【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「アメリカジョッキークラブカップ」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。
アメリカジョッキークラブカップ(American Jockey Club Cup)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GII)である。
新聞の紙面上などでは「AJCC」や「AJC杯」と略記されるほか、JRAでは「アメリカJCC」の表記も用いられることがある。正賞はアメリカジョッキークラブ賞。
アメリカジョッキークラブカップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
昭和時代:高額の新年競走として創設
アメリカジョッキークラブカップについて、ウィキペディアには幾つか興味深い「創設当時のエピソード」が書かれています。引用しましょう。(↓)
1960年に日米友好の一環として、ニューヨークジョッキークラブから優勝杯の贈呈を受け創設された。
第1回は「新年を飾る競走」として1月5日に芝2000mのハンデキャップ競走で行われたが、1961年には当時1月中旬に行われていた「金杯(現・中山金杯)」と施行時期を入れ替え、負担重量を別定、施行距離を芝2600mに変更。
1960年代当初の賞金は非常に高額に設定され、このレースよりも賞金が高いのは有馬記念、東京優駿、天皇賞、菊花賞のみという時期もあった。
アメリカジョッキークラブカップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創設の初回のみ特別なのでそれを除くと、2回目以降は、今と同じ1月の後半に中山競馬場で開催されており、距離は当時の「有馬記念」と同じ2600mでした。
回数 | 施行日 | 競馬場 | 距離 | 優勝馬 | 性齢 | タイム |
---|---|---|---|---|---|---|
第1回 | 1960年1月5日 | 中山 | 2000m | オンワードベル | 牡4 | 2:04.9 |
第2回 | 1961年1月22日 | 中山 | 2600m | ヤシマフアースト | 牡4 | 2:43.6 |
第3回 | 1962年1月21日 | 中山 | 2600m | タカマガハラ | 牡5 | 2:43.3 |
第4回 | 1963年1月20日 | 中山 | 2600m | コレヒサ | 牡4 | 2:42.4 |
第5回 | 1964年1月19日 | 中山 | 2600m | スズトツプラン | 牡5 | 2:46.8 |
第6回 | 1965年1月17日 | 中山 | 2600m | アサホコ | 牡5 | 2:42.5 |
第7回 | 1966年1月16日 | 東京 | 2600m | ハクズイコウ | 牡5 | 2:42.0 |
賞金面でいえば、前年の有馬記念と同額の200万円(1960年は有馬が300万円に増額され、1961年のAJCCは250万円だったとのこと)に設定されており、間隔は1ヶ月弱と短かったですが、「AJCC」は「有馬記念」の余韻を汲んで新年に行われる『スーパーG2』的な位置づけだったことが分かります。
さて初回の1960年だけ1月5日の開催でした。今の「中山金杯」が行われる日付であり、第2回からは金杯と位置づけが入れ替わるため、例外的な開催ですが、いずれにしても当初は『年始を飾る重賞』として今以上に豪華な扱いだったことが窺えます。
初回は、年末の「クモハタ記念」を勝った皐月賞馬【ウイルデイール】が60kgを背負って1番人気の3着となり、同い年で55kgを背負ったオンワードベル(有馬記念3着)やシゲミノルがワンツーを決めていました。当時、2週前の有馬記念や1週前のクモハタ記念からの連闘が珍しくありませんでしたが、これは有馬記念に伍する高額賞金があったことの影響が大きいでしょう。
そして、レース間隔が約1ヶ月と伸びた第2回には、前年の有馬記念を制した牝馬【スターロツチ】を始め、現4歳勢ではホマレボシ、キタノオーザ、マツカゼオー、古馬勢では前述のオンワードベルやヤシマフアースト、オーテモンなどが出走。250万円の高額賞金によって八大競走級のメンバーが揃っていました。
当時はむしろ、現明け4歳勢は「トライアル → 菊花賞 → 有馬記念orクモハタ記念」、古馬勢は「トライアル → 天皇賞秋 → 有馬記念」というローテーションを中心に秋を戦い、その延長線上に「AJCC」が設定されていて、秋シーズンの最終戦といった印象が強かったのかも知れません。だからこそ、この1月に「有馬記念」と似た条件で行われていたのです。
当時のレーシングカレンダーを見ても、古馬は4月の「天皇賞(春)」まで大レースがない上に天皇賞を勝った馬は勝ち抜き制で出走するのも叶わないと、初夏まで目標となるレースがありませんでした。年末を戦って年明けのこのレースを最後に休養するというのがステータスだった時代と、今とでは存在意義が大きく異なる点は後ほど述べたいと思います。
第6回 | 1965年1月17日 | 中山 | 2600m | アサホコ | 牡5 | 2:42.5 |
第7回 | 1966年1月16日 | 東京 | 2600m | ハクズイコウ | 牡5 | 2:42.0 |
第8回 | 1967年1月22日 | 中山 | 2500m | スピードシンボリ | 牡4 | 2:37.3 |
第9回 | 1968年1月21日 | 中山 | 2500m | ニウオンワード | 牡4 | 2:39.0 |
第10回 | 1969年1月19日 | 中山 | 2500m | アサカオー | 牡4 | 2:38.9 |
第11回 | 1970年1月18日 | 東京 | 2500m | スピードシンボリ | 牡7 | 2:34.9 |
第12回 | 1971年1月17日 | 東京 | 2500m | アカネテンリュウ | 牡5 | 2:36.2 |
第13回 | 1972年4月30日 | 東京 | 2400m | メジロアサマ | 牡6 | 2:28.4 |
第14回 | 1973年1月21日 | 東京 | 2400m | オンワードガイ | 牡5 | 2:30.1 |
第15回 | 1974年1月20日 | 東京 | 2400m | タケホープ | 牡4 | 2:27.5 |
昭和40年代は、距離が2600→2500→2400mと徐々に短縮され、1970年代は年始が東京から始まっていたことによって「東京2400m」での開催となっていきます。1970年代一杯この条件で続きました。ただ1着賞金は有馬記念の半分程度となっていき、レース間隔の関係もあって徐々に頭数も減少して、渋い馬たちが大半を占めるようになっていきました。
1974年には1番人気の【ハイセイコー】が体調不良のためブービーに敗れ、再びライバル【タケホープ】に後塵を拝する結果となっていますが、この頃まではまだ有馬記念クラスの馬が積極的に挑戦する舞台として機能していました。
第16回 | 1975年1月19日 | 東京 | 2400m | ストロングエイト | 牡6 | 2:31.9 |
第17回 | 1976年1月25日 | 東京 | 2400m | ホワイトフォンテン | 牡6 | 2:28.7 |
第18回 | 1977年1月23日 | 東京 | 2400m | グリーングラス | 牡4 | 2:26.3 |
第19回 | 1978年1月22日 | 東京 | 2400m | カシュウチカラ | 牡5 | 2:28.9 |
第20回 | 1979年1月21日 | 東京 | 2400m | サクラショウリ | 牡4 | 2:29.0 |
第21回 | 1980年1月20日 | 中山 | 2500m | カネミカサ | 牡6 | 2:37.1 |
第22回 | 1981年1月18日 | 中山 | 2500m | ホウヨウボーイ | 牡6 | 2:37.5 |
第23回 | 1982年1月24日 | 中山 | 2500m | アンバーシャダイ | 牡5 | 2:34.3 |
第24回 | 1983年1月23日 | 中山 | 2500m | アンバーシャダイ | 牡6 | 2:35.4 |
第25回 | 1984年1月22日 | 中山 | D1800m | シュウザンキング | 牡5 | 1:52.6 |
第26回 | 1985年1月20日 | 中山 | 2200m | サクラガイセン | 牡5 | 2:14.4 |
第27回 | 1986年1月19日 | 中山 | 2200m | スダホーク | 牡4 | 2:13.3 |
第28回 | 1987年1月25日 | 中山 | 2200m | ミホシンザン | 牡5 | 2:15.4 |
第29回 | 1988年1月24日 | 中山 | 2200m | カシマウイング | 牡5 | 2:13.4 |
なお、アンバーシャダイが2年連続、有馬記念連対からこのレースに挑み、史上初の連覇を成し遂げたのが最後の中山2500m時代でした。まさに「有馬記念」との接続が非常に良かった時代の最終盤です。
転換点となったのは1984年の大改革です。それまで長距離気味だった「AJCC」が中距離に短縮されたのです。1984年のダート変更は度外視すれば、1985年からは2200m戦となり「有馬記念」とは少し違って、2000mの「天皇賞(秋)」などの中距離路線の馬も戦えうる舞台となっていきます。
平成・令和時代:年始初の別定G2として価値を維持
年明けの古馬路線は、東西の金杯に始まり、1月後半にはG2が複数開催されます。西の日経新春杯はハンデ戦である一方で、このAJCCは別定戦であるため、そこそこの実績馬も出走しやすい傾向がありました。伝統的に『ここで復活』を遂げる馬の存在が目立つ印象です。
第39回 | 1998年1月25日 | 中山 | 2200m | メジロブライト | 牡4 | 2:15.3 |
第40回 | 1999年1月24日 | 中山 | 2200m | スペシャルウィーク | 牡4 | 2:16.8 |
第41回 | 2000年1月23日 | 中山 | 2200m | マチカネキンノホシ | 牡4 | 2:13.4 |
第42回 | 2001年1月21日 | 中山 | 2200m | アメリカンボス | 牡6 | 2:13.8 |
第43回 | 2002年1月20日 | 東京 | 2200m | フサイチランハート | 牡5 | 2:13.7 |
第44回 | 2003年1月26日 | 中山 | 2200m | マグナーテン | 騸7 | 2:12.5 |
第45回 | 2004年1月25日 | 中山 | 2200m | ダンツジャッジ | 牡5 | 2:15.5 |
第46回 | 2005年1月23日 | 中山 | 2200m | クラフトワーク | 牡5 | 2:11.4 |
第47回 | 2006年1月22日 | 中山 | 2200m | シルクフェイマス | 牡7 | 2:13.2 |
第48回 | 2007年1月21日 | 中山 | 2200m | マツリダゴッホ | 牡4 | 2:12.8 |
平成年間に入るとやや勝ち馬が地味になる傾向が顕著だったのですが、平成10年代に入ると、メジロブライトやスペシャルウィークなど有馬記念を避けた馬が間隔をあけて年明けのこのレースに照準を絞って調整していて完勝したこともありました。その後は「G2番長」といったイメージの馬が名を連ねていますし、初重賞を飾った【マツリダゴッホ】は年末の有馬記念に繋がりました。
2011年のトーセンジョーダン、2012年のルーラーシップ、2020年のブラストワンピースなどG1級の馬も時折勝っていますが、基本的にはすっかり『G2』としての地位となっています。
第57回 | 2016年1月24日 | 110.25 | ディサイファ | 牡7 | 2:12.0 |
第58回 | 2017年1月22日 | 110.25 | タンタアレグリア | 牡5 | 2:11.9 |
第59回 | 2018年1月21日 | 111.75 | ダンビュライト | 牡4 | 2:13.3 |
第60回 | 2019年1月20日 | 114.25 | シャケトラ | 牡6 | 2:13.7 |
第61回 | 2020年1月26日 | 113.25 | ブラストワンピース | 牡5 | 2:15.0 |
第62回 | 2021年1月24日 | 113.75 | アリストテレス | 牡4 | 2:17.9 |
第63回 | 2022年1月23日 | 113.25 | キングオブコージ | 牡6 | 2:12.7 |
平成時代の終盤は「日経新春杯」の方がレートが上なこともありましたが、上にレースレーティングを併記した通り、2019年以降は高レーティングが続いており、113~114ポンド付近となっていることは注目に値します。
当初は有馬記念と同額だった1着賞金は約10分の1にはなってしまったものの、有馬記念などを戦った後も調子の良い馬がここを使ったり、或いは有馬記念には距離が長い中距離の一流馬が出走したりして『G2』としての地位は守っています。
ただやはり、「秋を戦った一流馬が最終戦」として戦っていた昭和中盤と異なり、春の天皇賞の前にも挑戦しやすいG1が国内外で急増しています。むしろジャパンCを最後に有馬記念すらも休養に当てて、春から始動する馬が増えた2010年代にあって、60年前に設定されたレーシングカレンダーをそのまま維持することが未来永劫正しいのかは判断が分かれそうです。
「パート1国」となって重賞をカンタンに新設できなくなった現代にあって、ひょっとするとタイミングをみて他の役割を持たせるべく開催時期の変更や「G1」を見据えた模様替えをすることもあり得るかも知れません。それも出来るように、『伝統のG2』の地位を保ち続ける必要がありましょう。今年はどの馬がこの舞台で年明けを飾るのか注目していきましょう。
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