【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返る「競馬歳時記」。今回は「東京優駿(日本ダービー)」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。
東京優駿(とうきょうゆうしゅん、英:Tōkyō Yūshun)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。一般的には、副称である日本ダービー(にっぽんダービー、英:Japanese Derby)の名称でも知られる。
東京優駿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』( 以下省略 )
なお「日本ダービー」が終わったら、最終レース「目黒記念」もご用意していますので、ぜひどうぞ。
(幕末~大正時代)日本ダービー前史
一般的には副称の「日本ダービー」が知られている。この「ダービー (Derby)」は1780年にイギリスでダービーステークスを創設した第12代ダービー卿のエドワード・スミス・スタンレーに由来し、現在は「競馬の祭典」として競馬ファン以外にも広く知れ渡っている。
1932年(昭和7年)にイギリスの「ダービーステークス」を範として、目黒競馬場にて創設。後に創設された皐月賞・菊花賞とともに「三冠競走」を構成する。4歳 (現3歳)牝馬による桜花賞・優駿牝馬(オークス)を含めて「クラシック競走」とも総称される。
本競走を優勝することは、日本の競馬に関わるすべての関係者(ホースマン)が憧れる、最高の栄誉の1つである。距離は第1回から2400mである。
( 同上 )
このように日本語版ウィキペディアの「東京優駿」には概要に書かれています。1780年に創設された「ダービーステークス」は、20世紀前半の世界中の競馬界において既に最高峰の栄誉として君臨していて、欧州の近代競馬を導入してきた日本にとっても最高の栄誉として伝え聞いていたものでした。
日本の近代競馬は、1860年代(幕末・江戸時代)には東西で始まっていて、既に150年以上の歴史を有しています。「東京優駿」が始まったのは1932年(昭和7年)と約90年前ですが、それまでの60年間に「ダービー」がなかったとしたら却って不自然です。そういった研究をされている方々は、ネット界にも沢山いらっしゃいます。例えば、
横浜新田競馬場(よこはましんでんけいばじょう)は、横浜新田(現在の横浜山下町横浜中華街)に1862年(文久2年)に作られた日本初の洋式競馬場。
秋の競馬番組
横浜新田競馬場
・初日第三レース 横浜ダービー 3周と1/8マイル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今から約160年前にあたる1862年には、横浜新田競馬場(今、横浜中華街となっているエリア)でいわゆる「居留地競馬」が行われていた時代。秋の開催で「横浜ダービー」と題したレースが行われていた記録があるようです。
競馬の文化村もきち倶楽部 > 名馬物語 >
立川健治:失われてしまった馬たち > 第1回 バタヴィア Batavier
http://www.bunkamura.ne.jp/mokichi-club/~meiba/tachikawa/lost/backnumber/0001.html
幕末・明治の競馬について纏めているホームページの記載によれば、『バタヴィア』という小柄な馬が中国産の大型馬を相手に無敗だったことが幕末の日本競馬において鮮烈なインパクトをもたらします。
そして記録が纏まって残り始めた明治の後半の日本競馬において、「ダービー」と冠したレースの記録が幾つか散見されますので、それをピックアップしておきますと、
http://www.ne.jp/asahi/nagi/aflo/grade_race/ancient_title.html
ウィキペディアでは「帝室御賞典」としてしか掲載されていない横浜(根岸)競馬場で、日本レース・クラブが主催したレースのうち、3度については「ダービー」と冠したレースとなっています。
当時は「帝室御賞典」というレース名が定着しておらず、『下賜』を受けるレースに開催ごとに違ってレース名が付けられていました。そのうちの3例をピックアップすると、
- 1900/05/15 横浜ダービー(1 1/2マイル) ミラ
- 1902/11/18 日本ダービー(5ハロン) ツキガセ
- 1904/10/29 横浜ダービー(1 1/2マイル) カチドキ
このように1900年代には開催実績があり、しかも今から120年近く前の1902年には「日本ダービー」というレースが行われていました。距離が5ハロンと全く異なりますが、「日本ダービー」と冠したレースではかなり古い例ではないかと思われます。
また1900・1904年の「横浜ダービー」に関しては、距離1 1/2マイルで開催されています。この距離はメートル法に換算すると約2400mであり、後の時代に示される各国の「ダービー」の定義を意識したものともなっています。さらに「第二メルボルン」の戦績においても、「横浜ダービー」というレースが伝わります。(参考:弐段逆噴射さんのページ)
同年競走馬として横浜競馬場、池上競馬場で行われた競走に出走、1906年11月のデビューから翌1907年11月にかけて帝室御賞典および横浜ダービー優勝を含む無敗の22連勝を達成し、競馬ファンの人気を集めた。1908年にも横浜ダービーに優勝し、1909年11月の競走を最後に競走馬を引退した。
第二メルボルン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
- 1907/10/26 横浜ダービー 第二メルボルン(単走)
- 1908/05/09 横浜ダービー 第二メルボルン
- 1908/11/02 横浜ダービー トニック (以上、判明分)
そして、変わった所で一つピックアップしますと、こちらは「内国産。」という個人サイトからです。
明治41年(1908年) 川崎競馬場「ジヤパンダービー」
http://www.naikokusan.sakura.ne.jp/museum/Spooney.html
ウラジオストクで行われた日露大競馬会でも活躍したと伝わる明治末期の名馬:「スイテン」が、その前年に川崎競馬場で行われた「ジヤパンダービー」という競走に勝利していたという記録があります。
初代・川崎競馬場
川崎競馬場
現在の川崎競馬場の地に最初に競馬場ができたのは、1906年のことである。板垣退助を中心とした京浜競馬倶楽部によって競馬が開催された。ところが、1908年に政府が馬券発売禁止令を公布して馬券の発売を禁止したため、競馬を開催できなくなってしまった。実質的な開催日数はわずか15日だけであったという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
このように、これまで幕末明治時代を通じて振り返ってきた「ダービー」は、現代の「日本ダービー」とは全く別物ではあります。ただ、やはり競馬ファンにとって「ダービー」が憧れなように、全国各地で競馬が開催されるにあたって「ダービー」と冠したレースが散発的に開催されてきたであろうことは間違いないかと思います。恐らく、記録が残されていないだけで、自ずからダービーは開催されてきたのだと思います。(今でも、全国の地方競馬でご当地のダービーが開催されているのと同じことです)
(昭和時代)「東京優駿(日本ダービー)」の創設
昭和1桁台:悲願の「日本ダービー」創設
明治の終わり頃から「馬券禁止」時代に日本競馬を活気を失うも、「連合二哩」競走創設によって活気を取り戻し、昭和時代に入っていよいよ「日本ダービー」の創設を迎えることとなりました。
画像内にある「ウィキペディア」の記載を再引用すると、
- 4歳(現3歳)牡馬・牝馬の最高の能力試験であること。
- 競走距離が2400m、又は2400mに限り無く近いこと。
- (開催国で催される競馬の)最高の賞金額を設定すること。
- 2歳(現1歳)秋から4回の出走登録を出走資格の条件とすること。
- 負担重量は馬齢重量とすること。
- 施行時期は原則的に春季とすること。
- 以上1から6を満たす競走は国内において本競走のみとすること。
とあります。「7.」によって『日本ダービー』に相当するレースは、この「東京優駿大競走」のみとなりました。従来の国内最高賞金「連合二哩」の数倍にあたる賞金額で、今でいう「1着賞金10億円」ぐらいのインパクトがあったものと想像できます。
実は最近(2022年5月)、日本語版ウィキペディアに古い時代の日本ダービーの各回に関する個別記事が作られ始めていることをご存知でしょうか? 「第◯回」のところに太字リンクが付き始めました。
これは、第2回以降「刀銘」さんという方が順次記事をアップし始めているのです。興味のある方は、非常に充実した記事となっていますので、お時間ある時に読み物としてご覧いただければと思います。
- 1932年
第1回 - 1933年
第2回 - 1934年
第3回
このように、当時はクラシック競走が「東京優駿」しかなく、現3歳馬の限定戦では最大にして唯一のビッグレースでした。
昭和10年代:クラシック路線確立と戦禍
昭和10年代に入ると、全国各地の競馬倶楽部が「日本競馬会」に統合されると共に、順次「クラシック競走」路線が整備されていきます。その中でも、年2回となった「帝室御賞典」と共に国内最高の栄誉「二大競走」として君臨していました。
- 1935年
第4回 - 1937年
第6回ヒサトモ(牝馬)史上初の牝馬によるダービー制覇。そして第6回にして初めて良馬場で開催され、レースレコードを約8秒も更新する「2分33秒3」で決着。2着【サンダーランド】も牝馬で、史上唯一の牝馬ワンツー決着となった。
- 1939年
第8回 - 1940年
第9回史上初の「ハナ差」決着。当時史上最多の5万6507人がスタンドに詰めかけた。
- 1941年
第10回史上初の「三冠馬」となる【セントライト】が、ダービー史上最大となる8馬身の楽勝を達成。
- 1943年
第12回 - 1944年
第13回太平洋戦争激化のため「能力検定競走」として開催。前走の大差勝ちに続いた、5馬身差の圧勝。
昭和20年代:戦後の混乱と復興を反映した“日本ダービー”
ステーツマンは牡馬のクラシック競走優勝産駒は出せなかったが、前述のハルステーツは1945年、太平洋戦争の混乱による競馬休止中に盛岡で行われた種牡馬選定2400メートル競走甲級で、二大牧場からの出走馬を抑えて優勝しており、「幻のダービー馬」とも呼べる存在である。そのとき手綱を取った小西喜蔵も後に「ダービー馬と言って良い」と発言をしている。
ステーツマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1945~46年は日本ダービーが開催されなかったものの、1947年には4万人以上の観衆のもと東京優駿が復活します。
- 1947年
第14回 - 1948年
第15回デビュー7連勝の後の「皐月賞」は3着と大敗。しかし本番はあくまでダービーといった陣営の期待に応える2馬身差の快勝で8戦7勝の日本ダービー馬に。
- 1949年
第16回 - 1950年
第17回GHQによる財閥解体の影響で1949年に競走馬生産を中止した小岩井農場が生産した6頭目にして最後のダービー馬。初勝利までに8戦を要するも、2勝目が皐月賞で、不良馬場のダービーを勝ち2冠。秋の菊花賞も2着という準三冠馬。
- 1951年
第18回ウマ娘時代の令和にも再注目される「幻の馬」こと【トキノミノル】。クリフジのレコードを戦後初めて塗り替え、無敗での2冠を達成するも、その5日後には体調を大きく崩し始め、17日後に「破傷風」で急死。
- 1952年
第19回牝馬が強い1952年世代におけるダービー馬。牡馬路線で春2冠ともタカハタを下しての2冠を達成。史上初の30頭超えのダービーに。
- 1953年
第20回史上最多33頭が出走するも、1番人気に応え5連勝でダービー制覇し2冠馬に。
- 1954年
第21回
昭和30年代:もはや戦後ではない、2分28秒台での決着へ
昭和30年代は、不良馬場を10番人気で激走、父・セントライトと同じ8馬身差をつけた【オートキツ】に始まりますが、その翌年の【ハクチカラ】はアメリカへの長期遠征を行ったほか、1957年の【ヒカルメイジ】は史上初の持込馬でのダービー制覇(トキノミノルのダービーレコードを更新)をするなど、少しずつ「戦後」からの変遷を遂げていきます。
勝ちタイムを見ても、カミソリの切れ味と言われた関西の雄【コダマ】が初めて2分30秒台で駆けると、1961年は【ハクシヨウ】が大外32番枠から23番人気でハナ差まで詰めたメジロオーを下して優勝し、勝ちタイムは2分30秒2に。そして、1963年には【メイズイ】が7馬身差の楽勝でダービーを制し、その勝ちタイムは史上初めて30秒を切る「2分28秒7」というスーパーレコード。更に、その翌年の【シンザン】も、2分28秒8と続きました。
レースレコードタイムだけを見ても、1960年代に入って「スピード」重視の時代に変わっていったことが窺えます。そして、【シンザン】は戦後初の三冠馬、ひいては五冠馬となっていきました。
昭和40年代:実は1番人気が1勝のみ
昭和40年代は、後に悲劇の名馬として語られる【キーストン】が、『ダービーを金で買えるか』論争を巻き起こす【ダイコーター】を下して優勝。翌年には12番人気で【テイトオー】が優勝します。
気づけば、この10年間を1番人気で制したのは1972年のロングエースのみであり、その他の1番人気は、人気に応えることが出来ませんでした。以下、リストアップしておきます。
例えば、ダービー1番人気が落馬したこともあるという昭和40年代。【ハイセイコー】や【キタノカチドキ】ですら皐月賞を制して人気を集めるも、本番ダービーを勝つことは出来ませんでした。
昭和50年代:2年連続「三冠馬」を輩出
昭和50年代に入ると、大荒れという年はやや減少しますが、それでも各陣営に悲喜こもごもが訪れる「日本ダービー」です。
【カブラヤオー】が2冠を達成した翌年、トウショウボーイとテンポイントに人気が集中する中、4番人気の【クライムカイザー】が結果的に強引なレースでダービー馬に輝きます。
1977年の【ラッキールーラ】は9番人気でしたが、その後は40年以上、8番人気以上がダービー馬となっており、1982年まではややレベルの低下が感じ取れますが、それでも人気サイドの馬が勝利を収めてきました。
「ジャパンC」の創設によるショックを引きずって向かった1980年代の中盤、グレード制が導入される時代において、【ミスターシービー】、【シンボリルドルフ】と2年連続で1番人気のダービー馬(二冠馬)が誕生しますが、これは実に20年ぶり(メイズイ→シンザン)以来のことだったというのはある意味で意外かも知れません。
昭和60年代:史上初の1番人気3連覇、社台・さくらも制覇
2頭の三冠馬に続いて【シリウスシンボリ】が1番人気でダービーを制覇し、実は史上初めて3年連続で1番人気が勝って始まった昭和60年代。
そこから、社台・吉田善哉総裁の悲願を【ダイナガリバー】が、さくらコマースの悲願を【サクラチヨノオー】が果たすなど、昭和時代の結晶ともいうべきの昭和の「日本ダービー」史が幕を閉じます。
(平成時代)1番人気の勝率5割超
ここまで見てきた様に、1番人気が最長でも3連勝だったのが昭和時代の日本ダービーでした。やはり20~30頭台立てが当たり前という時代には、「最も運のある馬が勝つ」というキャッチフレーズが適当だったかと思います。(「不運な馬から負ける」というのがある意味正しいかも知れませんが^^;)
最も運がある馬が勝つとはいわれているが、元号が令和に変わる直前10年間(平成21年-30年)では単勝3番人気までの馬が8勝を占め、1番人気の馬が1991年(平成3年)-1995年(平成7年)に5連勝、2001年(平成13年)-2006年(平成18年)に6連勝するなど人気馬が強い傾向があり
東京優駿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
実は、平成に入るとその流れが一変して、人気サイドが勝つことが目に見えて増えてきます。
1990年代:1番人気が5連覇、武豊がダービー連覇
平成元年も含めてご紹介しますと、平成最初のダービーを制したのは【ウィナーズサークル】。史上初の「茨城県」産馬にして「芦毛」馬でのダービー馬となりました。
続く1990年は、19.6万人という入場人員を記録し、逃げ切った【アイネスフウジン】が2分25秒3という20世紀のダービーレコードで勝ち、「ナカノコール」が場内に響き渡りました。
そして、1991年の【トウカイテイオー】から1番人気が5連覇を達成したり、1998年に武豊騎手が【スペシャルウィーク】で悲願のダービー初制覇を飾ると、翌年には【アドマイヤベガ】がタイレコードで駆け抜け、日本ダービー史上初の「ジョッキー連覇」を成し遂げました。逆にこれまで騎手による連覇が達成されていなかったという事実は、21世紀の我々はすっかり忘れがちです。
2000年代:衝撃の2分23秒3、64年ぶり牝馬のダービー馬誕生
そして2000年代に入ると、「河内の夢と豊の意地」がぶつかる【アグネスフライト】の優勝に始まり、
2001年の【ジャングルポケット】からは、1番人気が史上最長の6連勝を達成します。この2001年には外国産馬への門戸開放が行われ、クロフネが出走するなど、21世紀の日本ダービーに生まれ変わっていきます。
そして、勝ちタイムという観点では、1960年代に入って2分30秒の壁を破ってから約40年、【キングカメハメハ】と【ディープインパクト】という後に名種牡馬とも2頭の名馬が、「2分23秒3」という従来のダービーレコードを2秒も更新するタイムを2年連続で叩き出し時代の変化を感じさせました。
そして、史上2例目の「2年連続ダービージョッキー」を果たす四位洋文騎手が騎乗した2頭は、2008年の【ディープスカイ】が、キングカメハメハに続く「NHKマイルC」との変則2冠を達成。そして、2007年の【ウオッカ】は、戦前のクリフジ以来64年ぶり史上3頭目の牝馬によるダービー制覇を達成しました。
2010年代:傾向は年ごとに変わるも人気サイド決着
最も運がある馬が勝つとはいわれているが、元号が令和に変わる直前10年間(平成21年-30年)では単勝3番人気までの馬が8勝を占め、
東京優駿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1998年から2009年まで12年連続で3番人気以内が勝ってきた「日本ダービー」ですが、2010年に入って7番人気の【エイシンフラッシュ】が優勝すると、傾向が少しずつ変わってきます。
2010年代は1番人気が連勝をせず、連覇を達成する騎手・調教師も現れなくなります。こうした中にあって、「日本ダービー」の馬券を当てるべく、様々な傾向を見出そうと多くの競馬ファンが試みてきました。
(令和時代)半世紀ぶりの2桁人気馬の勝利
しかし、そんな傾向を見出そうとする多くの競馬ファンを驚かせたのが、令和最初の日本ダービーで、単勝93.1倍の12番人気で制した【ロジャーバローズ】の存在です。勝ちタイムも2分22秒6ということで初の22秒台を叩き出したのもこのときでした。
気づけば1枠1番が好走したり、超高速馬場での決着となり始めている2010年代以降の日本ダービー。
2020年に父に続く無敗の2冠、そして3冠を達成した【コントレイル】が、昭和前半以来の無観客開催となった日本ダービーでサリオスとの対決を制して優勝。あの1983~84年のように2年連続1番人気での三冠馬誕生を期待された2021年は、【エフフォーリア】と若き横山武史騎手のコンビを、【シャフリヤール】と福永祐一騎手がハナ差交わしてのゴール。ダービーレコード2分22秒5での決着でした。
そしてレースレーティング的にみると、2021年はレースレーティング(上位4頭の平均値)で120.00ポンドに達し、3歳春のレースとしては世界トップクラスをキープしています。
年 | レースR | 世界 | 勝ち馬 |
---|---|---|---|
2016 | 119.75 | 2位 | マカヒキ |
2017 | 117.50 | 8位 | レイデオロ |
2018 | 117.25 | 8位 | ワグネリアン |
2019 | 118.75 | 2位 | ロジャーバローズ |
2020 | 117.75 | 7位 | コントレイル |
2021 | 120.00 | 3位 | シャフリヤール |
2022 |
他のレース(競馬歳時記)と同様に、直近6年を抽出してみましたが、GIの目安とされる115ポンドを軽々とクリアし、最低でも117ポンド台、そして世界的にみても、2016・2019年には3歳戦としては世界第2位であり、Top10を外さない高いアベレージを記録するレースとしても名を馳せています。
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