【はじめに】
今回は、牡馬クラシック三冠の第1戦「皐月賞」の歴史などをWikipediaと共に振り返っていきましょう。
皐月賞(さつきしょう)は、競馬の競走に使われるレース名。中央競馬の皐月賞は中山競馬場で開催される。
皐月賞 (曖昧さ回避)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1930年代:三冠の第1戦が最後に設立
1932年(昭和7年)に「東京優駿(日本ダービー)」が創設され、1938年からクラシック五大競走が順次整備されていった日本競馬。現在の「皐月賞」が創設されたのは1939年(昭和14年)でした。
1939年に当時の日本競馬会がイギリスの2000ギニーに範をとり、4歳 (現3歳)牡馬・牝馬限定の競走「横浜農林省賞典四歳呼馬 (よこはまのうりんしょうしょうてんよんさいよびうま)」を創設。第1回は横浜競馬場の芝1850メートルで施行された。
東京優駿競走・阪神優駿牝馬 (現:優駿牝馬)・京都農林省賞典四歳呼馬 (現:菊花賞)・中山四歳牝馬特別 (現:桜花賞)とともに「五大特殊競走」として位置づけられ、東京優駿競走・京都農林省賞典四歳呼馬とともに日本のクラシック三冠競走を確立した。
皐月賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イギリスの2000ギニーは1マイル戦で、ダービーとの距離差は約800mあります。日本でも、戦前は1800~1850mの距離で開催されていて、2000mに固定されるのは戦後になってからです。
第1回は、1939年4月29日(当時の天長節)に開催され、ロツクパークが制しました。同馬の血統としては、ブルーボンネットを牝系の祖とし、伯父にナスノが居るちゃんとした血統で、前走は新呼戦を8馬身差で圧勝しているにも関わらず、単勝の売上は僅か1票とも言われる事実上の最低人気でした。
1940年代:激動を経て、5月(皐月)の中山開催に
1942年までは横浜競馬場の(特徴的な距離である)1850mで開催されて、1943年からは東京競馬場に移行。開催時期も安定せず、セントライトが勝った1941年は3月に開催されていましたが、4・5月に開催されることが多く、戦後は5月開催で再開することとなりました。
馬名を見ると、戦前は変わった名前が多く、1940年のウアルドマインはどうやら「World Mine」の意だったらしく、1943年のダイヱレクに関しては「Dielec(誘電)」を当時のカタカナで表記したものといった感じだったそうです。(ある意味で、時代を感じる難読馬名ですね。)
一方、1944年からは和風のカナ5文字の馬名の馬が連続して勝利しています。戦後初開催の1947年に制したのは顕彰馬にもなっている【トキツカゼ】です。5連勝6馬身差の圧勝で現 皐月賞を制し、秋にはオークスを大差勝ちして変則2冠を達成しています。ただ、このレースで6馬身差つけ2着に下したマツミドリにダービーでは逆転され、牝馬唯一の皐月→ダービーの2冠は叶いませんでした。
続く1948年も牝馬が制していて、牝馬が勝ったのはこの戦後2例のみです。この年、断然の1番人気だった【ミハルオー】は7連勝で現・皐月賞に駒を進めるも3着と初黒星。しかし本番の日本ダービーに照準を絞った調整で、10戦9勝でダービーを制覇しています。
また、1949年の【トサミドリ】も顕彰馬に選出されています。日本ダービーこそ空前絶後の大波乱となったタチカゼの7着に敗れたものの、その前後は「5連勝 → ダービー7着 → 11連勝(中央記録)」と17戦16勝という驚異の安定感を保っていました。
そして1949年からレース名が正式に「皐月賞」となり、中山競馬場での開催に落ち着く事となります。
1950年代:2000mに定着(皐月賞の表記にはブレ)
1950年には、中山競馬場の2000mで初めて開催され、それ以降、災害や改修などを除いて基本的には距離と開催場は変わりません。しかし、レース名の表記については、ブレが見られました。
今でこそ数多ある「漢字」を様々な媒体でみることが当たり前でしたが、戦前から時折、特にGHQ占領下から戦後復興にかけては、新聞などで「当用漢字」が厳守されていました。そのときに「皐月賞」の「皐」の字がネックになったのです。
「皐」の字が常用漢字外のため、「さつき賞」と表記されることもある[4][注 1]。
^ 皐月賞の名称はマスコミ報道では表記ゆれを起こすことがある。とくに1950年代の読売新聞では表記ゆれが大きい。
五月賞と表記したり(1950年2月19日読売新聞朝刊2面、1954年4月14日読売新聞朝刊4面)、サツキ賞(1953年4月3日読売新聞朝刊4面国営競馬出稿広告)、さつき賞(1956年3月8日読売新聞朝刊4面)、皐月賞(1949年5月4日読売新聞朝刊2面)など1社のなかで表記ゆれを起こしている。
( 同上 )
そして、もう一つ大きな見過ごせない変化が起こります。開催時期の変化です。
戦後5月に再開され、命名された1949年から3年はちゃんと5月に開催されていました。新暦ではあるものの、ちゃんと「皐月≒5月」に開催されていたのです。
しかし、1952年に4月後半の開催に繰り上がると、厩務員ストなどの起こった年を除きほぼ例外なく4月開催で定着したのですが、レース名はそのまま「皐月賞」として4月に開催され続けているのです。
なんで「4月」開催なのに、「皐月賞」なんだろう?
という初心者が引っかかりを覚えやすいこのギャップ、実は70年前まで歴史を遡る必要があるのです。もちろん今更「卯月賞」とネーミングを変更しろ! とは思いませんが、他のレース(例えば、同日に行われる「アンタレスS」など)でも同様に、当初のネーミングと開催時期などが変わっても、JRAは全く無頓着にレース名を継承します。
俳句などで季節感を重視する人間としては、少し違和感を覚えますね(苦笑)
さて、競馬の話題に戻すと、1950年代は、クモノハナ、(幻の馬)トキノミノル、クリノハナ、ボストニアン、ダイナナホウシユウと5年連続でクラシック2冠馬を輩出しています。
後半に入ると、どちらかというとスピード重視で、ダービーを勝ちきれず中距離路線を主戦場とする馬の活躍が目立つようになります。
1960年代:コダマ、メイズイ、シンザンほか
1960年代前半には、タイトルにも書いた、コダマ、メイズイ、シンザンといった名馬がそのスピードを遺憾なく発揮し、人気馬へ駆け上がっていきました。
特に、コダマとメイズイは、距離適性的には中距離ホースでありながら、日本ダービーをレコード勝ちして春2冠を達成したことが時代の変化を物語っており、この昭和30年代が、一つの転換点だったかも知れません。
また、東京競馬場の改築などで「七夕ダービー」となった1968年の皐月賞は、5月19日開催となり、マーチス・タケシバオー・アサカオーの3強が本番で激突し話題となったことも伝わっています。
1970年代:ハイセイコー、トウショウボーイほか
20世紀の皐月賞は、1・2番人気での勝ち馬と、3番人気以下で歴史に名を残すかが変わっています。1970年代の皐月賞を制した1・2番人気の馬を並べると、
- 1970年:タニノムーティエ ~アローエクスプレスとAT対決
- 1973年:ハイセイコー ~地方から無敗9連勝し、大注目
- 1974年:キタノカチドキ ~厩務員ストで最後の5月開催、史上初の単枠指定
- 1975年:カブラヤオー ~前半58秒9の狂気のハイラップで優勝
- 1976年:トウショウボーイ ~春闘で1週遅れ東京開催、レース後「天馬」と異名
アローエクスプレスやテンポイントが敗れた上記レースは、歴史に名を残しています。
3番人気以下で制した馬には、ヒカルイマイ、ランドプリンス、ハードバージ、ファンタスト、ビンゴガルーがおり、いずれも春から初秋までは一定の活躍を見せましたが、上記5頭が華々しく活躍したことに比べると見劣る感じがするのも否めません。
1980年代:1番人気は3連勝(2頭の三冠馬含む)
1980年代で、1番人気が勝ったのは1983~1985年の3連勝時期のみで、その他は1番人気が7敗しています。この中で特に印象的なのが、17頭立ての16番人気(ブービー)で制した【カツトップエース】でしょう。単勝6,920円、最内枠からの逃げ切りは衝撃的でした。
1番人気が勝ったのは、2頭の3冠馬を含む上記の時期。1985年には【ミホシンザン】が父に並ぶ皐月賞制覇を果たし、右脚を庇いながら5馬身差の圧勝で飾りました。(→ 日本ダービーは故障で回避。)
また、2番人気では【サクラスターオー】が、人気のマティリアルを下して1987年(第47回)皐月賞を制しています。
1990年代:ナリタブライアン、1分59秒0
1990年代ではサニーブライアンが11番人気で勝利し、テイエムオペラオーも当時は5番人気での評価で、やはり1番人気の名馬っぷりが際立ちます。
1991年のトウカイテイオー、1992年のミホノブルボン、そして1994年のナリタブライアンは、初めて2分の壁を破り、前年のナリタタイシンのレースレコードを1秒2更新:「1分59秒0」で制します。
2000年代:1分58秒台へ、大半が2分切り
20世紀では「ナリタブライアン」1頭しかいなかった2分切りが、2000年代に入ると多発し、2002年に【ノーリーズン】が15番人気で1分58秒5を叩き出すと、翌々年の【ダイワメジャー】が1分58秒6、2009年にはアンライバルドが1分58秒7と、スピード化が進みます。
1番人気の制覇は、2001年【アグネスタキオン】、2003年【ネオユニヴァース】、2005年【ディープインパクト】という名馬たちです。この舞台を人気で制すると、やはり「三冠」を強く意識するそんな時代が平成年間を通じて脳裏に起こるようになります。
2010年代:人気薄が1分57秒台、活躍と人気が非連動に
2010年代以降は、スピード化する年と、2分を超えてスタミナ・パワーも要求される年に二極化していきます。
1番人気でロゴタイプが1分58秒0をマークすると、2015年・ドゥラメンテは58秒2、そして、2016年に【ディーマジェスティ】が初の57秒台を8番人気で刻むと、その翌年には【アルアイン】が9番人気で達成しています。平成最後の【サートゥルナーリア】も1分58秒1という好タイムでした。
一方、ヴィクトワールピサ、オルフェーヴル、ゴールドシップ、コントレイル、エフフォーリアと歴史的名馬が制した皐月賞は、むしろ2分を超えており、年により求められる能力が異なってきています。
また、オルフェーヴル、ゴールドシップはこのレースを4番人気でしたし、エフフォーリアも2番人気でした。ドゥラメンテも3番人気ですし、その後の活躍に比べると「皐月賞」が低評価だったというケースも平成以降は目立ってきています。
歴史的には人気薄の逃げに夢を感じる一方で、ここ最近は「高速決着か否か」が人気薄を狙って展開を読む際の大事な着眼点となっているとも言えそうです。
また、牡馬三冠戦線の1番人気の成績を見比べて見ると、
レース名 | 全体 | 勝率 | 89~18年 | 勝率 |
---|---|---|---|---|
皐月賞 | 80回中25勝 | 31.3% | 30回中 8回 | 26.7% |
東京優駿 | 87回中35勝 | 40.2% | 30回中16回 | 53.3% |
菊花賞 | 82回中30勝 | 36.6% | 30回中11回 | 36.7% |
三冠レースの中で、最も1番人気の信頼感が低いレースだったことが分かります。2019年以降の3回は1~2番人気が勝っていますが、その前の3年は8・9・7番人気の馬が勝っており、時として人気薄だった馬が快勝することもあるレースだと覚えておきましょう。
2016年以降のレースレーティング
JRAが年末に集計した「レースレーティング(4着までの平均値)」は以下のとおりです。レースレーティングは「GIの目安:115」を順当に超えており、特に2016年の「119.75」というのは世界的に見てもハイ・レーティングだったといえます。
年 | レースR | 勝ち馬 | 備考 |
---|---|---|---|
2016 | 119.75 | ディーマジェスティ | 2着マカヒキ、3着サトノダイヤモンド |
2017 | 116.75 | アルアイン | 2着ペルシアンナイト |
2018 | 115.50 | エポカドーロ | 2着サンリヴァル、7着ワグネリアン |
2019 | 118.50 | サートゥルナーリア | 2着ヴェロックス |
2020 | 116.75 | コントレイル | 2着サリオス、10着ディープボンド |
2021 | 118.50 | エフフォーリア | 2着タイトルホルダー |
2022 |
年によってのバラツキは、菊花賞ほどではないものの、ダービーに比べては激しい「皐月賞」。1・2着馬を見るだけでもレベルに若干の差を感じてしまいます。果たして今年は、どんなレース結果そして未来に繋がっていくのか、楽しみに待ちましょう。
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