競馬歳時記【12月4週】「有馬記念」

【はじめに】
重賞競走の歴史を振り返りながら季節の移ろいを感じる「競馬歳時記」。今回は「有馬記念(グランプリ)」の歴史をWikipediaと共に振り返っていきましょう。

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有馬記念(ありまきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で実施する中央競馬重賞競走GI)である。

有馬記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

概要

まずは、ウィキペディアから『有馬記念』の概要についてを引用します。非常にシンプルながらうまく纏まっていて、初心者の方にも通じやすいかと思います。

1955年(昭和30年)まで、暮れの中山競馬場では中山大障害が最大の呼び物であった。しかし東京優駿(日本ダービー)などと比べ華やかさに欠けていた。

このため、中山競馬場の新スタンド竣工を機に当時の日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧が「暮れの中山競馬場で日本ダービーに匹敵する大レースを」と提案。当時としては他に類を見ないファン投票で出走馬を選出する方式が採用され、1956年(昭和31年)に「中山グランプリ(なかやまグランプリ)」の名称で創設された(名称の選定経緯については後述)。

しかし、第1回中山グランプリの興奮も冷めやらぬ1957年(昭和32年)1月9日に創設者の有馬が急逝し、第2回からは有馬の功績を称えて「有馬記念(第○○回グランプリ)」に改称。
以来、中央競馬の一年を締めくくるレースとして定着した。施行場は創設時より中山競馬場で変わっておらず、施行時期も12月下旬で定着している。

( 同上 )

詳細な経緯については画像の形で引用するにとどめます。ここも日本語としては平易にかかれているので細かい部分を抜きにして読めば意味は理解できるかと思います。

( 同上 )

昭和時代:関東・関西の日本一決定戦

戦前から12月に競馬が開催されることはありましたが、基本的には年に2回(春・秋)に開催されるものという印象が根強かったこともあってか、年末近くに大レースが開催されることは稀でした。

戦前だと、関西の「連合二哩」競走が12月下旬に開催された時期があり、戦後に入ってからはアラブの「読売カップ」などが12月下旬に開催されていきました。そして、関東では中山開催が1950年代には定着し、「クモハタ記念」や「中山特別」が開催されるなど、『八大競走』に準ずる重賞が年末最後の大レースとして開催されていました。

昭和30年代:天皇賞馬も出走できる関東注目の1戦

当時はまだ、関西馬が関東に気軽には遠征できなかった時代で、有馬記念とほぼ同じ時期に関西では「阪神大賞典」が歳末の大レースとして開催されるようになっていきますが、創設当初から好メンバーが揃い、まさに「オールスターゲーム」のようなワクワクするレースとなっていきます。

初回は現3歳馬が6頭、古馬が6頭。当年のクラシックホースは桜花賞馬以外が揃い、同年の春・秋の天皇賞馬も出走していました。昭和時代は長らく古馬最高の栄誉だった「天皇賞馬」は“勝ち抜け制”が敷かれていたため、当時は天皇賞馬となると『目標を失いG2みたいな重賞しか出られるレースがない』という状況でした。それを解消するレースとも言える存在となっていったのです。

中山グランプリ創設
出走12頭のうち、天皇賞の優勝馬が3頭、クラシック競走の優勝馬が4頭と当時の強豪が一堂に会し、中山では1万人入れば大入りといわれた時代にあって、当日の入場者は2万7801人という盛況であった。

( 同上 )

現4歳馬が当初9回のうち7回を制していますが、これは菊花賞などの現3歳重賞を戦い終えた明け現4歳馬が充実した形で天皇賞を制し、年末を迎えられていたことを表しているでしょう。そもそも天皇賞(春)は1959年までずっと現4歳馬が勝っていましたし、(秋)も2度を除いて現4歳馬が勝っていました。(現3歳馬はしばらく出走すること自体が叶わなかった)

故に、現3・4・5歳馬みたく複数の世代のしかも一流馬が一堂に会する舞台として『中山グランプリ(→有馬記念)』は画期的であると共に、現4歳勢の充実ぶりが明らかとなる場でもあったのです。

回数施行日距離優勝馬性齢タイム優勝騎手
第1回1956年12月23日内2600mメイヂヒカリ牡42:43 1/5蛯名武五郎
第2回1957年12月22日内2600mハクチカラ牡42:49 0/5保田隆芳
第3回1958年12月21日内2600mオンワードゼア牡42:49 1/5八木沢勝美
第4回1959年12月20日内2600mガーネツト牝42:50.9伊藤竹男
第5回1960年12月18日外2600mスターロツチ牝32:44.5高松三太
第6回1961年12月24日外2600mホマレボシ牡42:40.8高松三太
第7回1962年12月23日外2600mオンスロート牡52:44.4山岡忞
第8回1963年12月22日外2600mリユウフオーレル牡42:42.5宮本悳
第9回1964年12月27日外2600mヤマトキヨウダイ牡42:45.1梶与四松

第1回の【メイヂヒカリ】は21戦16勝で現役を終え、後にJRA顕彰馬に。一方で故障でブービーに敗れた【ダイナナホウシユウ】は顕彰馬を逃す結果となってしまいました。

第2回の【ハクチカラ】は天皇賞秋からの連勝で大レースを連勝し、翌年夏からアメリカ遠征に旅立ちました。第3回の【オンワードゼア】も有馬記念を4馬身差で制し、いわば国内敵なしの状態でした。

そこから第4回【ガーネツト】、第5回【スターロツチ】と9番人気のオークス馬が年末に波乱を起こし、しかも由緒ある血統から牝系を発展させていきました。その後、1960年代に入ると些か地味な名前が続いていますが、いずれもこの時代の一線級であり、実力差が拮抗していた時代に勝つに相応しい馬たちでした。

昭和40年代:シンザン5冠馬、スピードシンボリ連覇

創設当初2600mで開催されていた「有馬記念」でしたが、1966年からは現在の2500m戦となります。最後の2600m開催となった記念すべき10回目は、戦後初の三冠馬となった【シンザン】が『5冠馬』に輝いています。いわゆる『シンザンが消えた』の大外勝負での栄冠でした。


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この中日新聞社の動画をみても、『サラブレッド日本一を決める』などと語られています。当時、関西から生まれた三冠馬として、リユウフオーレル以来2頭目の関西馬の日本一に輝いたことは、今とは全く違った『日本一決定戦』として、東西で雌雄を決する大一番という印象が強かったのです。

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そして1964年に12月最終週開催となり、1965年も12月26日と年の瀬の開催となった有馬記念。実はその5日後の1965年の大晦日、藤田まことさんが出演した寸劇パートに、何と『シンザン』の鳴き声が効果音として使われたのです。しかも、白組司会の宮田輝アナウンサーからは、

宮田輝アナ『来年は午年でございます。五冠馬シンザンのいななきをお聞き頂いた訳です。』

( 当時の音源より文字起こし )

などと紹介されていました。十数年前には「ウマの競輪」などと自虐的に客を呼ばなければいけなかった時代からすると、市民権を得てきたことが窺える社会現象的な人気馬だったといえるでしょう。

恐らく、NHK紅白歌合戦で鳴き声が使われた競走馬は殆どいないでしょうし、人間ではなく馬の方にフォーカスされて紹介された事例というのも珍しいと思います。これはきっと「有馬記念」というレースの地位が僅か10年でトップクラスに押し上げられたことを示すものだとも思えます。

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第10回1965年12月26日芝・外2600mシンザン牡42:47.2
第11回1966年12月25日芝・内2500mコレヒデ牡42:37.0
第12回1967年12月24日芝・内2500mカブトシロー牡52:39.7
第13回1968年12月22日芝・内2500mリュウズキ牡42:46.2
第14回1969年12月21日芝・内2500mスピードシンボリ牡62:35.1
第15回1970年12月20日芝・内2500mスピードシンボリ牡72:35.7
第16回1971年12月19日芝・内2500mトウメイ牝52:36.0
第17回1972年12月17日芝・内2500mイシノヒカル牡32:38.5
第18回1973年12月16日芝・内2500mストロングエイト牡42:36.4
第19回1974年12月15日芝・内2500mタニノチカラ牡52:35.9

そして、昭和40年代中盤までの有馬記念に欠かせない存在となったのが【スピードシンボリ】です。現6・7歳で史上初の連覇を達成した同馬ですが、現3歳から有馬記念に出走し続け、明け現4歳春に天皇賞を制すると2度の海外遠征を挟みながら5年連続「グランプリ」出走の偉業を成し遂げたのです。

また、1971年には牝馬【トウメイ】が勝っています。馬インフルエンザの流行の影響で6頭立てとなった同年の同馬は、結果的には20世紀最後の牝馬グランプリホースであり、史上初の母子グランプリ制覇を果たすことともなりました。

この時期になると現4歳馬以外も優勝するのが普通になり、イシノヒカルが史上初めて3歳牡馬として有馬記念を制しています。その翌年に1番人気に支持されるも3着と敗れた現3歳馬【ハイセイコー】は、その年6着だった【ナオキ】などと共に『中山2500m』というタフなコースへの疑問を投げかけるのに一役買ったのかも知れません。『長距離に強い馬』だけが強い馬でなくて、適正距離という概念が日本で導入されるキッカケの時期に差し掛かっていたのです。

昭和50年代:TTGからルドルフまで

昭和50年代に入ると、勝ち馬が多少地味に見える年もありますが、やはり歳末のグランプリということもあってそれなりの威厳は保っていました。逆に派手さで言うと、回次のところが太字になっていて、リンクが貼られている4回は非常に著名です。

第20回1975年12月14日芝・内2500mイシノアラシ牡32:38.1
第21回1976年12月19日芝・内2500mトウショウボーイ牡32:34.0
第22回1977年12月18日芝・内2500mテンポイント牡42:35.4
第23回1978年12月17日芝・内2500mカネミノブ牡42:33.4
第24回1979年12月16日芝・内2500mグリーングラス牡62:35.4
第25回1980年12月21日芝・内2500mホウヨウボーイ牡52:33.7
第26回1981年12月20日芝・内2500mアンバーシャダイ牡42:35.5
第27回1982年12月26日芝・内2500mヒカリデュール牡52:36.7
第28回1983年12月25日芝・内2500mリードホーユー牡32:34.0
第29回1984年12月23日芝・内2500mシンボリルドルフ牡32:32.8

関西テレビの杉本清アナウンサーも実況した1977年の有馬記念は、TTGが最後の3頭揃い踏みとなり、テンポイントが文字通り『日本一』となりました。中長距離をメインとしていた昭和の時代の集大成ともいえる力戦の数々は今なお伝説となっています。


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1980年代に入ると、有馬記念の前の月に「ジャパンC」が創設されたり、天皇賞(秋)が2000mに短縮されて、勝ち抜け制が撤廃されたり、G1に格付けされたりと周囲の環境に変化がありましたが、やはり中長距離馬が年末に出走してその栄誉を目指す最高峰のレースという位置づけは不変のものでした。

昭和60年代:世界のルドルフの連覇から昭和最後の名勝負へ

昭和59年から表示すると、シンボリルドルフが系列の先輩ともいえる【スピードシンボリ】以来の連覇を達成したのが昭和60年。“世界のルドルフ”が“日本のシンザン”を突き放すという構図は、もはや国内最終戦といった期待感から、例年以上に『日本代表』を決する様な高揚感がありました。

フジテレビ盛山毅アナウンサーの実況「世界のルドルフやはり強い!3馬身4馬身!日本のミホシンザンを離す!日本最後の競馬!最後のゴールイン!ルドルフ圧勝致しました!日本でもうやる競馬はありません!あとは世界だけ!世界の舞台でその強さをもう一度見せてください!」は名文句となった。

シンボリルドルフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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第29回1984年12月23日芝・内2500mシンボリルドルフ牡32:32.8
第30回1985年12月22日芝・内2500mシンボリルドルフ牡42:33.1
第31回1986年12月21日芝・内2500mダイナガリバー牡32:34.0
第32回1987年12月27日芝・内2500mメジロデュレン牡42:33.9
第33回1988年12月25日芝・内2500mオグリキャップ牡32:33.9

このような盛り上がりの中で、JRAはレース3日前の22日、「有馬記念ではタマモクロス・オグリキャップ・サッカーボーイの3頭を単枠指定する」と発表。有馬記念で3頭が単枠指定されたのは、1984年の第29回有馬記念シンボリルドルフミスターシービーカツラギエースが単枠指定されて以来のことだった。

年が明けた1989年1月7日昭和天皇が崩御したため、この第33回有馬記念が“昭和最後のGI競走”となった。このことからオグリキャップ、タマモクロス、サッカーボーイ、スーパークリークが唯一対戦したこのレースは中央競馬“昭和最後の名勝負”と語られるようになった。

第33回有馬記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そして、結果的に「昭和最後」となった1988年の第33回は、笠松出身の【オグリキャップ】が衝撃の中央デビューの年を飾り、3着になったサッカーボーイはこのレース後に故障が続き、最後のレースとなりました。

平成時代:世界最高クラスの馬券売上、年末の風物詩を堅持

勝馬投票券の売上は日本一を誇る競走となり、1996年(平成8年)度には世界の競馬史上最高額となる875億円を売り上げ、ギネス世界記録に認定登録された。有馬記念は競馬界のみならず日本の年末の風物詩として、社会的な認知を得るに至っている。

現在では距離別の競走体系が整備され、同じ12月に香港国際競走が行われることもあり外国調教馬の遠征やスプリント・マイル戦線での活躍馬の出走は少なくなったものの、2019年の第64回には合計11頭のGI級競走優勝馬が出走するなど、日本国内での3歳馬・古馬混合中長距離競走としてはトップクラスの競走としてその地位を確立している。

有馬記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1990年代:売上875億円の世界記録

時代が平成に入って、平成三強などが話題を呼ぶ中、この時代までは、春は天皇賞、秋は有馬記念が今以上に威厳を保ち、距離が厳しい馬でも出走することが珍しくありませんでした。

勝ち馬を見るだけで、当時のレースを鮮明に思い出す競馬ファンも少なくないかと思いますので、個別の回顧は省略しますが、こうした名勝負や波乱の積み重ねが、売上875億円という世界最高峰の売上額を記録するだけのパワーを齎したのだと思います。

第34回1989年12月24日イナリワン牡52:31.7
第35回1990年12月23日オグリキャップ牡52:34.2
第36回1991年12月22日ダイユウサク牡62:30.6
第37回1992年12月27日メジロパーマー牡52:33.5
第38回1993年12月26日トウカイテイオー牡52:30.9
第39回1994年12月25日ナリタブライアン牡32:32.2
第40回1995年12月24日マヤノトップガン牡32:33.6
第41回1996年12月22日サクラローレル牡52:33.8
第42回1997年12月21日シルクジャスティス牡32:34.8
第43回1998年12月27日グラスワンダー牡32:32.1
第44回1999年12月26日グラスワンダー牡42:37.2
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地方出身の馬が1988~90年と3連覇し、1950年代のように八大競走を席巻したかと思えば、2年連続でブービー人気の馬がグランプリを勝つ大波乱(新馬券だった「馬連」が威力を発揮)。そして、90年のオグリキャップや93年のトウカイテイオーは、まさに『伝説』の復活劇として今も語られています。

そして、1994年の【ナリタブライアン】が菊花賞からジャパンCをスキップして有馬記念を制する様になると、翌年にはマヤノトップガンもそのローテーションで優勝など、現3歳馬が勢力を伸ばします。

1990年代は、当時まだクラシックに出走できなかった外国産馬の【グラスワンダー】が、『グランプリ3連覇』を果たすこととなる有馬記念連覇を達成し、同期の【スペシャルウィーク】と『やっぱり最後は最強の2頭』によるハナ差の名勝負を演じて幕を閉じます。

天皇賞馬が勝ち抜け制で出走できない中でグランプリを新たな古馬の目標として現役を続ける馬が居た様に、外国産馬もクラシックには出走できなかったもののこのグランプリには出走できました。マルゼンスキーも出走を計画していたことからも分かる様に、20世紀において『日本一決定戦』としての役割を担ってきたのは、グランプリの名を冠したこの「有馬記念」だったのです。

2000年代:オペラオーに始まり、幾多の伝説が

そして、2000年代に入ります。世紀末決戦となった2000年は【テイエムオペラオー】が年内8戦8勝のパーフェクトな成績で『ハナ差圧勝』を演じきります。

そして、2002年には【シンボリクリスエス】が外国産の3歳馬として勝利し、その翌年にはジャパンCで付けられた9馬身差を引退レースの場でつけ返すという離れ業をやってのけ、グラスワンダーに次ぐ連覇を達成しています。

そして2004年には【ゼンノロブロイ】が、今や挑む者も少なくなった「秋古馬三冠」を達成し、現時点で最後の達成者となっています。この頃はまだ10・11・12月と3ヶ月連続でG1を戦うローテーションも珍しくありませんでした。

第45回2000年12月24日テイエムオペラオー牡42:34.1
第46回2001年12月23日マンハッタンカフェ牡32:33.1
第47回2002年12月22日シンボリクリスエス牡32:32.6
第48回2003年12月28日シンボリクリスエス牡42:30.5
第49回2004年12月26日ゼンノロブロイ牡42:29.5
第50回2005年12月25日ハーツクライ牡42:31.9
第51回2006年12月24日ディープインパクト牡42:31.9
第52回2007年12月23日マツリダゴッホ牡42:33.6
第53回2008年12月28日ダイワスカーレット牝42:31.5
第54回2009年12月27日ドリームジャーニー牡52:30.0

そして2005年に無敗の三冠馬となった【ディープインパクト】が先輩達に続けと菊花賞からジャパンCを回避して挑んだ有馬記念。クリスマス決戦を制したのは、ルメール騎手・騎乗の【ハーツクライ】。新たな『競馬に絶対はない』と印象付けるには十分なレースとして語られました。

ここ四半世紀ではかつての様な大波乱は見られなくなったものの、2007年には9番人気だった中山巧者の【マツリダゴッホ】が3歳牝馬として久々のグランプリ制覇を目指したダイワスカーレットを下しての優勝を果たすなど、やはり競馬の魅力を凝縮したレースとして「有馬記念」は君臨していました。

しかし少しずつ時代の波が押し寄せていったのが平成20年代。2007年に11着と大敗した【ウオッカ】が、2008年にはファン投票1位に支持されるも、『ジャパンC後の疲労による休養』のため回避。その翌年も有馬記念を2年連続で回避する結果となりました。第52回まででファン投票1位だった馬は故障などを除いて全て出走しており、故障ではない形での回避はウオッカが初めてのことでした。

2008年は牝馬【ダイワスカーレット】が37年ぶりに牝馬として有馬記念の戸を開き、2009年には池添騎手が涙で喜びを爆発させる【ドリームジャーニー】の優勝を見せましたが、時代は少しずつ「有馬記念」に挑む以外のローテーションを選ぶようになります。

2010年代:レース間隔、香港遠征…… 棲み分けによる存在感の低下

2010年代には、レース間隔もあって秋にG1を3戦する馬が現象します。これまでの菊花賞から挑む3歳馬が優勢なほか、凱旋門賞を使って有馬記念に直行するルートも増えてきて、ジャパンCを使った馬は「有馬記念」を回避することも珍しくなくなりました。2012年にファン投票1位だった【オルフェーヴル】も有馬記念を回避しています。ウオッカに次ぐ、故障以外では史上2頭目。

東京競馬場でスピードを活かせる馬はジャパンC を、国内G1で少し家賃の高い馬は香港ヴァーズを、そして中山でスタミナやパワーを誇れる馬は有馬記念をと、「国内最終戦」を各陣営で馬によって棲み分けるようになり、従来のような『日本一決定戦』というよりかは、『秋のチャンピオン決定戦の一つ』という位置づけが明確になったのがこの2010年代だったかと思います。

第55回2010年12月26日ヴィクトワールピサ牡32:32.6
第56回2011年12月25日オルフェーヴル牡32:36.0
第57回2012年12月23日ゴールドシップ牡32:31.9
第58回2013年12月22日オルフェーヴル牡52:32.3
第59回2014年12月28日ジェンティルドンナ牝52:35.3
第60回2015年12月27日ゴールドアクター牡42:33.0
第61回2016年12月25日サトノダイヤモンド牡32:32.6
第62回2017年12月24日キタサンブラック牡52:33.8
第63回2018年12月23日ブラストワンピース牡32:32.2

ゴールドアクター、サトノダイヤモンド、ブラストワンピースは有馬記念でグランプリホースに輝いたものの、その後はG2を勝つ以外にG1は勝てず惜敗続き。一方で、オルフェーヴル、ジェンティルドンナ、キタサンブラックなどこのレースを最後に引退する馬が有終の美を飾る姿も目立つ様になり、平成20年代後半以降はそういった馬ばかりが勝ち馬に名を連ねるようになりました。

要するに、ジャパンC、香港国際競走、有馬記念 のうち「どれか1つを選ぶ」という選択肢が普通になった中長距離路線の一流馬にとって、『敢えて有馬記念を選ぶ』メリットがなければ他のレースに流れるという状況になったことは、有馬記念が始まった半世紀はなく、その『グランプリ』の威厳が岐路に立たされていたことの静かな表れでもあったのです。

令和時代:国内最高賞金額による復活劇

2016年以降のレースレーティングと共に、令和時代を振り返っていきます。世界的なレースレーティングを見ても、実はもっと偏差低く安定した高レートを叩き出しているのが有馬記念です。最低でも120.75ポンド(G1の基準は115ポンド)と、世界的に2400m超のG1としては最高級を誇っています。

2410mなどほぼ2400mのレースを除き、2500m以上としてはここ数年、世界最高レートを連続して叩き出しています。これにはクラシックディスタンスで国外G1を制してきた馬が参戦したことによる引き上げ効果もあるものと見られます。手薄な印象と比べるとこの高レートは意外な感じすらしてしまいますが。

第61回2016年12月25日120.75サトノダイヤモンド牡32:32.6
第62回2017年12月24日121.00キタサンブラック牡52:33.8
第63回2018年12月23日120.75ブラストワンピース牡32:32.2
第64回2019年12月22日122.00リスグラシュー牝52:30.5
第65回2020年12月27日122.75クロノジェネシス牝42:35.0
第66回2021年12月26日122.00エフフォーリア牡32:32.0

令和最初のリスグラシューは豪・コックスプレートを制し、2020・21年のクロノジェネシスはドバイSCで2着など国際的に活躍する牝馬がこの舞台を勝ち、2020年はサラキアが人気薄で2着に来るなど牝馬も牡馬を相手に活躍するのが珍しくなくなってきています。

勝ち馬だけを見ると非常に見応えがありますが、当時の一線級の馬をみると「有馬記念」を回避している馬も目立ちます。当然ながら、2020年にジャパンCで1・2・3を達成した三冠馬3頭は有馬記念を回避しています。

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国内最高賞金額を「ジャパンC」と共に誇ってきた「有馬記念」でしたが、気づけば『安いニッポン』ではないですが、海外にさらなる高額賞金競走が目立つようになり、国内馬にとってもキャピタルフライト(?)が目立つようになってきていました。
それは冗談ですが、馬への疲労や負担を考えると、3億円(当時)で得意ではないレースを無理に戦わせることなく、気持ちの良い形で年を越したいという陣営が増えてきたのも一因かと感じたのです。

ただ、年々香港国際競走(特に同距離に近い香港カップ香港ヴァーズ)への出走馬の流出が相次いでいること、日本国外においても、サウジカップ(1000万USドル)、ドバイワールドカップ(696万USドル)、凱旋門賞(285万7000ユーロ)などに代表される世界最高賞金額のレースが増えてきており、「海外の主要競走に対する競争力を高める」目的で、2022年の第67回から、優勝本賞金を4億円に増額される(ジャパンカップと同額)。

有馬記念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

そこで、2022年に優勝賞金が4億円となると、これまで無かった現象が起こります。「ジャパンC」のメンバーがやや手薄となり、レース間隔などの影響もあってか「有馬記念」の方に強豪馬が選択するようになったのです。

そして、円安などの流れもあるのかも知れませんが、2023年にはジャパンCと共に有馬記念もさらなる優勝賞金の増額(3→4→5億円)が見込まれています。優勝賞金だけで決まるものではないですが、高額になることが陣営にとってマイナスに働くとは思えません。故に、今後の様子を見つつになるでしょうが、この賞金増額が有馬記念の復活を案外後押しするかも知れません。ひょっとするとジャパンCよりも海外馬が戦いやすそうな中山競馬場でのレースに海外馬も本当に挑んでくるかも知れません。

「有馬記念」が年末の風物詩として定着して半世紀以上経っている中、「ホープフルS」が中央競馬最後のG1となっても、このネームバリューを手放すのはあまりにも軽率です。優勝賞金増額だけで2022年ほどの復活が遂げられるならば、向こう暫くは「有馬記念」は安泰なのかも知れません。もちろん油断はなりませんが、年末最後の古馬芝のG1が、グランプリレースに相応しい見応えのあるものとなっていくことを願い、貴方の夢をお聞きしたく思います。

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