【はじめに】
今回は、「天皇賞(春)」の歴史を、Wikipediaと共に振り返っていきましょう。
この項目では、春に京都競馬場で3200mで行われる競馬の競走について説明しています。秋に東京競馬場で2000mで行われる競馬の競走については「天皇賞(秋)」を、天皇賞全体の歴史などについては「天皇賞」をご覧ください。
天皇賞(春)(てんのうしょうはる)は、日本中央競馬会(JRA)が毎年春に施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。
天皇賞(春)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天皇賞(春)の概要
従来、「天皇賞」のウィキペディアは、一つの記事にまとめられていたのですが、2022年春になって、春と秋で独立した記事に分離され、「天皇賞」全体の歴史との3本柱での構成となりました(ある意味で見やすくなったと感じます。)
概要 [編集]
天皇賞(春)
4歳以上の馬(外国産馬・外国馬を含む)による重賞競走(GI)。施行距離は1939年(昭和14年)以来3,200メートルで変わっておらず、現存する中央競馬の平地GI競走では最長距離。
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IFHA(国際競馬統括機関連盟)にみる超長距離レースのレーティング
上の記述を、2016年以降で整理し直してみます。IFHAのホームページを参考としています。こちら。
レース名 | 条件 | ’21 | ’20 | ’19 | ’18 | ’17 | ’16 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
天皇賞(春) | 日/3200 | 118.00 | 117.25 | 117.25 | 118.00 | 121.25 | 117.50 |
菊花賞 | 日/3000 | 115.75 | 116.75 | 116.25 | 117.25 | 115.25 | 118.50 |
ゴールドC | 英/4014 | 119.00 | 119.25 | 118.00 | 117.50 | ||
グッドウッドC | 英/3219 | 116.50 | 118.00 | ||||
セントレジャー | 英/2921 | 116.75 | 116.75 | 118.75 | |||
ロワイヤルオーク賞 | 仏/3100 | ||||||
カドラン賞 | 仏/4000 | 116.50 | |||||
ロワイヤリュー賞 | 仏/2800 | ||||||
愛セントレジャー | 愛/2816 | 115.75 | 117.50 | ||||
メルボルンC | 豪/3200 | 117.00 | 116.75 | ||||
シドニーC | 豪/3200 |
実は、日本の長距離競走というのは、世界的にみてもハイレベルで、そもそも6年連続(2016年以降)で「115」以上のレーティングを維持している超長距離(Extended:2,701m以上)GIレースは、世界で2つ(天皇賞・春、菊花賞)しかないのです。
※イギリス平地の古馬GIでは売上面でトップ級という「ゴールドC」は、ストラディバリウスの3連覇などもあり、レースそのものというより勝ち馬にレースレーティングが大きく左右された印象です。
「天皇賞」の歴史について
天皇賞は、日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「The Emperor’s Cup(エンペラーズカップ)」までさかのぼると1905年(明治38年)に起源を持ち、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある。
天皇賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天皇賞の前身は、オフィシャルには「帝室御賞典」、そしてその前身となる「エンペラーズカップ」とされています。明治の終わり頃なので軽く100年以上の歴史があります。しかし、もう少しだけ情報を補強しておきます。(それが今回の記事の本題ではないので、端折る部分は端折りますが、)
明治~昭和初頭:2つの前身競走
今我々が想像する「天皇賞」には、実質的に2つの前身となる競走があったことをご存知でしょうか。次の2つです。
項目 | 帝室御賞典 | 連合二哩 |
---|---|---|
創設 | 1900年代以前 | 1911年 |
開催地 | 各地(全国7場) | 少数(東西1場) |
距離 | 1800m前後 | 3200m(二哩) |
出走 | 勝ち抜けるまで 複数回挑戦可 | 生涯1度きり |
優勝品 | 賞金なく商品のみ | 破格の賞金 |
日本ダービーなどが出来る前の日本の2つのビッグレースの良いとこどりしたようなレースが、現在の「天皇賞」なのです。上はあくまで大正時代あたりのイメージなので、時期により本当に条件が異なる点は注意が必要です。詳細は今回の本題と外れるので別項に譲ります。要するに、
- 長距離が優遇された時代に、由緒ある「二哩(3200m)」で争う
- 生涯1度の大舞台 …… 今でいう「日本ダービー」みたいなレース
- 春/秋で東西1回ずつ …… 今でいう「グランプリ」のような最強馬決定戦
という今の「天皇賞」でイメージするレースの「実」の部分を持っていた「連合二哩」に、
- 「勝ち抜ける」まで複数回挑戦可
- 天皇から商品が下賜される(最高の栄誉)
という「帝室御賞典」の「箔」の部分を融合させたのが、今の「天皇賞」のルーツなのです。明治に始まり、大正・昭和1桁と続いてきた体系を大転換したのは、1930年代後半のことでした。
昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した日本競馬会に統合され、一本化されることになった。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧・鳴尾競馬場)、秋に東京競馬場で年2回施行することとなった。
年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでおり、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である。
また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬の競走とは明確に線引きされた。
天皇賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
時期はちょうど、天皇賞のみならず、日本ダービー以外のクラシック競走の発足時期でもありました。
昭和10年代:阪神競馬場で春の「帝室御賞典」
もともと「帝室御賞典」を関西で開催していたのは阪神競馬場でした。京都競馬場では開催されていなかったのです。それだけでなく、もうひとつの前身である「連合二哩」も開催されていたのは阪神(旧・鳴尾)競馬場であり、京都で常設されたのは牝馬限定の連合競走のみでした。
そういった歴史から、関西で行われる春の「帝室御賞典」は、1938年5月15日、阪神競馬場で開催されることとなりました。初回に限り距離は2700mでしたが、2回目からは3200mとなります。
秋と通算で第2回という数え方になる初回は、前年に牝馬として初めて日本ダービーを制したヒサトモが、昨年秋のリベンジを狙いますが3着と敗れ、古馬になって力をつけてたハセパークが優勝します。
その後は、1943年まで阪神で開催され、1939年(第4回)は前年のダービー馬・スゲヌマが圧倒的な強さで連勝を伸ばすと、その翌1940年(第6回)は、クモハタ世代の現4歳4強が激突しトキノチカラが勝利するなど、華やかなレースが続きました。
戦争の拡大に伴い、競馬場は1943年(昭和18年)4月の春季競馬を最後に海軍基地として接収され、阪神間防衛の最前線となる飛行場(鳴尾飛行場)として利用された。
鳴尾競馬場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今は「鳴尾記念」として名を残す鳴尾の阪神競馬場が接収されると、1944年(終戦の前年)は「能力検定競走」として京都競馬場で開催されます。結果的に、これ以降、「天皇賞」は(改修工事などを除いて)京都競馬場での開催に移ることとなります。
昭和20年代:「平和賞」として再出発
終戦を経て正式に京都競馬場での開催となった本競走。1947年は「平和賞」として開催されましたが、その翌年には「天皇賞」と名称を変え、ほぼ現在の体制が整います。
現3歳は、秋深い時期に行われる「菊花賞」に挑戦するのが当たり前の時代。普通は「天皇賞(秋)」に出走しなかったため、古馬になって年明けの大目標が、生涯初の天皇賞となる天皇賞(春)でした。出走する殆どが現4歳馬だったこともありますが、昭和20年代の勝ち馬はすべて現4歳馬ですよね。
いわば、クラシック三冠が明け4歳でも続いているような感覚で、一流馬が揃い名勝負が繰り広げられました。例えば、
- 1947年オーライト
戦後初は、セントライトの息子が初タイトル
- 1948年シーマー
リベンジ目指す5歳馬カツフジと「ハナ差」レコード決着
前年のダービー馬・マツミドリは4着 - 1949年ミハルオー
前年のダービー以来5連敗の同馬が復活の優勝
- 1953年レダ
2着:クインナルビーと牝馬2頭がワンツー
牝馬による「天皇賞(春)」の優勝は史上唯一 - 1954年ハクリヨウ
前年の2冠馬ボストニアンを6馬身突き放し、
秋以降の充実を見せつける
以上といった具合です。ちなみに、名牝・レダを最後(唯一)に、牝馬が天皇賞(春)を勝てていないことについては、昨年「note」に記事をまとめてありますので、そちらもお読みください。(↓)
昭和30年代:グランプリ創設、5歳馬も優勝し始める
戦後まもなくは、古馬最大の目標が「天皇賞」であり、勝ち抜け制もあって、一度勝ってしまうと目標となるレースがありませんでした。故に、現4歳時に天皇賞を勝って引退するというのが基本パターンでしたが、昭和30年代に入ると徐々に変わってきます。
有馬記念が1956年、宝塚記念が1960年に創設されると、天皇賞を勝ち抜けた後も目標となるレースができ、古馬になっても現役を続ける動機が強まったのです。そうした時代の変化は、天皇賞で5歳馬が勝つようになってきたことともリンクしているかも知れません。
まだ関東馬が「宝塚記念」に出走することは多くなかった時代ですが、それでも関西馬にとっては目標が増えたこともあり、層が厚くになったことは古馬戦線の魅力増にも繋がりました。ちなみに、昭和30年代の天皇賞(春)を制した馬は軒並み関東馬で、1964年の【ヒカルポーラ】が阪神所属として意地をみせた以外、関西馬は地元で優勝をおさめることが出来ない時代でもありました。
昭和40年代:2桁頭数の出走が当たり前に
1960年代までは1桁頭数しか出走しないことも多かった天皇賞(春)ですが、1970年代に入ると必ず2桁頭数が出走するようになります。そして、昭和40年代の10年間は、すべて1~2番人気のどちらかが天皇賞馬となっており、極めて重厚感のある八大競走に相応しい格式のレースとなりました。
徐々に中距離馬が自分のテリトリーで活躍することが認識され始めた時代。まだ、中距離適性の馬が「天皇賞」に出走することも多かった時代ですが、例えば、1974年。【タケホープ】がクビ・クビ差の接戦を制して天皇賞馬に輝いた時、1番人気に支持された【ハイセイコー】は、5馬身近く離されての6着でした。
昭和50年代:勝ち抜け制廃止、「GI」に格付け
1981年、天皇賞の「勝ち抜け制」が廃止され、複数回出走が可能となります。前身時代には、稀に例外もあったのですが、戦前以来の大変革となりました。また「天皇賞(秋)」が距離2000mに短縮され、「天皇賞(春)」が古馬唯一の長距離レースとして独自の存在感をアピールするようになります。
- 1976年エリモジョージ
杉本清アナが盛り立てて、12番人気ながら快勝
- 1977年テンポイント
地元で重賞3連勝での初の八大競走制覇
グリーングラスは4着 - 1978年グリーングラス
TTなき中、1番人気に応えて昨年のリベンジ達成
- 1981年カツラノハイセイコ
父(ハイセイコー)のリベンジ達成で天皇賞制覇
日本ダービー2年ぶりの八大競走制覇
1984年(昭和59年)、ミスターシービーは故障して戦線を離脱する時期でしたが、グレード制が施行され、当然のごとく「天皇賞(春)」は「GI」に格付けされます。
昭和60年代:ルドルフ、5冠馬を達成
- 1985年シンボリルドルフ
現3歳にして4冠を達成したシンボリルドルフが、
シンザン以来となる5冠馬を達成 - 1987年ミホシンザン
菊花賞以来1年半ぶりのGI制覇。
ハナ差で2位入線のニシノライデンが失格処分 - 1988年タマモクロス
6連勝でGI初制覇(重賞も4連勝)
- 1989年イナリワン
平成初の天皇賞で中央初勝利。しかも5馬身差レコード勝ち
1990年代:武豊4連覇、名ステイヤーが歴史を築く
1990年までは昭和天皇の誕生日だった4月29日に祝日開催されてきましたが、その後は通常の日程の日曜開催となります。時代の変化をこうしたところからも感じます。
※むしろ、1957年から1990年までほぼ毎年、曜日に関わらず祝日開催だったことを知らない世代も、今や増えてきていることかと思いますが。
平成初頭からの競馬ファンならば、勝ち馬をみるだけで名勝負が思い起こされることでしょう。そして特筆すべきは、“平成の楯男”とあだ名された「武豊」騎手の4連覇です。
メジロマックイーンの連覇と、3連覇を阻んだライスシャワーの勝利。そのライスシャワーの2年ぶりの復活の優勝。他にも、ビワハヤヒデ、サクラローレル、マヤノトップガン、メジロブライト、スペシャルウィークと、錚々たる天皇賞馬が名を連ねます。そして、敗れた馬の中には、
- (1990年)2着:イナリワン
- (1992年)5着:トウカイテイオー
- (1996年)2着:ナリタブライアン
がいるというのも、非常に印象的で天皇賞の格を更に重んじさせる結果となりました。20世紀の終わり頃は、名実ともに「古馬最高の栄誉」といっても過言ではありませんでした。
2000年代:人気薄が4勝(2桁人気が3勝)と変化
2000年代に入っても、1番人気として勝ったテイエムオペラオーとディープインパクトは、平成の競馬史を彩る名馬ですし、2番人気で制したマンハッタンカフェやメイショウサムソンはクラシックホースの意地を見せる格好となりました。アドマイヤジュピタは3番人気で制しています。
しかして、他の4戦は1951年以降で1例しかいなかった7番人気以下での優勝です。なんというか立て続けに発生する、そんなイメージのレースとなったのです。具体的に見ていきましょう。
- 2003年ヒシミラクル
前年の菊花賞馬が7番人気の低評価を覆す優勝
- 2004年イングランディーレ
エリモジョージ以来28年ぶりの2桁人気での勝利
4歳4強(ゼンノロブロイが2着)総崩れ
交流重賞を主戦場にしていた10番人気の同馬が逃げ切り - 2005年スズカマンボ
2年連続の2桁人気、史上最低の13番人気での勝利
前走オープン戦で1・2着だった2頭が天皇賞でワンツー
2着・ビッグゴールド(14番人気)で馬連が85,020円 - 2009年マイネルキッツ
3番人気以下総崩れ、12番人気のマイネルキッツが勝利
主な勝鞍:1600万下での大激走で単勝4,650円
重賞未勝利での天皇賞(春)は、ニチドウタロー以来29年ぶり
こうした背景には、人気馬が3200mを未経験で、距離をこなせずバテて敗走。レース展開なども味方して、長距離に実績のある馬を人気馬が凌ぐ展開が目立ちました。
2010年代:数える程度のステイヤーの年1度の舞台に
2010年代に入ると、春競馬の古馬路線は多様化の一途をたどります。ドバイミーティングへの出走は、もちろんのこと、香港などアジア圏の国際競走への遠征や、「大阪杯」のGI昇格などです。
かつては、「天皇賞(春)」が最初のビッグレースでしたが、時期が1か月ほど早まり、しかも距離が手頃(2000m前後)のレースが急速に充実しだしたのです。その結果どうなったか。
中距離路線をメインとする馬にとって、3~4月に1戦、6月の宝塚記念に1戦という春2戦(+α)が主流になり、その間にある「天皇賞(春)」はもはや眼中になくなってしまったのです。
見方を変えれば、ステイヤーにとって「年に1度の大舞台」で、春の最大目標であることに変わりはありません。その他の馬にとって、魅力が落ちただけなのです。これは「菊花賞」の地位低下とほぼ同じ潮流といえるでしょう。
かつては古馬の一流馬が(距離適性を多少無理してでも)出走していた「天皇賞(春)」。しかし今や「ドバイターフ・シーマクラシック」、「大阪杯」、「クイーンエリザベスII世C」などに分散され、そこを戦った馬の殆どが天皇賞をスキップすることを思えば、一流馬の出走頭数が従来の4~5分の1に減っているという懐事情があると思います。
平成20年代の前半は、平成初頭とは比べ物にならないほど「天皇賞(春)」の実態としての格式は低下してしまっていました。単勝159倍のビートブラックが、11着と大敗するオルフェーヴルを後目に優勝した時は、時代の変化を感じてしまいました。
しかしその後は一転して人気馬の好走が続いています。どういった変化があったのか考えてみました。
こうした結果、天皇賞(春)には、長距離が未知数な馬が出走しなくなり、実績のある馬が底堅い人気を集めることも増えました。適性のある馬が順当に勝つ分かりやすい構図の年が増えたのです。
平成終盤に連覇を達成した3頭:フェノーメノ、キタサンブラック、フィエールマン は、この舞台(天皇賞・春)でこそ強さを発揮する印象もありましたし、その他の勝ち馬:ゴールドシップ、レインボーライン、ワールドプレミア も結果を知ってしまえば長距離に順応できる馬でした。
2017年以降1・2番人気が掲示板は外していないことからも、一時期に比べて実績に基づく人気傾向が強まり、凡走するリスクが多少軽減されたようにも感じます。(今回もそうとは限りませんが)
そして、ここ数年で複勝圏内に入ったのは、中長距離路線の重賞で善戦しているタイプの馬が多くて、一時期のように重賞未勝利だったり別路線を走っていた馬が激走することは減ってきています。ただ、そうして軽視するとあっと驚く激走をするのが世の常ですので、3200mの長丁場、色んな想定はしておいた方が良いかも知れません(^^;
年 | レースR | 勝ち馬 |
---|---|---|
2016 | 117.50 | キタサンブラック |
2017 | 121.25 | キタサンブラック |
2018 | 118.00 | レインボーライン |
2019 | 117.25 | フィエールマン |
2020 | 117.25 | フィエールマン |
2021 | 118.00 | ワールドプレミア |
2022 |
レースレーティングでみると、中距離GIに比べると見劣りするものの、世界的にみると超長距離GIで、これだけ安定したレーティングを刻んでいる古馬GIは他にないという事実もあります。
近年で最も高かったのは、2017年の「121.25」で、この年は1着がキタサンブラック、2着がシュヴァルグラン、3着がサトノダイヤモンドで、4着のアドマイヤデウスは10番人気でしたが、2着とクビ-クビの0.1秒差でしたから、レーティングを押し上げた形となっています。
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