【はじめに】
この記事では、私の「Rxヒット指標」に基づき歌手/アーティストのヒット曲を振り返っていきます。今回取り上げるのは、「三波春夫」さんです。
三波 春夫(みなみ はるお、1923年7月19日 – 2001年4月14日、本名:北詰 文司(きたづめ ぶんじ))は、新潟県三島郡塚山村(現・長岡市)出身の浪曲師、演歌歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。自身の長編歌謡浪曲などの作詞・構成時のペンネームとして「北村 桃児(きたむら とうじ)」を用いた。俳号は「北桃子(ほくとうし)」。
三波春夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
人物
戦後昭和の歌謡界黄金期を代表する歌手の一人である。元浪曲師・南篠文若(なんじょう ふみわか)としての経歴を活かし、浪曲を題材に自ら創作した歌謡浪曲を得意とした。特に「元禄名槍譜 俵星玄蕃」に代表される長編歌謡浪曲は、三波ならではの至芸とも評される。
いつも絶やさぬ朗らかな笑顔と浪曲で鍛えた美声で知られ、歌謡曲の衣装に初めて和服を使用した男性歌手でもある。自らの芸と観客に対する真摯な姿勢は、あまりに有名な「お客様は神様です」のフレーズを生む基盤ともなった。
三波デビューの翌年、1958年のデビューで同じ浪曲師出身の村田英雄とは長年ライバル同士とも位置付けられ、両者の間には様々なエピソードが生まれた。1994年に前立腺がんの診断・病名告知を受けているが、死去までの7年間、家族や近しい関係者以外にはその事実を隠し通し、闘病を続けながら最晩年まで精力的に音楽活動を続けた。
( 同上 )
NHK紅白歌合戦出場歴
歌手デビューした翌1958年(第9回)に初出場を果たしてから、1986年(第37回)まで29回連続して出場。1964年(第15回)と1966年(第17回)は、美空ひばりを抑えて大トリを務めた。
紅白歌合戦の通算出場回数31回は、北島三郎、五木ひろし、森進一、石川さゆり、細川たかし、和田アキ子、島倉千代子、小林幸子、坂本冬美に次いで、郷ひろみと並び史上10位タイ。また、連続出場回数29回は、五木ひろし、森進一、石川さゆり、小林幸子、細川たかし、島倉千代子、和田アキ子に次いで歴代8位。
( 同上 )
年度/放送回 | 回 | 曲目 (通算回数) | 出演順 | 対戦相手 (通算回数) | トリ (通算回数) |
---|---|---|---|---|---|
1958年 第9回 | 初 | 雪の渡り鳥 | 09/25 | 神楽坂浮子 | |
1959年 第10回 | 2 | 沓掛時次郎 | 24/25 | 楠トシエ | トリ前 |
1960年 第11回 | 3 | 忠治流転笠 | 26/27 | 楠トシエ(2) | トリ前(2) |
1961年 第12回 | 4 | 文左たから船 | 25/25 | 島倉千代子 | 大トリ |
1962年 第13回 | 5 | 巨匠 | 13/25 | 朝丘雪路 | |
1963年 第14回 | 6 | 佐渡の恋唄 | 25/25 | 美空ひばり | トリ(2) |
1964年 第15回 | 7 | 俵星玄蕃 | 25/25 | 美空ひばり(2) | 大トリ(3) |
1965年 第16回 | 8 | 水戸黄門旅日記 | 16/25 | 江利チエミ | |
1966年 第17回 | 9 | 紀伊国屋文左衛門 | 25/25 | 美空ひばり(3) | 大トリ(4) |
1967年 第18回 | 10 | 赤垣源蔵 | 23/23 | 美空ひばり(4) | トリ(5) |
1968年 第19回 | 11 | 世界平和音頭 | 12/23 | 島倉千代子(2) | |
1969年 第20回 | 12 | 大利根無情 | 12/23 | 島倉千代子(3) | |
1970年 第21回 | 13 | 織田信長 | 12/24 | 島倉千代子(4) | |
1971年 第22回 | 14 | 桃中軒雲右ェ門 | 20/25 | 都はるみ | |
1972年 第23回 | 15 | 元禄忠臣蔵より 「あゝ松の廊下」 | 16/23 | 小柳ルミ子 | |
1973年 第24回 | 16 | 大利根無情(2回目) | 19/22 | 水前寺清子 | |
1974年 第25回 | 17 | 勝海舟 | 24/25 | ちあきなおみ | トリ前(3) |
1975年 第26回 | 18 | おまんた囃子 | 17/24 | 森山良子 | |
1976年 第27回 | 19 | 人生おけさ | 14/24 | 岩崎宏美 | |
1977年 第28回 | 20 | 三波のハンヤ節 西郷隆盛 | 20/24 | 島倉千代子(5) | |
1978年 第29回 | 21 | さくら日本花の旅 | 20/24 | 森昌子 | |
1979年 第30回 | 22 | 雪の渡り鳥(2回目) | 15/23 | 水前寺清子(2) | |
1980年 第31回 | 23 | チャンチキおけさ | 19/23 | 水前寺清子(3) | |
1981年 第32回 | 24 | 雪の渡り鳥(3回目) | 06/22 | 水前寺清子(4) | |
1982年 第33回 | 25 | チャンチキおけさ (2回目) | 06/22 | 水前寺清子(5) | |
1983年 第34回 | 26 | 放浪茣蓙枕 | 07/21 | 島倉千代子(6) | |
1984年 第35回 | 27 | 大利根無情(3回目) | 17/20 | 島倉千代子(7) | |
1985年 第36回 | 28 | 夫婦屋台 | 09/20 | 研ナオコ | |
1986年 第37回 | 29 | あゝ北前船 | 03/20 | 小泉今日子 | 紅白出場 勇退を宣言 |
1989年 第40回 | 30 | 東京五輪音頭 | 第1部に出演 | (相手なし) | 3年ぶりに 紅白復帰出場 |
1999年 第50回 | 31 | 元禄名槍譜 俵星玄蕃(2回目) | 22/27 | 坂本冬美 | 10年ぶりに復帰 生涯最後の紅白出場 |
Rxヒット指標にみる「三波春夫」さんの大ヒット曲
それでは、「三波春夫」さんの大ヒット曲を……私(Rx)のヒット指標を通じて見ていこうと思うのですが、『国民的歌手』であった三波春夫さんの楽曲を、今回は特別に1950年代と1960年代に分けて、それぞれの上位3選でご紹介していきたいと思います。
いずれの曲も150万pt以上という大ヒットであるのですが、非常にハイレベルなヒット曲を10年以上にわたって出し続け、一線級であり続けたことを再確認していただければという風に考えます。
1950年代の上位3曲
まずは1950年代です。『雪の渡り鳥』は売上の公称値が求められなかったので、概算値として200万ptとしています。いずれにしても、ダブルミリオン近い大ヒットとなっていますね、見ていきましょう。
1位:250万pt(1957年)『チャンチキおけさ』
浪曲師・南条文若として活動し、歌謡界にデビューするために改名した三波春夫のデビュー盤「メノコ船頭さん」と同時発売となった2枚目のシングルである。
220万枚を売り上げる大ヒットとなった。歌詞は、故郷を恋しむ思いに満ちた歌詞が当時、集団就職で都会に出ていた若者の郷愁を誘うものであった。
チャンチキおけさ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2位:230万pt(1957年)『雪の渡り鳥』
翌年、1958年(昭和33年)、第9回NHK紅白歌合戦に「雪の渡り鳥」で初出場。
三波春夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
3位:180万pt(1959年)『大利根無情』
天保15年(1844年)8月6日、下総国笹川(現在の千葉県香取郡東庄町笹川)の大利根河原で起きた大利根河原の決闘で飯岡助五郎との大利根河原の決闘に笹川繁蔵方の助っ人として参加し、ただ一人闘死した平手造酒を題材とした楽曲である。
本楽曲が発売された1959年のテイチクの歌謡曲(流行歌)レコード売上で1位を記録した。累計売上は170万枚。
大利根無情
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1960年代の上位3曲(東京オリンピックから大阪万博へ)
1位:280万pt(1963年)『東京五輪音頭』
「東京五輪音頭」(とうきょうオリンピックおんど)は、1964年10月に開催された1964年東京オリンピックのテーマソングである。日本放送協会(NHK)制定曲。作詞は宮田隆、作曲は古賀政男。
東京五輪開催の前年、1963年の6月23日(オリンピックデー)に楽曲が発表された。
三波春夫盤のレコードが最も多くの枚数を売り上げ、また三波がレパートリーの一つとして生涯歌い続けた。現在では元々三波の持ち歌であったと思われることが多いが、楽曲発表の際に歌唱したのは三橋美智也であり、作曲者の古賀自身も三橋が歌うことを想定して作曲したという。
最も売れたのは三波盤で、1964年末までに130万枚を売り上げた。三波サイドが東京オリンピックの年の『NHK紅白歌合戦』のトリを狙う目的で集中的にプロモーションを行ったことが三波盤のヒットに繋がったという。
東京五輪音頭
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2位:250万pt(1964年)『俵星玄蕃』
俵星玄蕃(たわらぼしげんば)は、三波春夫のシングル及び楽曲。1964年4月発売。「長編歌謡浪曲」というジャンルの代表的な一曲。正式名称は「長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃」である。
「忠臣蔵」(赤穂事件)に絡んだ架空の人物である俵星玄蕃[1]を主人公とした曲。三波は歌手になる前は浪曲師であったが、戦前に全盛期を終えた浪曲の良いところを残したいと願い、長い浪曲をコンパクトにまとめて短くし楽しんでもらおうと「長編歌謡浪曲」というジャンルを確立し、多数の作品を自ら作詞・作曲してリリースしており、「俵星玄蕃」はその代表作。歌謡曲の部分、浪曲では啖呵と名付けられているセリフの部分、浪曲の節の部分、といった構成で成り立っている。
一つのストーリーを1曲にまとめてはいるが、全てを歌いきるのに8 – 9分を要する(一般的な歌謡曲なら2曲分の長さである)ため、時間が限られるテレビ出演時などには主に浪曲部分をカットして歌うこともあった。
三波は1964年の『第15回NHK紅白歌合戦』に出場した時にはその年を締め括る大トリとして本楽曲を歌唱した。また、1999年の『第50回NHK紅白歌合戦』に生涯最後の紅白出場を果たした際にもこの曲を歌唱した。1999年・第50回に出場した際には、当時76歳だった三波のこの時の歌唱が、60年に及ぶ歌芸の集大成とも評された。
俵星玄蕃 (曲)
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3位:160万pt(1967年)『世界の国からこんにちは』
「世界の国からこんにちは」は、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)のテーマソングである。作詞:島田陽子、作曲:中村八大。1967年1月14日に毎日新聞紙上で発表され、同年3月1日に三波春夫、坂本九、吉永小百合など複数の歌手による競作で各社からレコードが発売、総売り上げは300万枚を超えてミリオンヒット曲となった。
世界の国からこんにちは
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