様々な路線の交差点となっている「セントライト記念」。戦前唯一の牡馬三冠馬で、戦後に創設され最古の歴史を持つ馬名を冠した重賞競走に、秋競馬の本格的な訪れを感じて参りましょう。

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