【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は、「天皇賞(秋)」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。
天皇賞(てんのうしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「The Emperor’s Cup(エンペラーズカップ)」までさかのぼると1905年(明治38年)に起源を持ち、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある
天皇賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
明治時代:各地で天皇から下賜される賞が開催
1880年代:外交の最先端の地・横浜で「The Mikado’s Vase」
概要
帝室御賞典
天皇下賜の賞品が授与される趣旨の競走の起源は1880年6月9日に横浜競馬場で行われた「The Mikado’s Vase」(天皇の花瓶賞または皇帝陛下御賞典)である。この競走の賞品は、競走名の通り銀製の花瓶であった。以後さまざまな名称で不定期に天皇下賜の賞品が授与される競走が行われるようになった。賞品は陶磁器、銀製の花瓶、菓子鉢、酒器、花盛器などであった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鹿鳴館が明治16年ですから、明治13年の横浜競馬といえば、西洋外交の最先端の地の一つ。その頃には「天皇賞」の元祖とも言うべき性格のレースが開催されていました。記事の冒頭のウィキペディア「天皇賞」では“1905年に起源を持ち”とありますが、これは公式な見解であって、それより四半世紀前にもルーツは遡れることは知っていて損はないと思います。
1890年代:横浜で春・秋の年2回定期開催が開始
1896年、日本レース・クラブ(後の日本レース・倶楽部)が「The Niicapu Stakes」(新冠景物)を施行したのを機に春と秋の年2回定期的に開催するようになった(1897年は施行されなかったため、本格的には1898年から)。
( 同上 )
今もその名残がありますが、古くは、「春競馬」と「秋競馬」の年2回が日本では主流の開催でした。天皇賞のほか、かつての中山大障害や京都記念などに「春」と「秋」があったのもその痕跡です。実にこの1890年代から年2回の定期開催が始まっている点は注目に値するでしょう。
施行日 | 距離 | 優勝馬 | 性齢 | タイム | 優勝騎手 |
---|---|---|---|---|---|
1896年10月29日 | 6ハロン | イダホ | 牝 | 1:24 0/5 | 杉浦武秋 |
1898年4月27日 | 1マイル | アイダホ | 牝 | 2:13 3/5 | 杉浦武秋 |
1898年10月26日 | 1マイル | ウイスコンシン | 騸 | 2:18.9 | 杉浦武秋 |
1899年5月9日 | 1 1/2マイル | アズマ | 騸 | 3:29.7 | キングドン |
1899年11月21日 | 1マイル | サイケウ | 牝4 | 1:53.0 | 大野市太郎 |
横浜競馬場での序盤5回の表を引用しますが、まず注目すべきは、左から距離です。レースとして統一されていなかったためマチマチですが、6ハロン(≒1200m)や1マイル(≒1600m)とあれば当時としても短い距離の部類だったかと思います。
そして、後の時代では認められていなかった「騙馬」の出走や、優勝後の出走も当然のように認められていた様です。我々が思うのとは全く性格が異なる「天皇下賜」の競走が19世紀にあったのです。
1900年代:帝室御賞典と命名、池上(東京)競馬場でも
1905年、同競馬倶楽部に明治天皇から「菊花御紋付銀製花盛器」が下賜され「The Emperor’s Cup」(皇帝陛下御賞盃)が施行された。今日で言う「帝室御賞典」の歴史はこのレースを起源としている(レース名が「帝室御賞典」になったのは1906年秋から)。
( 同上 )
横浜の開催は「1マイル」に統一され、後半には「帝室御賞典」と命名され定着をしていきます。
そして、今の東京(府中)競馬場の前々身にあたる池上競馬場で、1906年秋から「帝室御賞典」が開催されるようになります。当時は(偶然かもしれませんが春の開催時に著名な馬が優勝しているため、)あまり秋開催で著名な馬は優勝していませんが、まだ当時は大レースへの過渡期だった様に思います。
大正時代:帝室御賞典・連合二哩の2大競走体制
(↓)天皇賞(春)にも書いていますが、戦後の『天皇賞』は、「天皇から賞品が下賜される」という個性を『帝室御賞典』から、「年2回、3200mでチャンピオンを決する」という個性を『連合二哩』から受け継いでいます。ここからは、この2つのレースを並行してご紹介していきます。
帝室御賞典:全国各地で開催
今でこそ「天皇賞」は春・秋の年1回ずつですが、戦前は各地で開催され、合計10回の「帝室御賞典」が開催されていました。この時代はひょっとすると開催頻度からして、レースの格は現在でいうところの『メイン場開催はG2』、『ローカル場開催はG3』に近い存在だったかもしれません。各地の創設時期を纏めると、
各地の開催条件は、おおよそ「1800m → 2000m」と中距離で統一されていました。恐れずに言えば、今の「○○記念(G3)」に近い印象を覚えるのは、そこの影響も大きいのかもしれませんね。
連合二哩:明治末に東京で創設、今の天皇賞の前身の一つ
優勝内国産馬連合競走(ゆうしょうないこくさんばれんごうきょうそう)とは1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた日本の競馬の競走である。当時の日本国内最高賞金の競走で、現在の天皇賞のルーツの一つである。
概要
優勝内国産馬連合競走は、3200メートル(=約2マイル)で行なわれていたことから連合二哩(れんごうにまいる)や連合競走、あるいは単に連合とも通称されていた。日本各地の競馬倶楽部のチャンピオンだけが一生に1回だけ出走できるという点で後に創設される東京優駿大競走(現・東京優駿(日本ダービー))の前身であり、春秋1回ずつ3200m(当時)で行なわれる「日本一の名馬決定戦」という点で後の天皇賞(1937年(昭和12年)秋以降の帝室御賞典)の前身である。
優勝内国産馬連合競走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上の「天皇賞(春)」の記事でも触れていますのでここでの詳細解説は省略しますが、やはり天皇賞の実質的な前身としては「連合二哩」競走の方が実態としては近いです。以下の大正の名馬も目黒競馬場で開催された「連合二哩」を勝っています。
また、大正13年秋には鳴尾(阪神競馬場の前身)でも開催が始まり、東西のチャンピオンを決する舞台となっていきました。
昭和時代(戦前):連合二哩と統合され、年2回に統一
帝室御賞典に関しては、昭和1桁台までは各地で開催が続けられました。具体的な勝ち馬としては、
が知られています。かつては名誉のみでしたが、1930年代に入って賞金も授与されるようになります。
なお1931年までは優勝馬の馬主に授与されたのは賞品のみであり、賞金は授与されなかった。
各公認競馬倶楽部が1936年に発足した日本競馬会に統合されたのに伴い、1937年秋からは年2回開催となり春は鳴尾競馬場・秋は東京競馬場で開催されることになった。後にこの年2回開催となった1937年秋の帝室御賞典を天皇賞の第1回としている。
帝室御賞典
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そして「連合二哩」は、各地の競馬倶楽部が統合されたタイミングで廃止され、年2回開催されることとなった『帝室御賞典』に実質的に統合されます。先の天皇賞(春)の記事から表を引用すると、
項目 | 帝室御賞典 | 連合二哩 |
---|---|---|
創設 | 1900年代以前 | 1911年 |
開催地 | 各地(全国7場) | 少数(東西1場) |
距離 | 1800m前後 | 3200m(二哩) |
出走 | 勝ち抜けるまで 複数回挑戦可 | 生涯1度きり |
優勝品 | 賞金なく商品のみ | 破格の賞金 |
この太字の部分が1937年の新・帝室御賞典に継承されました。昭和の天皇賞の基本が、ここに成立することとなったのです。なお、廃止直前となる昭和の「連合二哩」の勝ち馬には以下の名馬がいました。
戦前の帝室御賞典(秋):第2回から現3歳馬は出走不可に
第1回(1937年)は、12月3日と唯一の12月開催であると共に、距離は2600mという若干中途半端なものでした。この年に勝ったのは現3歳牡馬の【ハツピーマイト(クリフジの兄)】で、3着には同年の東京優駿(日本ダービー)を牝馬として初めて優勝した【ヒサトモ】がいました。なお、ヒサトモは翌年の秋の東京開催を優勝し、大差勝ちでのリベンジを達成しています。
ちなみに、第1回は出走の半分以上が現3歳馬だったのですが、半世紀もの間、現3歳馬が『出走できなかった』という事実は歴史をみる上で見逃せない事実かと思いますね。
1938年に京都農林省賞典四歳呼馬(現在の菊花賞)が創設されたこととの兼ね合いで、1938年から帝室御賞典の出走資格は5歳以上に変更された。これは1987年に出走資格が4歳以上へと戻されるまで続き、1937年のハツピーマイト以降、4歳で秋の天皇賞を制する馬は1996年のバブルガムフェローまでは現れなかった。
ハツピーマイト
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そして、第3回(1939年)は、前年に初代・菊花賞馬となった【テツモン】が、フアインモアをゴール前でハナ差差し切り、レコード勝ちの接戦を制しています。3着には9馬身もの差が付いていたそう。
経済封鎖や戦争の長期化に伴う資源不足で、それまで銀盃が下賜されてきた「帝室御賞典」の優勝賞品は、1941年から『楯』となり、これが現在に繋がる『天皇楯』に切り替わった瞬間でもありました。
昭和時代(戦後):天皇賞となり時代と共に条件変更
1940年代:「天皇賞」と改称して再開
1941年に『天皇楯』となり、1944年には秋の開催が中止、1945・46年は戦後の混乱で開催が中止をされた「帝室御賞典」。1947年春に『平和賞』として開催されると秋の東京開催も1947年から再開。
1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された。
「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年秋の帝室御賞典にさかのぼり、「第16回天皇賞」とされた。
天皇賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
もし、この1947年秋のGHQ占領下の流れがなければ、今も「天皇賞」という名称では開催されていなかったかもしれません。初の“天皇賞”として行われた1947年秋は「宮内省下総牧場」産の【トヨウメ】が優勝しています。
1950年代:現4歳牝馬が5勝、オーストラリア産馬も活躍
1950年代に入ると、開催時期は11月、そして1950年代後半には「勤労感謝の日」の開催が定着をしていきます。東京3200mの古馬の最高の栄誉として定着していく過程で、春・京都とは異なり、秋・東京では牝馬が無類の強さを発揮します。実に5勝です。初期の「5歳以上の牡馬と4kg差」という斤量設定が大きかったのもあったのかと思います。
第22回 | 1950年11月03日 | ヤシマドオター | 牝4 |
第24回 | 1951年11月11日 | ハタカゼ | 牡4 |
第26回 | 1952年11月16日 | トラツクオー | 牡4 |
第28回 | 1953年11月15日 | クインナルビー | 牝4 |
第30回 | 1954年11月21日 | オパールオーキツト | 牝4 |
第32回 | 1955年11月20日 | ダイナナホウシユウ | 牡4 |
第34回 | 1956年11月25日 | ミツドフアーム | 牡5 |
第36回 | 1957年11月23日 | ハクチカラ | 牡4 |
第38回 | 1958年11月23日 | セルローズ | 牝4 |
第40回 | 1959年11月23日 | ガーネツト | 牝4 |
厳密にいえば、古馬になって最初の天皇賞は春開催であり、そこを優勝した馬が最短ローテーションで天皇賞馬となる訳です。春の天皇賞を勝てなかった馬たちによる場という見方も出来る秋の天皇賞ですが、メンバーを見ても非常に豪華です。例えばトラツクオーやダイナナホウシユウは菊花賞馬ですし、ハクチカラはダービー馬です。
加えて、【オパールオーキツト】と【ミツドフアーム】には、地方競馬出身かつオーストラリア産馬という共通点があります。当時、外国産馬は中央競馬で出走制限が厳しく、内国産馬とかなり区別されてレースが開催されていました。クラシック競走への出走は全く叶わなかったのです。そのため、今ほど賞金の差もなかった地方競馬でデビューするという一流馬も珍しくなかったのです。
見方を変えれば、昭和の中盤まで「天皇賞」は外国産馬の出走が可能であり、クラシック競走に比べて出走条件が緩かったというのも興味深いです。実際「天皇賞」が必ずしも保守的とは限らないのです。
1960年代:シンザンが4冠馬、有馬記念ホースを5年連続輩出
1960年代の勝ち馬からして、どちらかというと派手さがなく渋い戦いが繰り広げられていた印象です。現代でも名を知られた馬としては、1965年の【シンザン】が挙げられるかとは思います。
天皇賞(秋)では目黒記念でシンザンに敗れた加賀武見騎乗のミハルカスが大逃げを打ったが、シンザンは直線でミハルカスを交わして先頭に立ち、そのままゴールし優勝した。栗田にとっては初の天皇賞優勝で、レース後の表彰式では涙を見せた。なお、この競走でシンザンの単勝支持率は78.3パーセントで、単勝の配当は100円元返しであった。JRAのGI級競走における単勝の100円元返しはほかに5例しか存在しない。
シンザン
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第42回 | 1960年11月23日 | 東京 | オーテモン | 牡5 | 3:27.1 |
第44回 | 1961年11月23日 | 東京 | タカマガハラ | 牡4 | 3.25.8 |
第46回 | 1962年11月23日 | 東京 | クリヒデ | 牝4 | 3:27.4 |
第48回 | 1963年11月23日 | 東京 | リユウフオーレル | 牡4 | 3:22.7 |
第50回 | 1964年11月23日 | 東京 | ヤマトキヨウダイ | 牡4 | 3:21.7 |
第52回 | 1965年11月23日 | 東京 | シンザン | 牡4 | 3:22.7 |
第54回 | 1966年11月3日 | 東京 | コレヒデ | 牡4 | 3:24.2 |
第56回 | 1967年11月23日 | 中山 | カブトシロー | 牡5 | 3:25.5 |
第58回 | 1968年11月23日 | 東京 | ニットエイト | 牡4 | 3:20.3 |
第60回 | 1969年11月30日 | 東京 | メジロタイヨウ | 牡5 | 3:33.0 |
昭和30年代に入って「有馬記念」が設立された影響が出始めるのがこの頃です。かつては天皇賞(春)を制して現4歳春で一流馬は種牡馬となっていきましたが、有馬記念が創設されると天皇賞を勝ち抜けた後の古馬にも目標のレースができ、選択肢が広がる結果となりました。
加えて、天皇賞(春)からは8ヶ月の間隔があり、秋に復帰しても重い斤量を背負って調整しなければならないのに対し、定量の天皇賞(秋)からは1ヶ月と丁度よい間隔で有馬記念に挑めるのです。
実際【リユウフオーレル】、【ヤマトキヨウダイ】、【シンザン】、【コレヒデ】、【カブトシロー】と、5年連続で「天皇賞(秋)→ 有馬記念」という古馬2冠でのローテーションが完成していたことを考えると、この傾向が最も顕著だったのがこの1960年代だったかもしれません。
1970年代:外国産馬出走不可、1番人気2桁連敗
昭和40年代に入ると、また違った傾向が顕著となっていきます。1965年に【シンザン】が1番人気で勝って以降、1番人気の連敗が止まらなくなっていったのです。これは3200mで開催された1983年まで続き、実に18年連続で1番人気が勝てなかったのです。
しかし勝ち馬をみればタニノチカラなど一線級の馬もいるため、3200mという距離適性や状態によって1番人気馬が敗れていった歴史でもありそうです。
第62回 | 1970年11月29日 | メジロアサマ | 牡4 | 3:24.8 |
第64回 | 1971年11月28日 | トウメイ | 牝5 | 3:23.7 |
第66回 | 1972年11月26日 | ヤマニンウエーブ | 牡5 | 3:23.7 |
第68回 | 1973年11月25日 | タニノチカラ | 牡4 | 3:22.7 |
第70回 | 1974年11月24日 | カミノテシオ | 牡4 | 3:22.4 |
第72回 | 1975年11月23日 | フジノパーシア | 牡4 | 3:28.8 |
第74回 | 1976年11月28日 | アイフル | 牡5 | 3:20.6 |
第76回 | 1977年11月27日 | ホクトボーイ | 牡4 | 3:22.5 |
第78回 | 1978年11月26日 | テンメイ | 牡4 | 3:21.4 |
第80回 | 1979年11月25日 | スリージャイアンツ | 牡4 | 3:33.5 |
ちなみに、1971年【トウメイ】→1978年【テンメイ】と母子制覇が達成されていますが、こんな逸話も残されています。(↓)
この年の天皇賞(秋)は予想外のアクシデントから始まった。枠入り直後にパワーシンボリがゲートに噛みついてスタートできず、発走やり直し(カンパイ)という珍事が発生。ゲートから出た馬たちを呼び戻し、発走前のファンファーレから再びやり直しとなった。
再スタートとなったレースではスタートを待つ間に興奮してしまい、郷原の豪腕をもってしても制御が利かない状態となったプレストウコウが、1周目のスタンド前の大歓声に興奮して止むなく暴走気味の大逃げを打つ波乱の展開となった。向正面で10馬身近い差を付けたプレストウコウはその差を利用しての粘り込みを図るが、菊花賞とは逆にゴール前でテンメイが半馬身差交わし優勝。
初重賞制覇が天皇賞となると共に、史上初の母子天皇賞制覇を成し遂げた。同一馬主・同一調教師・同一騎手による勝利となったほか、母と同じ大外12番枠スタートからの半馬身差勝利という偶然も重なった。
テンメイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
またその前年には1番人気のトウショウボーイが7着、3番人気のグリーングラスが5着に敗れる波乱があるなど、伝統の天皇賞(秋)は少しずつ時代の大きな流れに翻弄されることとなっていきました。
1980年代:1ヶ月繰上げ&勝ち抜け制廃止&2000m短縮
東西で統一されて半世紀弱、開催する競馬場が違う以外は同じだった「天皇賞」の春と秋、別々の個性を与えられ始めるのが1980年代です。まさに競馬の近代化と国際化の波が押し寄せた時代です。
そして結果的には、「天皇賞(春)」が伝統を、「天皇賞(秋)」が進歩的に最強馬決定戦の舞台を、それぞれに担っていくこととなる時代の変化点だったと言えるでしょう。
以上の変化が大きかったと思います。一般には「2000mへの距離短縮」ばかりが取り上げられますが、天皇賞としてもそれまでの個性とされてきた古い部分を少しずつ改革していったのです。
もちろん当時は賛否両論だった訳ですが、歴史を振り返ると「帝室御賞典」の時代は中距離で開催されていた訳なので、半世紀以上前も参考に改革をしていったのではないかと思います。これが結果的には「天皇賞(秋)」の隆盛につながっていきます。
1966年から1983年まで1番人気が18連敗しており、3200m時代はシンザンを最後に1番人気は勝てませんでした。その中で特に知られるのが【プリテイキャスト】の『絶対に届かない』(by盛山毅アナ)と形容された逃げ切り勝ちでしょう。
距離短縮の年を制したのは1番人気の3冠馬【ミスターシービー】。ひょっとすると3200m時代ならば勝てていなかったかもしれません。その翌年には【シンボリルドルフ】が2着と敗れ、単勝は88.7倍。フジテレビの堺アナウンサーの『あっと驚くギャロップダイナ!!』で語り継がれています。
第82回 | 1980年11月23日 | 芝3200m | プリテイキャスト | 牝5 | 3:28.1 |
第84回 | 1981年10月25日 | 芝3200m | ホウヨウボーイ | 牡6 | 3:18.9 |
第86回 | 1982年10月31日 | 芝3200m | メジロティターン | 牡4 | 3:17.9 |
第88回 | 1983年10月30日 | 芝3200m | キョウエイプロミス | 牡6 | 3:22.7 |
第90回 | 1984年10月28日 | 芝2000m | ミスターシービー | 牡4 | 1:59.3 |
第92回 | 1985年10月27日 | 芝2000m | ギャロップダイナ | 牡5 | 1:58.7 |
第94回 | 1986年10月26日 | 芝2000m | サクラユタカオー | 牡4 | 1:58.3 |
第96回 | 1987年11月1日 | 芝2000m | ニッポーテイオー | 牡4 | 1:59.7 |
第98回 | 1988年10月30日 | 芝2000m | タマモクロス | 牡4 | 1:58.8 |
第100回 | 1989年10月29日 | 芝2000m | スーパークリーク | 牡4 | 1:59.1 |
距離短縮後は、サクラユタカオー、ニッポーテイオーなどの素軽い馬も、タマモクロスやスーパークリークなどの重厚感ある馬も勝つバランスの良いレースとなり、平成元年に第100回(と現在では数えられる)レースを迎えます。
平成時代:秋の古馬三冠の第1戦に
1990年代:条件の変革で、果たされなかった記録が次々と
1980年代に条件の緩和が続いた「天皇賞(秋)」。達成不可能だった記録が次々と達成されたのもこの1990年代でした。まずは勝ち馬の表をご覧ください。
第102回 | 1990年10月28日 | ヤエノムテキ | 牡5 | 1:58.2 |
第104回 | 1991年10月27日 | プレクラスニー[注 4] | 牡4 | 2:03.9 |
第106回 | 1992年11月1日 | レッツゴーターキン | 牡5 | 1:58.6 |
第108回 | 1993年10月31日 | ヤマニンゼファー | 牡5 | 1:58.9 |
第110回 | 1994年10月30日 | ネーハイシーザー | 牡4 | 1:58.6 |
第112回 | 1995年10月29日 | サクラチトセオー | 牡5 | 1:58.8 |
第114回 | 1996年10月27日 | バブルガムフェロー | 牡3 | 1:58.7 |
第116回 | 1997年10月26日 | エアグルーヴ | 牝4 | 1:59.0 |
第118回 | 1998年11月1日 | オフサイドトラップ | 牡7 | 1:59.3 |
第120回 | 1999年10月31日 | スペシャルウィーク | 牡4 | 1:58.0 |
1991年は、天皇賞春→秋制覇を目指した【メジロマックイーン】が6馬身差で1位入線も18着降着となる史上初の事態。プレクラスニーが繰上げ優勝となりました。
この頃からどちらかというとステイヤーではなく、春は天皇賞よりも安田記念を戦ってきたような馬:つまり中距離路線の馬が勝つ傾向となっていきました。
そして1990年代後半、現3歳の【バブルガムフェロー】が菊花賞ではなく天皇賞(秋)に出走をして、前述のハツピーマイト以来59年ぶり史上2頭目の現3歳による天皇賞(秋)制覇を達成します。戦後初であり天皇賞となってからも初でした。
翌1997年、現4歳になって連覇を目指したバブルをクビ差制したのが、女傑【エアグルーヴ】でした。時期によっては頻発する牝馬の優勝ですが、この時代からみると、過去35回でトウメイ、プリテイキャストしかいなかったことを思うと、この時代における偉業中の偉業であったといえるでしょう。
ここらへんは、まさに「ウマ娘」や「ダビスタ」でもお馴染みの時代感でしょうか。その翌年の1998年は、あの【サイレンススズカ】の『沈黙の日曜日』が起きています。これらの競馬の出来事はいずれも3200mを墨守していれば起きていなかったと想像されましょう。
ちなみに、1988年から1999年までの12年間も、これだけ名馬が揃っているのに、1番人気が勝っていません。2番人気と3番人気が4勝しているのですが、東京2000mというコース形態が必ずしも人気順どおりに決着しない難しさも印象づけた時期でもありました。
2000年代:初の秋天連覇、天覧競馬、大接戦のゴール!
2000年は【テイエムオペラオー】が、2004年は【ゼンノロブロイ】が秋の古馬三冠を達成する圧倒的なシーズンを見せ、また2002・03年にかけては【シンボリクリスエス】が秋の天皇賞で史上初の連覇を成し遂げています。
第122回 | 2000年10月29日 | 東京 | テイエムオペラオー | 牡4 | 1:59.9 |
第124回 | 2001年10月28日 | 東京 | アグネスデジタル | 牡4 | 2:02.0 |
第126回 | 2002年10月27日 | 中山 | シンボリクリスエス | 牡3 | 1:58.5 |
第128回 | 2003年11月2日 | 東京 | シンボリクリスエス | 牡4 | 1:58.0 |
第130回 | 2004年10月31日 | 東京 | ゼンノロブロイ | 牡4 | 1:58.9 |
第132回 | 2005年10月30日 | 東京 | ヘヴンリーロマンス | 牝5 | 2:00.1 |
第134回 | 2006年10月29日 | 東京 | ダイワメジャー | 牡5 | 1:58.8 |
第136回 | 2007年10月28日 | 東京 | メイショウサムソン | 牡4 | 1:58.4 |
第138回 | 2008年11月2日 | 東京 | ウオッカ | 牝4 | 1:57.2 |
第140回 | 2009年11月1日 | 東京 | カンパニー | 牡8 | 1:57.2 |
天皇賞(秋)を語る上で欠かせないレースが00年代後半に2つあります。一つ目は2005年でしょう。
そして10月30日、戦後初の天覧競馬として施行されたエンペラーズカップ100年記念・天皇賞(秋)ではレースの1000m通過が62.4秒、上がり3ハロンが33秒6というスローペースで上がり勝負のレースとなったが、接戦の末GIのタイトルを獲得した。牝馬による天皇賞の優勝は1997年秋のエアグルーヴ以来8年ぶりであった。
レース終了後、松永はウイニングランの後、踵を返してヘヴンリーロマンスをメインスタンドへ向かわせて帽子を脱ぎ、競走を天覧した天皇・皇后に鞍上から最敬礼した。
ヘヴンリーロマンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
そして、レースの充実ぶりとしては、2008年の第138回は、今なお伝説として語り継がれています。 2cm差と言われ、牝馬と牝馬と今年のダービー馬による「1分57秒2」のレコード決着は、天皇賞史に残る名勝負でしょう。
2010年代:世界を股にかける日本の名馬が次々と
ジャパンカップに世界の一流馬の出走が減っていった2010年代ですが、代わって、「世界を股にかける活躍を見せた日本馬」が凱旋したり秋の飛躍に繋げる優勝を見せるレースとなっていきます。
第142回 | 2010年10月31日 | ブエナビスタ | 牝4 | 1:58.2 |
第144回 | 2011年10月30日 | トーセンジョーダン | 牡5 | 1:56.1 |
第146回 | 2012年10月28日 | エイシンフラッシュ | 牡5 | 1:57.3 |
第148回 | 2013年10月27日 | ジャスタウェイ | 牡4 | 1:57.5 |
第150回 | 2014年11月2日 | スピルバーグ | 牡5 | 1:59.7 |
第152回 | 2015年11月1日 | ラブリーデイ | 牡5 | 1:58.4 |
第154回 | 2016年10月30日 | モーリス | 牡5 | 1:59.3 |
第156回 | 2017年10月29日 | キタサンブラック | 牡5 | 2:08.3 |
第158回 | 2018年10月28日 | レイデオロ | 牡4 | 1:56.8 |
2011年には、ウオッカの叩き出した大レコードを更に1秒以上更新する「1分56秒1」という恐怖を覚える勝ちタイムを記録しています。しかし【トーセンジョーダン】はこの優勝を最後に、勝つことはできませんでした(G1で3度複勝圏内には入るも勝てず)。
そして、2012年にはダービー馬のエイシンフラッシュが復活し、2015年にはラブリーデイが春からの連勝を伸ばしました。また、キタサンブラックは不良馬場を2分8秒3というタフなレースに勝っているなど、国内勢が強さを見せる舞台でありました。
一方で、【ジャスタウェイ】はここで1年半ぶりの勝利を初G1で飾り、翌年にはドバイデューティーフリーを6 1/4馬身差で制して世界ランキング1位となりましたし、距離延長で初勝利を果たした【モーリス】は、引退レースとなった香港Cも制し、この年の特別賞を獲得しています。
世界的にみても、2000mや2400mで世界的に高レーティングの評価を得ている日本競馬にとっては、凱旋門賞に挑まない国内勢が、様々な路線からこの「天皇賞(秋)」を緒戦に選択する様になります。平成前半であれば「毎日王冠」などを叩く馬が多かったのですが、次第に秋三冠をすべて戦う馬自体が稀となり、『秋緒戦がいきなり天皇賞』というタイプや、『天皇賞の後は香港C』などローテーションの多角化する中で、国内(2000m)最強馬決定戦となっていきました。
令和時代:世界に名を馳せる中距離G1に定着
2020年代:アーモンドアイが連覇で芝G1・8勝
令和元年に3冠牝馬【アーモンドアイ】がブエナビスタ以来の牝馬優勝を遂げると、その翌年には強い重圧の中でルメール騎手と共に芝G1・8勝目を果たし、シンボリクリスエス以来の連覇を達成します。
更に2021年は、前年の3冠馬【コントレイル】や3階級制覇を目指した【グランアレグリア】を相手に3歳馬で3番人気だった【エフフォーリア】】が完勝。19年ぶり史上4頭目3歳制覇を果たしました。
第154回 | 2016年10月30日 | モーリス | 牡5 | 1:59.3 | 120.25 |
第156回 | 2017年10月29日 | キタサンブラック | 牡5 | 2:08.3 | 120.25 |
第158回 | 2018年10月28日 | レイデオロ | 牡4 | 1:56.8 | 120.75 |
第160回 | 2019年10月27日 | アーモンドアイ | 牝4 | 1:56.2 | 120.75 |
第162回 | 2020年11月1日 | アーモンドアイ | 牝5 | 1:57.8 | 123.75 |
第164回 | 2021年10月31日 | エフフォーリア | 牡3 | 1:57.9 | 123.00 |
そもそも「G1の目安:115ポンド」であることを考えると、それを優に5~8ポンド上回っていること自体が普通ではありません。それでいて、2020年代の2年は「123ポンド台」となっており、世界中のG1でも「総合4位」となっています。日本馬のみで構成されているのに世界を代表するレーティングを計上しているのには、日本馬の活躍ぶりが根拠にあると思われます。
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既に140年近くの歴史があり、春と通算で160回を数える「天皇賞」。伝統の春と、革新の秋、まさに秋競馬の本格化を、秋の深まりと共に感じるにピッタリです。10月から11月にかけての秋の終わりに、歴史の1ページとなる名勝負を期待して、今年もレースに参りましょう。
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