競馬歳時記【12月2週】「中日新聞杯」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「中日新聞杯」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

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中日新聞杯は、日本中央競馬会(JRA)が中京競馬場で施行する中央競馬重賞競走GIII)である。寄贈賞を提供する中日新聞社は、愛知・東京・石川・静岡に本社を置く新聞社。

中日新聞杯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昭和時代:砂から芝へ、そして父内国産馬限定戦へ

  • 1965年 – 5歳以上の馬による重賞競走として「中日杯」の名称で創設、中京競馬場の砂1800mで施行。
  • 1966年 – 競走名を「中日新聞杯」に変更。
  • 1981年 – 父内国産馬限定競走となる(2007年まで)。
  • 1984年 – グレード制施行によりGIIIに格付け。

1960年代:中京競馬場の砂コースで開催

1970年代まで、中京競馬場は砂コースを中心とし、重賞(中京記念など)も砂コースで行われていました。1965年に創設された「中日杯」も砂コースで開催され、真冬から春にかけての芝を保護すべき時期の裏開催の重賞として開幕します。

回数施行日距離優勝馬性齢タイム
第1回1965年2月14日砂1800mバリモスニセイ牡41:53.5
第2回1966年2月13日砂1800mアオバ牡41:53.6
第3回1967年3月12日砂1800mゲンカイ牡41:53.5
第4回1968年3月3日砂1800mトミマサ牡41:54.4
第5回1969年1月26日砂1800mハクセンショウ牡51:52.0

第1回を勝ったのは【バリモスニセイ】。前年の京都杯で同期のシンザンを2着と破って以来の重賞3勝目でした。その後は、明け現4歳馬で条件戦を戦ってきたような馬がコース相性などもあって重賞初制覇を果たす舞台となっていきます。1969年には、ハクセンシヨウが60kgを背負いレコード勝ちを収めて、初めて明け5歳馬が勝ちますが、砂コース時代は4歳馬が圧倒的に優勢でした。

なお、第2回からは「中日新聞杯」となっていますが、秋の京都杯・神戸杯などに先駆けて『新聞』とレース名に入ったケースともなりました。

1970年代:芝コースに移り晩冬で定着

1970年は日程の関係で11月開催となりましたが、翌年からは1~2月開催に戻ります。基本的には、一線級というよりかは条件戦上がりの馬が中心で、ローカル重賞といった印象を受けます。

第6回1970年11月22日1800mスピーデーワンダー牡41:48.9
第7回1971年2月7日1800mシャダイセンター牝41:49.6
第8回1972年2月13日1800mニホンピロムーテー牡41:51.0
第9回1973年2月4日1800mキョウエイアタック牡41:49.7
第10回1974年2月3日1800mグットキラメキ牡51:49.2
第11回1975年2月2日1800mサンポウ牡51:48.5
第12回1976年2月1日1800mスリーヨーク牡51:48.3
第13回1977年2月6日1800mキングラナーク牡41:48.6
第14回1978年1月22日ダート
1700m
リキタイコー牡41:45.8
第15回1979年1月21日1800mスリーファイヤー牝51:49.6

1970年には、東海公営で18戦14勝とし中央に移籍した【スピーデーワンダー】が中央での重賞初制覇を達成。1972年には61kgを背負って菊花賞馬の【ニホンピロムーテー】が年明け2度の大敗から復活の優勝を果たします。

しかしその他の年を見ても、60kg手前の別定で出走してくる馬はそもそも少なく、あっても勝ちきれずに敗戦。上位に来る馬は55kg前後というパターンの年が続いていました。

1980年代:父内国産馬限定戦のG3に

1980年は11頭立てで行われ、まさかの最低人気【サンライダー】が、1200万下条件戦を10番人気でクビ差勝利を含めた3連勝で重賞初制覇を果たします。


その波乱が影響したとは思えませんが、翌1981年(ジャパンC創設の年)に、変革が行われました。父内国産馬限定競走への移行です。

  • 本競走は1981年より内国産種牡馬奨励策の一環として、愛知杯(1972年から2003年まで)・カブトヤマ記念(1974年から2003年まで)とともに「父内国産馬限定」の競走条件で行われていた

1980年のリーディングサイアーをみると、【アローエクスプレス】が全日本リーディングサイアー(中央ではテスコボーイに次ぐ2位)に立ち、ダイコーター、シンザン、タイテエムらがTop20に名を連ねるといったラインナップでした。1950年代の【クモハタ】以来の父内国産馬の快挙に、父内国産馬限定競走の増設の機運が高まっていたと見られます。

平成・令和時代:父内国産馬限定競走の終了、2000m延長

  • 2000年 – 特別指定交流競走となり、地方競馬所属馬が2頭まで出走可能となる(2011年まで)。
  • 2008年 – 混合競走に変更、外国産馬が出走可能になる。
  • 2009年 – 国際競走に変更され、外国調教馬が9頭まで出走可能となる。
  • 2017年 – 特別指定交流競走に再び指定され、地方競馬所属馬が2頭まで出走可能となる。

~2007年:父内国産限定競走の終了

2003年まで「愛知杯」・「カブトヤマ記念」と『父内国産馬限定・重賞』は鼎立していましたが、2004年には「中日新聞杯」が最後の父内国産限定重賞となりました。

第37回2001年12月8日1800mグランパドドゥ牝41:48.0
第38回2002年12月7日1800mマイソールサウンド牡31:47.9
第39回2003年12月13日1800mプリサイスマシーン牡41:47.6
第40回2004年12月11日1800mプリサイスマシーン牡51:46.3
第41回2005年12月10日1800mグランリーオ牡51:46.4
第42回2006年12月3日2000mトーホウアラン牡31:57.8
第43回2007年12月2日2000mサンライズマックス牡31:58.5

1996~97年に【ファンドリショウリ】が、2003~04年に【プリサイスマシーン】が連覇を達成するなど、この舞台で強さを発揮する馬がいる一方、2000年代のリーディングサイアーを見ると、サンデーサイレンスなどの産駒が平成中期に種牡馬として注目され、昭和時代ほど「父内国産馬」と「父外国産」の垣根がなくなってきていた頃でした。

2007年には、リーディングサイアー首位こそサンデーサイレンスでしたが、Top10に6頭が父内国産馬となり、米国産馬ながら日本調教馬として活躍したエルコンドルパサーを含めると7頭がTop10入りを果たしています。もはや父内国産馬を『保護』しなければならない時代ではなくなったとの判断から、2007年をもって『父内国産馬限定競走』という個性が取れ、中央重賞最後に混合競走となったのです。

なお、開催時期は2000年に春から初冬・12月へ、距離についても2006年に2000mに延長され、2000年代で一気に今の開催条件に近づいていきました。

2008年~:5年間(12~16年)のみ3月開催

混合競走となってからは、ヤマニンキングリーアーネストリートゥザグローリーとG1クラスの馬が勝ち馬に名を連ねており、ジャパンCと有馬記念の間の中距離重賞としての個性を見せていました。

2012年~2016年までの5年間は3月に開催時期が移りますが、『大阪杯』のG1昇格などを受けて再び2017年からは12月開催に戻り現在に至っています。

第52回2016年3月12日105.75サトノノブレス牡62:01.3
第53回2017年12月9日107.50メートルダール牡41:59.3
第54回2018年12月8日106.75ギベオン牡31:59.3
第55回2019年12月7日106.50サトノガーネット牝41:59.2
第56回2020年12月12日107.50ボッケリーニ牡42:00.1
第57回2021年12月11日107.75ショウナンバルディ牡51:59.8

ここ数年のレーティングは、『G3の目安:105ポンド』を何とか超えている程度であり、日本の平均値を下回っています。2020年代に入ってようやく平均に近づいてきました。果たしてここからどうなるのか、『父内国産馬限定競走』という個性がなくなって15年、新たな時代の個性が求められる時期に差し掛かっています。

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