【はじめに】
この記事では、私の「Rxヒット指標」に基づき歌手/アーティストのヒット曲を振り返っていきます。今回取り上げるのは「和田弘とマヒナスターズ」です。
和田弘とマヒナスターズ(わだひろしとマヒナスターズ、英: Hiroshi Wada & Mahina Stars もしくは Wada Hiroshi & His Mahina Stars)とは、スチールギター奏者の和田弘をリーダーとする日本の音楽グループであった。ハワイアン、ムード歌謡の第一人者として知られる。
和田弘とマヒナスターズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウィキペディアにみる「和田弘とマヒナスターズ」
- ハワイアンのサウンド、コーラスワークと作曲家の吉田正によるメロディを融合して、フランク永井や松尾和子らと並び、それまでにない都会的で斬新な歌謡曲(ムード歌謡)を生み出し、昭和30年代から40年代前半にかけてムード・コーラスグループの第一人者として数多くのヒット曲を世に送った。
- マヒナは吉田の門下として、1957年(昭和32年)にムード歌謡コーラスグループとしてデビュー。ハワイアンギターとコーラスによる「マヒナサウンド」と呼ばれることになる新しいアレンジで注目され、「好きだった」がヒットした。翌1958年(昭和33年)8月にオリジナル曲「泣かないで」を発表し、これが大ヒットした。
- 1959年(昭和34年)、ビクターの歌謡曲(流行歌)部門のレコード売上で「夜霧の空の終着港(エアーターミナル)」が年間2位を獲得したほか、トップ10内に4作がランクインした。
- 1960年代には、松尾和子らの女性歌手を迎えるスタイルをとり、第2回日本レコード大賞を受賞した「誰よりも君を愛す」や、当時としては驚異的な300万枚の売上を記録した「お座敷小唄」をはじめ、「寒い朝」「島のブルース」「愛して愛して愛しちゃったのよ」「北上夜曲」など多数のヒット曲を残した。1967年(昭和42年)にビクターから東芝に移籍。
- その後メンバーの変動があったが、1989年(平成元年)に全盛期のメンバーが再集結し、同年の「第40回NHK紅白歌合戦」に紅組から22年ぶりの再出場も果たした。
- 2022年(令和4年)6月11日には松平が肺炎のため死去。これにより「和田弘とマヒナスターズ」の結成メンバーはすべて他界した。
その他、メンバーの入れ替わりであったり、商標に関する問題であったりは説明するのはこの記事の主題ではないので、ウィキペディアなどをご参照ください。
Rxヒット指標にみる有名曲一覧
ひとまず断片的なデータだけで、暫定的ですが「Rxヒット指標」の表を作ってみましたので、こちらを参照しながら振り返っていきたいと思います。
1958年『泣かないで』
- 泣かないで/渚のバラード(1958年8月、VS-117) – オリジナル第一弾の曲で、事実上のデビュー曲でもある。同時に三原さと志と山田競生が初めて参加。
実はマヒナスターズ関連のYouTubeで最も再生回数が高い楽曲の一つが、この『泣かないで』だったりします。ヒット指標での換算値では並み居る有名曲を抑えて40万ptのトップとなっています。
1959年『誰よりも君を愛す』/松尾和子
- 誰よりも君を愛す(松尾和子とのデュエット)(1959年12月、VS-282) – 女性デュエット第二弾の曲。第2回日本レコード大賞受賞曲。
第2回日本レコード大賞は、1960年(昭和35年)12月30日に神田共立講堂で行われた、2回目の『日本レコード大賞』である。
第2回の大賞は、松尾和子/和田弘とマヒナスターズの「誰よりも君を愛す」に決定した。松尾和子/和田弘とマヒナスターズそれぞれ初の受賞。
橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」の爆発的なヒットにより、この年から急きょ新人賞が設けられた。橋はのちに「『大賞はまだ早いけど、この子に何かしたいよね』って話が上がって、新人賞なるものをいただいたようです」と述べている。
第2回日本レコード大賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
創設2回目の日本レコード大賞を受賞した「誰よりも君を愛す」。受賞した2組だって、まだデビュー数年だったにも拘わらず、大賞を受賞したというのは本当にしがらみなく最先端だったのかなと感じますね。
1961年『北上夜曲』/多摩幸子
元は昭和10年代の楽曲なので、厳密にはオリジナル曲ではないのですが、戦後に全国区に押し上げたのは、デビュー4年目だった【多摩幸子】さんと「和田弘とマヒナスターズ」の面々でした。
多摩幸子さんバージョンだけの得点ではないのですが、JASRACのデータベース(J-WID)によれば、カバーアーティスト数は70近くに上っており、先ほどの表でいえばトップです。
1962年『寒い朝』/吉永小百合
- 通算20万枚を売り上げるヒット曲となり、吉永は本楽曲で同年の「第13回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした。
1963年『島のブルース』/三沢あけみ
- 島のブルース(三沢あけみとのデュエット)/長崎慕情(1963年4月、VS-998)
- 渡久地政信が少年時代に過ごした、鹿児島県の離島「奄美大島」をテーマにしたご当地ソングの楽曲であり、イントロに加わっている「指笛」は、渡久地自身の実演である。
尚、B面の「長崎慕情」は三沢あけみはレコーディングに参加せず、和田弘とマヒナスターズの単独歌唱となっている。
- 奄美大島を舞台とした曲であるため、奄美群島の伝統民謡の島唄系統のアーティストに好んでカバーされる傾向にある。
- 三沢自身この曲の大ヒットで、1963年12月の「第5回日本レコード大賞」新人賞を受賞、続けて同年大晦日の「第14回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たした。現在も三沢の代表曲のひとつであり、懐メロ等の歌謡番組で同曲をよく披露している。
三沢あけみさんは、1963年の「NHK紅白歌合戦」で、レコード大賞新人賞対決が番組終盤に実現。対戦相手はあの『高校三年生』/舟木一夫でした。
1964年『お座敷小唄』(330万pt)
- お座敷小唄(松尾和子とのデュエット)/マヒナのさのさ(1964年8月、SV-77)
東京オリンピックが開催され、ヒット曲が連発した1964年(昭和39年)。『オリンピックまでは五輪音頭、その後はこの曲』とNHK紅白歌合戦で宮田輝アナウンサーが称えたという大ヒット曲は、ウィキペディアによれば「300万枚」という屈指の大ヒットとなったそうです。
1965年『愛して愛して愛しちゃったのよ』
- 愛して愛して愛しちゃったのよ(田代美代子とのデュエット)(1965年6月、SV-237)
個人的には最も良く聞いて、そしてカラオケでも歌った楽曲です。平成世代の方にはひょっとすると、NHK教育テレビの「ハッチポッチステーション」で、『おさるのかごや』とマッシュアップした楽曲としての印象が強いかも知れません。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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