競馬歳時記【5月2週】「NHKマイルC【GI】」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返る「競馬歳時記」。今回は、「NHK杯 → NHKマイルC」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

概要
1953年から1995年まで東京優駿(日本ダービー)のトライアル競走として施行されていた「NHK杯」を前身としている。当時はクラシック競走に出走できなかった外国産馬や短距離適性のある馬に目標となる大レースを4歳(現3歳)春季に創設しようという気運が高まり、1996年に春の4歳(現3歳)マイル王決定戦として新設された。

NHKマイルカップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1953~1995年:「NHK杯」(ダービートライアル)

NHK杯(エヌエイチケイはい)は、日本中央競馬会が東京競馬場で施行していた中央競馬の重賞競走(GII)である。東京優駿(日本ダービー)のトライアル競走として行われ、上位入着馬に東京優駿の優先出走権が与えられていた。

NHK杯 (競馬)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1950年代:日本最初期の「トライアルレース」として創設

創設に関して、日本語版ウィキペディアの「要出典」な文言を敢えて引用したいと思います。

1953年のテレビ放送開始に伴い、日本放送協会では東京優駿の実況中継を計画した。その際、有力馬がNHKの冠名が付くレースで好成績を挙げたのを、放送や新聞等のメディアで取り上げられれば、NHKにとって好都合になると考え、それまで存在しなかったトライアルレースを設置して、その競走にNHKの冠名を付けてもらい、その代わりに優勝カップを提供することを農林省競馬部に提案した。
競馬部としても、トライアルレースを設置することによって、東京優駿への出走馬への注目をさらに集めることができると考え、NHK杯競走の設置に同意した。[要出典]

第1回は、皐月賞の優勝馬のボストニアンや2着馬ハクリヨウ、フソウなどが出走し、ボストニアンが勝利を飾った。
この年の東京優駿は結局テレビ中継できなかったものの、これらの馬がNHK杯競走で好成績を挙げたことをメディアで取り上げられたことでNHKの狙いは達成され、翌年以降は両競走ともにテレビ中継されるようになった。[要出典]

( 同上 )

初めて公式に中継されたのはNHK盃やダービーの翌月の「中山大障害(春)」だったそうですが、日本における競馬テレビ中継の先駆けにかかわる前史として面白い話題だと感じました。

1950年代のレース結果をみると、NHK盃の勝ち馬が直接ではないものの、「皐月賞 → NHK盃 → 東京優駿」というローテーションを取る馬が非常に多くて(その他、更に平場オープンを挟む馬もいた)、後の日本ダービー馬を含め、東京競馬場の予行練習的に出走する馬が多かったようにみえます。

1960年代:勝ち馬からダービー馬を輩出できず

1957年のヒカルメイジ、1958年のダイゴホマレと2年連続でダービー馬を輩出し、1959年は皐月賞馬のウイルデイールがレコード勝ちを収めた「NHK盃」ですが、その後は、勝ち馬からダービー馬を輩出できない時期が続きます。

1960年の【コダマ】が皐月賞からダービーへと直行すると、1961年のハクシヨウは4着と惜敗、昭和30年代も後半に差し掛かると、有力馬はNHK盃を使わずにダービーへと向かうケースが増えてきます。

但し、東京競馬場のスタンドが6月に完成するなど日程が例年より大幅にズレ込んだ1968年はNHK盃が6月、ダービーが七夕(7月7日)開催となり、この年は皐月賞馬が挙って参戦。

  1. 1番人気:マーチス
  2. 2番人気:タケシバオー
  3. 7番人気:タニノハローモア

皐月賞の1・2着馬がそのまま1・2着と入り、人気薄でNHK盃3着だったタニノハローモアが、3強を抑えてダービー馬に輝きました。

1970年代:ハイセイコーやカブラヤオーを輩出

1970年にはレース名が「NHK杯」の表記となり、知名度の高い馬が次々と好走するようになります。

( 同上 )
1970年代の主な「NHK杯」
  • 1970年
    アローエクスプレス

    タニノムーティエとの「AT対決」は、アローエクスプレスが2馬身半差の完勝

  • 1971年
    ヒカルイマイ

    東京競馬場初出走で勝利し、後に2冠を達成。ニホンピロムーテーが出走取消。

  • 1973年
    ハイセイコー

    初コースを用心深く慎重に走るハイセイコーに東京競馬場を走らせるためにも、皐月賞を勝ったハイセイコー陣営がNHK杯出走を決断。
    観客16.9万人、単勝支持率83.5%で、単勝複勝100円元返し。レースは苦しくもアタマ差制して10戦10勝で日本ダービーに挑むことに

  • 1975年
    カブラヤオー

    2戦目からの連勝記録を伸ばす勝利。不良馬場を6馬身差の圧勝

この頃はまだ、東京競馬場を経験するためにトライアルとして出走するという選択肢が有力でした。今では事前に「共同通信杯」などで経験させたり、ぶっつけ東京ってことが増えていますよね。

1980~90年代:GII格付けも、勝ち馬からダービー馬を20年輩出できず

1980年にはモンテプリンス、1981年には「トライアル三冠」のサンエイソロン、1983年はカツラギエース、1984年にはビゼンニシキが勝っていますが、その後を含め、勝ち馬から日本ダービー馬を輩出できなくなります。

1975年の【カブラヤオー】を最後に、NHK杯の勝ち馬から日本ダービー馬は出ていません。そうした流れの中で、1995年を最後に「NHK杯」は『ダービートライアル』としての役目を終えます。

1996年~:「NHKマイルC」時代

当時はクラシック競走に出走できなかった外国産馬や短距離適性のある馬に目標となる大レースを4歳(現3歳)春季に創設しようという気運が高まり、1996年に春の4歳(現3歳)マイル王決定戦として新設された。

創設当初より外国産馬が出走可能なほか、指定交流競走として所定の条件を満たした地方競馬所属馬も出走が可能となっている。2009年より国際競走となり、外国馬も出走可能になった。

NHK交響楽団のメンバー(正式には、正団員以外を交えた「NHK交響楽団とその仲間たちによる金管アンサンブル」)が、発走前のファンファーレを生演奏するのが恒例となっている。

NHKマイルカップ
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1990年代:「◯外ダービー」としてアメリカ産馬が連覇

創設から2001年までの6年間は「アメリカ産馬」が優勝を独占していました。サンデーサイレンス旋風が巻き荒れる中とはいえ、2000年までは外国産馬がクラシックに出走できず、父内国産馬との力量差も見過ごせなかった時代です。

( 同上 )

勝ちタイムも1分34秒台となることもなく、距離こそ1600mだったものの、「◯外ダービー」としての異名がしっくり来るハイレベルなGIでした。

2000年代:キンカメ、ディープスカイが変則2冠

2000年代に入ると、テレグノシスが内国産馬として初めて優勝すると、年々「マイル路線」の馬が中心のレースとなっていきます。牝馬でも、マイル路線を戦ってきたラインクラフト(とピンクカメオ)が制しています。

その一方で、2004年のキングカメハメハや、2008年のディープスカイのように、このレースを勝って日本ダービーを制する「変則2冠」を達成する馬も出てきます。

2010年代:ダノンシャンティ衝撃のレコードタイム「R1.31.4」

2010年には【ダノンシャンティ】が1分31秒4という衝撃的なレコードタイムで勝ち切るも、日本ダービーには前日に骨折が判明して急遽出走取消。それ以降は勝ち馬の殆どがマイル適性馬となります。

また、2013年には、10番人気の【マイネルホウオウ】が勝利。鞍上の柴田大知 騎手が涙の初GI制覇を達成したことも感動的でした。

以下、2016年以降の「レースレーティング」を表にしてみました。こちらです。

レースR勝ち馬
2016114.00メジャーエンブレム
2017111.25アエロリット
2018112.75ケイアイノーテック
2019114.25アドマイヤマーズ
2020113.00ラウダシオン
2021115.25シュネルマイスター
2022

レースレーティングは、「GI:115」が一応の目安とされていますが、それをギリギリ超えたのは2021年が唯一であり、その他の年は目安を下回っています。3歳春の重賞ですし、すぐに見直しを迫られる状況にはないでしょうが(古馬の重賞・GIも、マイル以下は厳し目なレーティング)、やはり2000年代前半までの全盛期に比べると、一枚落ちた感は否めません。

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