ウィキペディア小旅行「東ティモール民主共和国」(East Timor)

【はじめに】
皆さん「Wikipediaで小旅行」へようこそ、ツアーコンダクターのRxです。今回の目的地は、建国20年を迎えた「東ティモール民主共和国」です。素敵な旅をお過ごし下さい。

東ティモール民主共和国(ひがしティモールみんしゅきょうわこく)、通称東ティモールは、アジア東南アジア)地域に位置する共和制国家

1999年8月30日国連の主導で独立についての住民投票を実施。インドネシアの占領から2002年5月20日に独立した(国際法上はポルトガルから独立)。21世紀最初の独立国である。ポルトガル語諸国共同体加盟国。

東ティモール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下略 )

国名

国名は「ティモール島の東部」を意味するが、ティモールの由来はマレー語インドネシア語で「東」を意味する「ティムール (timur)」であり、語源的には重複表現となっている。

テトゥン語の「ロロ」は「太陽」、「サエ」は「出る」、「ロロサエ」は「日の出」またはその方角(すなわち「東」)を意味する。ポルトガル語の「レスチ」(英語読みなら「レスト」)も「東」を意味する。

created by Rinker
¥2,750 (2024/11/23 17:11:18時点 楽天市場調べ-詳細)

歴史

ポルトガル植民地

詳細は「ポルトガル領ティモール」を参照

ティモール島は16世紀ポルトガルによって植民地化された。その後オランダが進出し、一時はポルトガルがこれを撃退したが、1859年西ティモールとソロール島をオランダに割譲したことで、ティモール島は東西に分割された。

1911年から翌年にかけて、収奪の厳しさに耐えかねてリウライ(マヌファヒ小国王)のドン・ドンボアベントゥラが反乱を起こした。戦死者3,424人、負傷者1万2,567人を出した。

ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、当初は1941年にオランダ軍とオーストラリア軍が保護占領し、ティモール島の戦い(英語版)のあとオランダ領東インド地域と合わせて1942年に日本軍が占領したが、1945年の日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活し、1949年にインドネシアの一部として西ティモールの独立が確定したあともポルトガルによる支配が継続した。これに対し、人口の中で圧倒的多数を占める地元住民は独立志向を強めたが、アントニオ・サラザール首相などの「エスタド・ノヴォ体制」により抑圧された。

1974年にポルトガルで左派を中心としたカーネーション革命が起こり、植民地の維持を強く主張した従来の保守独裁体制が崩壊すると、東ティモールでも政治活動が自由化される。

インドネシアによる占領

1975年11月28日、右派勢力と連携したインドネシア軍特殊部隊が西ティモールから侵攻を開始する中、フレティリンが首都ディリで東ティモール民主共和国の独立宣言を行う。翌29日、インドネシア軍が東ティモール全土を制圧し、30日にはアポデティ指導層などからなる親インドネシア派が併合を承認する「バリボ宣言」を出した(国連はこれを認めず)。

created by Rinker
¥650 (2024/11/23 17:11:19時点 Amazon調べ-詳細)

12月7日、インドネシアは東ティモールに対する全面侵攻「スロジャ作戦」を開始。12月12日、国連安全保障理事会総会が、インドネシアの即時撤退を求める決議可決。1976年7月17日、インドネシアが27番目の州として併合宣言を行った。国連総会ではこの侵攻と占領を非難する決議がただちに採択されたが、日・欧・米・豪など西側の有力諸国は反共の立場をとるインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上黙認した。

国連の暫定統治

1999年5月、インドネシア、ポルトガルと国連、東ティモールの住民投票実施の枠組みに関する合意文書に調印(ニューヨーク合意)。6月、国際連合東ティモール・ミッション(UNAMET)が派遣される。8月30日、独立に関する住民投票が行われた(投票率98.6%)。9月4日に発表された投票結果では、自治拒否78.5%で、特別自治権提案が拒否されたことで独立が事実上決定。

9月7日、インドネシア治安当局は東ティモールに非常事態宣言を発令し、国軍5,500人を増兵しインドネシア併合維持派の武装勢力(民兵)を使って破壊と虐殺を行う。9月12日、インドネシアが国連平和維持軍の受け入れを容認し、オーストラリア軍を主力とする多国籍軍(東ティモール国際軍、INTERFET)が派遣された(東ティモール紛争)。

その結果、暴力行為は収拾したが、多くの難民が西ティモールに逃れ、あるいは強制的に連れ去られたりした。10月には、国際連合東ティモール暫定行政機構が設立、2002年の独立まで率いた。

独立後の平和構築活動
その後の制憲議会選挙ではフレティリンが圧勝し、大統領にはシャナナ・グスマン、首相にはマリ・アルカティリが選出され、2002年5月20日に独立式典を行った。

経済

IMFによると、2018年のGDPは31億ドル。1人あたりのGDPは2,435ドルである。 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は77万人と推定されており、国民の過半数を占めている。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に分類されている。

ポルトガル領時代は、アンゴラやモザンビークなどのほかの植民地同様、工業化がまったく進まず、自給自足的な農業に依存した貧困状態だった。インドネシアによる統治が始まると社会資本の整備が緩やかに進んだが、1999年の住民投票で独立支持派が勝利するとインドネシア併合維持派の民兵が首都ディリを破壊し、経済は壊滅状態に陥った。

しかし、2006年の混乱後は経済成長が始まり、2007年から2011年にかけては平均12.1%にも達する高いGDP成長率を記録した。一方で、このGDPの伸びの大半は石油収入によるものであり、経済の多角化を図ることが目標とされている。

石油・天然ガスによる収入は2011年時点で実にGDPの8割に達しており、IMFは東ティモールの経済を「世界でもっとも石油収入に依存した経済」と評している。石油以外の主要産業は農業で、米やトウモロコシ、コーヒー豆などが生産されている。コーヒーはフェアトレード商品として人気がある。かつての独立闘争の影響が残り、米やトウモロコシの主食は近隣諸国からの輸入に依存している。

石油は南方のティモール海の海底油田より産出されている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました